第9話:メンタル疾患という地雷原
午前二時。小林拓海(25歳)は、自室のシーリングライトを消し、モニターの輝度を最低まで下げていた。頭には、台所から持ち出したアルミホイルが、不格好な王冠のように幾重にも巻き付けられている。
数ヶ月前の就職活動での失敗と、親からの激しい叱責。それらが拓海の精神構造に決定的な亀裂を生じさせていた。外部からの刺激を処理する能力が限界を超え、彼の脳内演算回路は「情報の受容」を拒絶し、深刻な機能不全に陥ったのだ。今の彼にとって、壁の裏を走る電源タップからの微かなノイズさえも、自らの脳細胞を焼き切る電子兵器の指向性エネルギーのように感じられた。
「……思考を、読み取られている」
拓海は、震える手でアルミホイルの端を整えた。
かつての自分が持っていた理性が、これが非科学的な迷信であると冷徹に告げている。アルミホイルが電波を完全に遮断するはずもなく、ましてや「思考の傍受」などというテクノロジーが存在しないことも理解している。
しかし、そうでもしなければ、脳内に雪崩れ込んでくる「社会の毒気」に、自分の核が溶かされてしまうという切迫した恐怖に耐えられなかった。
脳内での連想ゲームが、極限まで先鋭化する。
父の「甘えるな」という怒鳴り声。母の「どうしてこうなったの」という溜息。それらすべてが、不可視の電磁波となって拓海のニューロンをハッキングし、彼を「まともな人間」という規格に強制書き換え(フォーマット)しようとしている。アルミホイルは、もはや物理的な遮蔽物ではなく、彼が最後に残した「自我の防壁」そのものだった。
バタン、と一階でドアが閉まる音がした。父・健一の帰宅だ。拓海は息を潜めた。階下から、父と母・美枝子の、刺々しい会話が漏れ聞こえてくる。
「……また拓海はあの格好か? 美枝子、見たか。あいつ、頭にアルミホイルなんて巻いて。ついに、本当におかしくなったんじゃないのか」
「お父さん、声が大きすぎるわ。拓海は今、とても繊細な状態なの。お医者様にも、無理に刺激しちゃいけないって……」
「刺激だと? 刺激が必要なんだよ! あいつはそうやって『病人』の椅子に座ることで、俺たちの責任を追及しているんだ。あれは病気じゃない、俺たちへの当てつけだ!」
拓海は、アルミホイル越しに耳を塞いだ。
父の言葉は、放射能のように壁を透過して自分を汚染していく。父にとっては、拓海のこの「異常」さえも、親を攻撃するための戦術に見えているのだ。
枕元には、心療内科で発行された診断書が置かれている。『抑鬱状態、および心身の衰弱』。それは自分を外界から守る防弾チョッキだが、それを着ている限り、誰とも肌を触れ合うことはできない。
美枝子が階段を上がってくる音がする。拓海は素早く布団を被り、胎児のように丸まった。
「拓海、お粥を持ってきたわよ。……大丈夫、お母さんはあなたの味方だからね」
ドアの隙間から差し込む光と、母の「救済」という名の情念が、アルミホイルの表面で乱反射する。
拓海は、暗闇の中でただじっと、銀色の世界の内側に閉じこもっていた。誰も信じられない。誰も理解できない。この地雷原の真ん中で、彼は自らを「故障」させることでしか、自分を守る方法を知らなかった。
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【戦況報告】
小林家・メンタル地雷原戦線。
ニート軍(拓海)、精神的過負荷により「自己隔離モード」へ移行。アルミホイルを用いた独自の防護隔壁を構築し、外部情報の受信を拒絶。
親軍は、これを「サボタージュ」と見なす父と、「保護対象」と見なす母の間で戦略的混迷が継続。
相互理解の試みはすべてノイズとして処理され、戦場は不可視の霧に包まれる。
本日の戦果:アルミホイル製防護ヘルメット(三層構造)、および隔離の維持。
損害:論理的対話能力、および親和的感情(壊滅的)。




