『お前のためを思って言っている』が千回記された日記帳が、社交界に流出した件
日記帳を回し読みする令嬢たちの顔色が、一人ずつ変わっていく。
最初に読んだマリアンネ嬢は、三ページ目で眉をひそめた。次に受け取ったエルゼ嬢は、十ページを過ぎたあたりで唇を噛んだ。そして三人目のヴェロニカ嬢が——日記帳を持つ手を、震わせた。
「これ……全部、一人の人に言われたの?」
ヴェロニカ嬢が顔を上げた。青ざめている。声が裏返っていた。
「ええ。三年間、毎日」
私はそう答えた。紅茶のカップを持ち上げて、一口飲んだ。春の陽気にしては少し冷たい風が、ガゼボの天蓋を揺らしている。
——不思議なものだ。
私がこの三年間、毎日言われてきたことを、他人が読むとあんな顔になるのか。
私はただ「確かめたかった」だけだった。あの言葉たちが「普通」なのか、そうでないのか。自分の感覚がおかしいのか、おかしくないのか。だから書き留めた。感想は書かなかった。解釈も加えなかった。日付と、彼が言った言葉だけ。それだけを。
三年分。千回を超える「お前のためを思って言っている」を。
始まりは、四年前のことだった。
ライヒェル子爵家の令嬢である私と、ホーエンベルク侯爵家の嫡男ディートリヒ様との婚約が成立したのは、私が十七歳の春だ。あれから四年。二十一になった今の私は、あの頃の私とはまるで別人になっていた。
家格で言えば、子爵家と侯爵家では大きな差がある。父は「お前の将来のため」と喜んでいたし、母も「素敵な方ね」と微笑んでいた。ディートリヒ様は確かに端正な方だった。金髪をきっちりと整え、服にシワひとつなく、背筋は定規で引いたように真っすぐだった。
「よろしく頼む、カティア」
初めて二人きりで会った日、ディートリヒ様はそう言った。冷たい青の瞳で、しかし穏やかな声で。
私は嬉しかった。この方となら、きっとうまくやっていける。そう思った。
——最初の「指導」が始まったのは、婚約から二ヶ月後のことだった。
食事会の帰り道だった。馬車の中で、ディートリヒ様が言った。
「カティア。スプーンの持ち方が違う」
「え……?」
「中指の位置が高すぎる。普通の令嬢なら、子供の頃に直されているものだが」
私は手を見た。自分のスプーンの持ち方がおかしいと思ったことはなかった。でも、侯爵家の方がおっしゃるのだから、きっとそうなのだろう。
「……すみません。気をつけます」
「ああ。お前の家ではこう教えるのか。道理で子爵家どまりだ」
その一言が胸に刺さった。でも——ディートリヒ様は笑っていなかった。冗談ではない。真面目に、私のために言ってくださっているのだ。そう思った。
その日の夜、私はスプーンの正しい持ち方を本で調べた。ディートリヒ様が指摘した通りではなかったけれど——きっと、侯爵家には侯爵家の作法があるのだろう。
三ヶ月目。
「その令嬢と会うのはやめなさい」
ディートリヒ様は、私の親しい友人の名を挙げた。
「え、でも……幼い頃からの——」
「お前に悪い影響を与えている。品のない笑い方をするようになった。あの令嬢の真似だろう?」
「そんなことは——」
「私はお前のためを思って言っているんだ」
初めてその言葉を聞いた日のことを、私は覚えている。お前のためを思って言っている。その言葉は、とても優しく聞こえた。この方は私のことを考えてくれている。だから厳しいことも言ってくれるのだ。
「なぜわからない?」
ディートリヒ様が首を傾げた。本当に不思議そうに。本当に困ったように。——私が「わからない」ことが、この方にとっては不思議で、困ったことなのだ。
「……すみません。おっしゃる通りです」
私はそう言って、友人に断りの手紙を書いた。
四ヶ月目。
舞踏会の前日、ディートリヒ様が私の話し方について指摘した。
「カティア。お前の話し方には問題がある」
「話し方……ですか?」
「語尾が上がる。自信がない人間に聞こえる。侯爵家の婚約者として、そんな話し方は許されない」
「すみません、気をつけ——」
「ほら、また語尾が上がった。私の言ったことを聞いていたのか?」
ディートリヒ様はため息をついた。深く、長い、芯から呆れたようなため息。私が何かを間違えるたびに、この方はこのため息をつく。そのたびに、私は自分が空気を汚したような気持ちになる。
「私が怒っていると思うか? 怒っていない。お前のためを思って言っているんだ。直す気があるなら、それでいい」
直す気はあった。でも、どう直せばいいのかわからなかった。語尾が上がる——そう言われると、自分の声がどう聞こえているのか不安になって、余計に声が小さくなる。声が小さくなると「聞こえない」と言われる。大きくすると「品がない」と言われる。
どちらに転んでも、間違いだった。
半年目。
「その服は品がない。侯爵家の婚約者にふさわしくない」
私が好きだった淡い桜色のドレスを着た日だった。母が仕立ててくれた、気に入りの一着だった。
「私が選んだものを着なさい。お前にはセンスがない」
「……はい」
「紺か灰か、白。それ以外は着るな。お前は顔立ちが地味なのだから、派手な色を着ると余計に浮く」
ディートリヒ様は腕を組んで私を見下ろした。服にシワひとつない、完璧な正装。冷たい青の瞳が、私の桜色のドレスを値踏みするように見ている。
「いいな? これは命令ではない。助言だ。お前が恥をかかないように言っている」
「……すみません。ディートリヒ様のおっしゃる通りにします」
その夜、桜色のドレスを箪笥の奥にしまった。母に申し訳ないと思いながら。でも——ディートリヒ様の言うことは正しいのだと、自分に言い聞かせた。
侯爵家の方が正しい。私が間違っている。だから直してもらえるのは、ありがたいことなのだ。
婚約して八ヶ月目、父の誕生祝いに帰省した時のことだった。食卓で私が取り分ける料理の盛り方を見て、母が首を傾げた。
「カティア、前はもっとのびのび盛り付けていたわね。随分と控えめになったわ」
「……ディートリヒ様に、これが正しいと教えていただいたので」
母は何か言いかけて、やめた。その顔を今でも覚えている。何かを飲み込むような、それでいて娘を問い詰めるのは違うと踏みとどまったような——複雑な表情だった。
あの時、母は気づいていたのかもしれない。私の中から何かが少しずつ消えていっていることに。でも母も私と同じで、侯爵家の婚約者のことに口を出すべきではないと、黙ってしまったのだろう。
——本当に?
ふとした疑問が頭を過った。あの言葉は、本当に「お前のため」なのだろうか。でも、そう考えること自体が間違いなのかもしれない。ディートリヒ様を疑うなんて。こんなにも私のことを考えてくださっているのに。
——でも。
もし「普通」が知りたいのなら、記録するしかない。
私は日記帳を買った。革表紙の、何の変哲もない日記帳。そこに書くことを決めた。ディートリヒ様が言った言葉だけを。感想は書かない。解釈も加えない。日付と言葉だけ。
これは恨みではない。確認だ。この言葉たちが「愛情」なのか「普通のこと」なのか、いつか振り返った時にわかるように。
日記の最初のページ。
四月三日——「その笑い方は下品だ。もっと口を小さく開けなさい」
四月五日——「お前のためを思って言っている。なぜ毎回同じ間違いをする?」
四月八日——「普通の令嬢なら、こんなことは言わない」
四月十日——「私が怒るのは、お前が直さないからだ」
四月十二日——「また同じ失敗か。お前は学ばないな」
一ヶ月で三十回。
最初は、日記に書き留める手が少し震えた。ディートリヒ様の言葉を「記録する」という行為が、何か後ろめたいことをしているような気がして。
でも——書いているのは事実だけだ。ディートリヒ様が実際に口にした言葉だけ。それのどこに後ろめたさがあるのだろう。
三ヶ月。九十回。
六月十五日——「お前の家柄が低いから、余計に気を遣わなければならない。わかるか?」
六月二十日——「その口調は直せ。私の前では敬語を使いなさい」
六月二十八日——「お前が泣くのは卑怯だ。泣けば許されると思っているのか」
半年。百八十回。
日記帳の半分が埋まった。ページをめくると、同じような言葉が並んでいる。「お前のためを思って」「普通はこうだ」「お前が悪いから」。少しずつ表現は変わっても、言っていることはいつも同じだった。
一年目で、日記帳の一冊目が終わった。三百六十五回。私は二冊目を買った。
このあたりから、自分の感覚が少しずつおかしくなっていったのを覚えている。
好きだった本を読まなくなった。ディートリヒ様に「くだらない小説ばかり読んでいるから思考が浅い」と言われたからだ。
友人との手紙のやり取りをやめた。「お前が書く文章は幼稚だ。人に見せるな」と言われたからだ。
鏡を見なくなった。「その顔で自分を見て何になる」と——いや、これはディートリヒ様は言っていない。言っていないのに、私が勝手にそう思うようになった。
ディートリヒ様の言葉が、私の中に住み着いていた。声が聞こえなくても、私の中のディートリヒ様が「それは違う」「お前が間違っている」と囁き続ける。
二年目。七百三十回。日記帳は三冊目に入った。
この頃には、もう「おかしい」と思う感覚すら薄れていた。ディートリヒ様の言うことは正しい。私が至らないから指導してくださっている。それは愛情だ。
ある日、ディートリヒ様にこう言われた。
「カティア。お前は以前より従順になった。成長したな」
その言葉を聞いた時、私は——嬉しいと感じてしまった。褒められた、と思ってしまった。
日記帳にその言葉を書き写しながら、ペンが止まった。
これを「褒め言葉」と感じる自分は、おかしいのではないか。「従順になった」——つまり、私が私でなくなったことを、喜ばれているのではないか。
その疑問は、霧のように浮かんで、すぐに消えた。考えると苦しくなるから。
——でも、手は止めなかった。日記だけは書き続けた。
なぜだろう。自分でもわからなかった。もう「確認」の意味はなくなっていたかもしれない。ただ、書くことだけが、私と「外の世界」をつなぐ細い糸だったのかもしれない。書いている間だけは、ディートリヒ様の声が遠くなる。ペンを持つ指先だけが、まだ私自身のものだと感じられた。
三年目。日記は千回を超えた。
千という数字に特別な意味はない。でも——三冊の日記帳を並べた時、その厚みに、さすがに息を呑んだ。これだけの言葉を、私はひとりで受け止めてきたのか。
婚約破棄は、あっけないものだった。
ホーエンベルク侯爵邸の応接間。ディートリヒ様は、いつもと同じように背筋を伸ばし、服にシワひとつない完璧な姿で、向かいの椅子に座っていた。
「カティア。率直に言う」
「はい」
「お前は侯爵家にふさわしくない。三年間、私が指導し続けたが、改善が見られない。これ以上は時間の無駄だ」
私は黙って聞いていた。
「もっと華やかで、侯爵家にふさわしい令嬢を迎えることにした。お前との婚約は破棄する」
「……わかりました」
泣かなかった。怒りもしなかった。ただ頷いた。——もう慣れていた。ディートリヒ様から否定されることに。
「お前のためにも、これが良いだろう。私がいなければ、お前は指導を受けられなくなるが……まあ、子爵家で細々とやっていくなら、今の程度でも困らないだろう」
最後まで、この方は「お前のため」だった。
私は立ち上がり、一礼した。
「三年間、お世話になりました」
馬車に乗り込む時、不思議なことに気づいた。
身体が軽い。
三年ぶりに、胸の上に乗っていた重石が消えていた。
実家のライヒェル子爵邸に戻ると、父と母が心配そうに迎えてくれた。
「カティア、大丈夫かい」
「ええ、お父様。大丈夫です」
大丈夫だった。本当に。侯爵家に見合わないと言われたことよりも、この家の玄関の匂い——母が好きな花の匂いが、どうしようもなく懐かしかった。
後日、父が書斎で呟いたのを聞いた。「侯爵家からの一方的な破棄だ。補償を求める権利はある」——けれど父は、結局何も請求しなかった。「カティアがこれ以上あの家と関わらなくていい。それが一番の補償だ」と、母に言っていたそうだ。
三年前と同じ匂い。でも私は、三年前の私ではなかった。
実家に戻って三日目。ニコラウスさんが訪ねてきた。
ニコラウスさんは二つ年上の幼馴染だ。子爵家の次男で、今は宮廷の文官をしている。茶色の髪が少し長くて、穏やかな茶色の目をしている。昔から、インクで指先が汚れている人だった。
「久しぶりだね、カティア」
「……お久しぶりです、ニコラウスさん」
庭のベンチに並んで座った。ニコラウスさんは、しばらく何も言わなかった。昔から、この人はそうだった。相手の話を遮らない。急かさない。黙っていても、隣にいてくれる。
「……婚約破棄のこと、聞きました?」
「うん。聞いた」
「心配して来てくださったんですね。ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」
「大丈夫?」
ニコラウスさんが私を見た。穏やかな目。でも、その奥に何かが光っている。
「カティア。前に会った時——半年前だったかな。君、笑わなくなっていたよ」
「……え?」
「好きだった本の話もしなくなった。服も、地味なものばかりになった。僕が話しかけても、先に『すみません』って言うようになった」
私は息を呑んだ。
「婚約者のことに口を出すべきじゃないと思って、何も言えなかった。——ずっと後悔してた」
「ニコラウスさん……」
「カティア。あの人に、何を言われてたの?」
——その問いに、私は答えられなかった。言葉にすると、また自分が「おかしいのかもしれない」と思ってしまいそうで。
だから、代わりに日記帳を差し出した。
「……読んでもらえますか」
ニコラウスさんは日記帳を受け取った。表紙を開き、最初のページを読み始めた。
しばらくして、ページをめくる手が止まった。
ニコラウスさんは何も言わなかった。無言でページをめくり続けた。十ページ。二十ページ。五十ページ。
読み進めるにつれて、ニコラウスさんの指が——震え始めた。
インクで汚れた指先が、紙の端を掴む力が強くなっていく。
百ページを超えたあたりで、ニコラウスさんは一度日記帳を閉じた。深く息を吐いた。また開いた。二百ページ。三百ページ。
全て読み終えるのに、長い時間がかかった。
日記帳を閉じたニコラウスさんは、しばらく黙っていた。庭の風が木々を揺らす音だけが聞こえていた。
そして、静かに言った。
「これは普通じゃない」
私の心臓が跳ねた。
「どの一言も、普通じゃない」
ニコラウスさんの声は低かった。怒りを押し殺しているような、でも私に向けた声ではない、そういう低さだった。
「カティア。これは指導なんかじゃない。——言葉の暴力だ」
「でも……ディートリヒ様は、私のためを思って——」
「違う」
ニコラウスさんが私を見た。温かい茶色の目が、泣きそうに歪んでいた。
「君のためじゃない。自分の思い通りにするためだ。『お前のためを思って』という言葉を盾にして、君の感覚を——君の『好き』や『嫌い』を、全部潰していったんだ」
視界が滲んだ。
おかしいな、と思った。三年間、泣かなかったのに。ディートリヒ様に何を言われても泣かなかったのに。
「君が悪いんじゃない」
ニコラウスさんの声が、どこか遠くから聞こえた。
「ずっと——ずっとそう言いたかった」
涙が、止まらなかった。
三年分の涙だった。ディートリヒ様の前では流せなかった——「泣くのは卑怯だ」と言われていたから。実家に帰ってからも流せなかった——泣いたら、自分が壊れてしまいそうだったから。
でも——「君が悪いんじゃない」。
その一言で、蓋が外れた。
私は声を上げて泣いた。子供みたいに。ニコラウスさんは何も言わず、ただ隣にいてくれた。「泣くな」とも「しっかりしろ」とも言わなかった。
ただ、静かに。
どれくらい泣いていたのか、わからない。涙が止まった後も、しゃくりあげる声がしばらく止まらなかった。ニコラウスさんはその間ずっと、黙って隣に座っていてくれた。
ようやく顔を上げると、ニコラウスさんの目が赤かった。泣いていた——私のために、この人も泣いていたのだ。でもそれを私に見せまいとして、こちらを見ないようにしていたのだと気づいた。
——ディートリヒ様なら、きっとこう言っただろう。「泣いて何になる。それだからお前は駄目なんだ」
でもニコラウスさんは、何も言わなかった。それがどれほど救いだったか、この人はきっと知らない。
少しずつ、自分を取り戻していった。
でも「少しずつ」は本当に少しずつだった。
最初の一週間、私は何もできなかった。実家のベッドに潜り込んで、天井を見つめて過ごした。何かをする気力がない——というのとは少し違った。何かをしようとすると、頭の中でディートリヒ様の声がするのだ。
本を手に取ろうとすると、「くだらない小説ばかり読むな」。
窓の外を見ようとすると、「ぼんやりするな、時間の無駄だ」。
母に話しかけようとすると、「お前の話は要領を得ない」。
あの人はもういないのに。声だけが残っている。私の中に住みついた、ディートリヒ様の声。
それが少し薄れ始めたのは、実家に戻って二週間ほど経ってからだった。
母が何も聞かず、毎朝私の部屋に花を一輪置いてくれていた。好きにしなさい、と言うでもなく。がんばれ、と励ますでもなく。ただ花だけ。
ある朝、その花——小さな野薔薇だった——を見て、「きれいだ」と思った。ただそれだけのことだった。でも、その感情が自分のものだと感じた時、涙が出た。「きれいだ」と思うことすら、三年間できなくなっていた。
最初に、箪笥の奥にしまっていた桜色のドレスを出した。母が仕立ててくれた、あの一着。三年間、一度も袖を通さなかったもの。
手に取った瞬間、ためらった。ディートリヒ様の声がする。「品がない」「お前の顔立ちでは浮く」——。
でも、その声に「本当に?」と問い返した。三年間で初めて。
袖を通してみた。鏡に映った自分は——ひどく痩せていた。三年前より頬がこけて、目の下に影がある。でも。
桜色は、悪くなかった。ディートリヒ様は「品がない」と言ったけれど——私は、この色が好きだ。
「好き」だと思えたことが、嬉しかった。三年ぶりに、自分の「好き」が戻ってきた。
次に、本を手に取った。ディートリヒ様に「くだらない」と言われた小説。開いた瞬間、文字が心に沁み込んでくる感覚を思い出した。読書が好きだったのだ、私は。忘れていたのではない。忘れさせられていたのだ。
ニコラウスさんが時々訪ねてきてくれた。私が好きだった本の話をすると、穏やかに笑って聞いてくれた。
「その本、面白そうだね。僕も読んでみようかな」
ある日、ニコラウスさんが訪ねてきた時、私は桜色のドレスを着ていた。
ニコラウスさんは一瞬立ち止まった。それから、インクで汚れた指先で後頭部をかきながら、少し照れたように言った。
「好きな服を着てきたんだね」
「ええ。三年ぶりに」
「……似合ってるよ」
たった一言。でも、その一言が胸に広がっていく温度が、三年間の冷たさを溶かしていくようだった。
茶会に日記を持って行ったのは、偶然に近かった。
婚約破棄から二ヶ月。社交界の春の茶会に、私は久しぶりに出席した。桜色のドレスを着て。
親しい令嬢たちが声をかけてくれた。「カティア、久しぶりね」「婚約破棄、聞いたわ」「大丈夫?」
「ええ。実はそのことで——読んでいただきたいものがあるのです」
私は鞄から日記帳を取り出した。読み上げたりはしなかった。ただ、テーブルに置いて、見せただけだ。
「何これ、日記?」
最初に手に取ったマリアンネ嬢は、軽い調子だった。よくあることだと思ったのだろう。婚約者に小言を言われた令嬢の愚痴——その程度だと。
三ページ目で、マリアンネ嬢の眉がひそめられた。
「ねえ……これ、全部同じ人に言われたの?」
「ええ」
「毎日?」
「はい。三年間」
マリアンネ嬢がエルゼ嬢に日記帳を渡した。エルゼ嬢が読む。十ページを過ぎたあたりで、唇を噛んだ。
「『お前のためを思って言っている』……これ、何回書いてあるの?」
「数えたことはありませんが、おそらく千回は超えています」
日記帳がヴェロニカ嬢の手に渡る。ヴェロニカ嬢は最初の数ページを速読し——そして急にページをめくる手が遅くなった。一行一行、丁寧に読み始めた。
持つ手が、震えていた。
「これ……全部、一人の人に言われたの?」
「ええ。三年間、毎日」
私はそう答えた。三人の令嬢が、同じ顔をしていた。青ざめて、口を覆っている。
「カティア……あなた、三年間これに耐えてたの?」
「耐えていた、というのが正しいのかどうか。当時の私は、これが普通だと思っていましたから」
「普通なわけないでしょう!」
エルゼ嬢が声を上げた。周囲の令嬢たちが振り返る。
「ごめんなさい、でも——これは普通じゃない。どの一行も、普通じゃないわ」
ニコラウスさんと、同じ言葉だった。
ヴェロニカ嬢が静かに言った。
「これ……写してもいい? 他の方にも見せたほうがいいと思う」
「構いません。事実ですから」
私の感想は一行もない。ディートリヒ様が言った言葉だけ。事実だけが書かれた日記帳。それを誰が読もうと、私には止める理由がなかった。
日記帳の写本は、一週間で社交界を一巡した。
令嬢たちの間を、水が染み込むように広がっていった。茶会で、舞踏会で、馬車の中で。日記の内容が話題にならない集まりは、なかった。
写本はいつも同じ順序で読まれたという。最初の数ページを読んだ人は「厳しい婚約者ね」と苦笑する。十ページ目で笑みが消える。五十ページで顔色が変わる。百ページで——手が震え始める。
そして全員が、同じ言葉を口にする。「三年間、毎日これ?」
最初は誰もが「よくあること」だと思おうとしたらしい。婚約者の小言など、どこにでもある話だと。
——でも、読み進めると気づく。
一日や二日の小言ではない。三年間、毎日。千回を超える否定。しかもそのすべてが「お前のためを思って」という善意の衣をまとっている。
殴っていない。怒鳴っていない。ただ穏やかに、論理的に、冷静に——人格を否定し続けていた。
「……怖いわ」
そう呟く令嬢が、一人ではなかった。
ディートリヒ様の耳にも、当然届いた。
最初の反応は、こうだった。
「何がおかしいのかわからない。全部正しいことを言っただけだ」
この言葉が社交界に伝わった瞬間、空気が凍ったという。私はその場にはいなかったが、後からマリアンネ嬢に聞いた。
「あの方、本気で言っていたの。本気で『何がおかしいのか』わからないの。——それが一番怖い」
マリアンネ嬢の声は、震えていた。
次に動いたのは、令嬢たちの母親たちだった。
社交界の母親たちは情報通だ。娘の縁談に直結する問題には、誰よりも敏感に反応する。日記の内容が広まるにつれ、母親たちの間でひそやかに、しかし確実に一つの合意が形成されていった。
「あの家には嫁がせない」
ホーエンベルク侯爵家への縁談が、一件、また一件と消えていった。辞退の手紙が侯爵邸に届くたびに、ディートリヒ様は首を傾げたそうだ。「なぜだ」と。
なぜかわかっていない。それが、また社交界の恐怖を煽った。
ディートリヒ様は弁明を試みた。ある茶会に自ら出席し、居合わせた貴族たちの前でこう述べたと聞いている。
「あれは愛情だ。教育だ。婚約者として、至らない点を指導するのは当然のことだろう。全てカティアのためを思って言ったことだ。何が問題なのか、誰か説明してくれ」
——社交界が、凍りついた。
まだ言っている。
千回目の「お前のためを思って」の後も、まだ言っている。
誰も何も言わなかった。言えなかった。目の前のこの人は、本当に何がおかしいのかわかっていない。反省の余地がない。改善の兆しがない。——だって、悪いことをしたと思っていないのだから。
それが一番怖いのだと、社交界の全員が理解した。
後日、人づてにディートリヒ様の言葉が伝わってきた。
「カティアが日記を広めたのか。恩を仇で返す女だ。私はあれだけのことをしてやったのに」
聞いた時、不思議と怒りは感じなかった。悲しみも。ただ——ああ、やっぱり、と思った。最後まで、あの方は変わらない。変われない。自分が「してあげた」と信じて疑わないから。
私は何も言い返さなかった。言い返す必要がなかった。
全部、書いてあります。あなたの言葉だけが。
私の感想は一行もありません。事実だけです。
事実は、解釈を必要としない。千回分の「お前のためを思って言っている」が、それ自体で真実を語っている。
新しい日記帳を買った。
今度は革表紙ではなく、淡い桜色の表紙のものにした。自分で選んだ。好きな色だから。
最初のページを開いて、少し考えて、こう書いた。
「今日は、好きな服を着た」
たった一行。でも、三年前の私には書けなかった一行だ。
ニコラウスさんが訪ねてきた時、桜色の日記帳を見せた。
「新しい日記?」
「ええ。今度は、自分のことを書こうと思って」
「何を書いたの?」
「『今日は、好きな服を着た』って」
ニコラウスさんが笑った。穏やかな、温かい笑顔。
「いいね。明日は何を書くの?」
「まだ決めていません。でも……きっと、何か良いことを」
窓から入る春の風が、カーテンを揺らした。桜色の日記帳の白いページが、風にめくれる。まだ白紙のページ。これから私が書いていくページ。
ディートリヒ様は——聞いた話では、今も社交界で孤立しているという。縁談は全て消え、茶会に顔を出しても誰も近づかない。それでもなお、こう言い続けているそうだ。
「何がおかしいのかわからない」
それが一番怖いのだと、誰もが知っている。
私は振り返らない。
日記帳の二ページ目を開いた。ペンを取り、少し考えて、書いた。
「今日は、友達とお茶をした。楽しかった」
——楽しかった。
この二文字を、私は三年間書けなかった。「楽しい」という感覚自体を、忘れていたから。
三ページ目に、こう書いた。
「今日は、ニコラウスさんが本を貸してくれた。面白かった、と言ったら、嬉しそうに笑っていた」
四ページ目。
「今日は、お母様と一緒にドレスを選んだ。好きな色を聞かれて、『桜色』と答えた。迷わなかった」
迷わなかった——それだけのことが、どれだけ大きな一歩か。三年間、自分の「好き」を全て否定され続けた私にとって、「迷わずに好きだと言えること」は奇跡に近かった。
五ページ目。
「今日は、笑った。自分の笑い方が下品かどうか、考えなかった」
日記帳は、まだほとんど白紙だ。千回の否定で埋め尽くされた前の日記帳とは違う。一日一行、短い言葉。でも、この一行一行が——私が私に戻っていく道標だ。
ニコラウスさんが、ある日言った。
「カティア。前の日記帳と今の日記帳、並べてみるとわかることがあるよ」
「何ですか?」
「前の日記帳には、『君の言葉』が一つもない。全部、あの人の言葉だ。——でも今の日記帳には、君の言葉しかない」
はっとした。
そうだ。三年間の日記には、私の声は一行もなかった。全て、ディートリヒ様の言葉で埋め尽くされていた。私の感情も、私の意見も、私の「好き」も「嫌い」も——どこにもなかった。
それが、あの三年間の全てだったのだ。私の人生から、私の声が消えていた。
「……ニコラウスさん」
「うん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「気づいてくれて。『普通じゃない』って言ってくれて。——私が泣いた時、何も言わないでいてくれて」
ニコラウスさんは少し困ったように笑って、インクで汚れた指先で頬をかいた。
「僕は……もっと早く言えばよかったって、今でも思ってるよ」
「でも、言ってくれた。それだけで——充分です」
風が吹いて、桜色の日記帳のページがめくれた。まだ書かれていない白いページ。これから埋めていく、私の言葉。
六ページ目に、こう書いた。
「今日は、自分の声で話した。誰かの言葉を借りなかった。——それが、少し嬉しかった」
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のお話は、「善意の暴力」がテーマです。殴らない。怒鳴らない。ただ穏やかに、論理的に、「お前のためを思って」と言いながら人格を否定し続ける。モラハラの一番厄介なところは、加害者本人が「正しいことをしている」と心から信じていることです。
だから証拠が残りにくい。周囲から見れば「厳しいけど愛情深い人」に見えてしまう。被害者自身が「自分が悪いのかも」と思い込んでしまう。——その構造を、日記という形で可視化したかったのです。
カティアの日記には、感想が一行もありません。恨みも怒りもない。ただ事実だけ。でもそれを千回分並べると、異常さが浮かび上がる。事実の力って、そういうものだと思います。
「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ53作目。毎日19時更新の一話完結短編集です。他の作品もぜひ覗いてみてください。
▼ シリーズ作品リンク
・「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ(短編集・毎日更新)
・「沈黙の聖女」(連載版)
・「追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く」(全42話完結)
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・「魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ」(ほのぼの子育て・連載中)
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