第8話:継承戦争
午前九時、河村大輔(31歳)の部屋のドアが、ノックではなく「宣告」のような重みで叩かれた。
現れたのは、かつて大輔を「怠け者」と罵り、一時は絶縁寸前まで追い込んだ父・泰三だった。しかし、今日の泰三の表情には怒りではなく、獲物を罠に追い詰めた猟師のような、不気味な落ち着きが宿っていた。
「大輔。お前が『組織に縛られたくない』という理屈で働かないなら、その理屈を正式な『社風』にしてもらおう」
泰三がデスクに叩きつけたのは、数枚の登記簿謄本と、手垢で汚れた賃貸管理の台帳だった。
河村家が代々継承してきた、地方の老朽化した賃貸アパート三棟。少子高齢化と過疎化の波に呑まれ、入居率四割を切った「負の遺産」だ。管理会社からも見放され、修繕費ばかりが垂れ流されるその箱舟を、泰三は大輔に丸投げしようというのだ。
「今日からお前が管理会社の『社長』だ。名刺も刷ってやる。誰に命令されることもない、お前だけの城だ。ただし、半年以内に黒字化しろ。できなければ、この家もアパートもすべて売り払い、俺たちは老人ホームへ行く。お前は文字通り路頭に迷うことになる」
大輔の脳内で、防衛本能と知的好奇心が火花を散らす。
これは「懐柔」であり、同時に極めて悪質な「罠」だ。泰三は、大輔が社会を拒絶している理由が「無能」だからではなく、「他人のルールで踊らされるのが嫌いなだけ」だと見抜いたのだ。ならば、大輔自身を「ルールの作成者」という檻に閉じ込め、逃げ場を塞ぐ。
(……親の土俵で相撲を取るのは癪だが、このまま四畳半で死ぬのを待つよりは、マシなゲームかもしれない。赤字資産の再建。俺の知性で、このゴミ溜めを外科手術してやる……!)
大輔は、台帳を奪い取るように受け取った。
しかし、いざ実地の「戦場」へ向かうと、そこにはスプレッドシート上の数字では決して記述できない、泥臭い現実が待ち構えていた。
アパート『栄光荘』。
壁面はひび割れ、廊下には正体不明の粗大ゴミが放置されている。入居しているのは、家賃を滞納し続けている高齢者や、定職を持たない、大輔よりも深刻な「底辺」を這う住人たち。
「……なんだ、あんた。管理会社の新しい奴か?」
部屋から出てきた住人は、大輔を値踏みするように睨みつけた。
大輔は、脳内でシミュレーションしていた「論理的な滞納金請求」を行おうとした。だが、相手の放つ酒臭い吐息と、社会への恨みが凝縮されたような眼光を前に、言葉が喉に張り付く。
目の前にいるのは、データ上の「入居者」ではない。生活の悪臭、病の気配、そして法も理屈も通用しない「剥き出しの生」だ。
大輔は、自分が軍師を気取っていた自室の椅子がいかに温かかったかを痛感した。泰三が与えたのは「社長」という名の、最も過酷な泥仕合の最前線だった。
夕暮れ、大輔は事務所代わりのリビングに戻った。泰三が、ソファでニヤニヤしながら大輔を眺めている。
「どうだ、社長。現場の風通しは良かったか?」
「……父さん。これは嫌がらせか?」
「いいや。継承だ。俺たちが守ってきた、この泥臭い社会の一欠片をな。お前のスプレッドシートに、そこの住人たちの『体臭』は書き込めるのか?」
大輔は、一言も言い返せなかった。
父の土俵。そこは、理屈だけでは一歩も進めない、摩擦だらけの荒野だった。大輔は自分の部屋に戻り、真っ暗な天井を見つめた。
明日も、あのアパートへ行かなければならない。それは、ニートという名の殻を、親の手によって最も屈辱的な方法で引き剥がされる、終わりのない実戦の始まりだった。
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【戦況報告】
河村家・資産管理戦線。
親軍による「継承」を名目とした奇襲。ニート軍(大輔)を「社長」という地位に拘束し、強制的に最前線(老朽アパート)へ投入。
論理攻撃は、現実世界の「摩擦」と「情念」の前に威力半減。
自立を促す親の狡猾な戦略により、ニート軍、敵の土俵における長期的な消耗戦を強いられる。
本日の戦果:登記簿謄本(入手)、および住人による冷笑。
損害:自室という安全地帯の独占権(実質的な喪失)。




