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ニート戦線異状あり ― 親とニートの攻防 ―  作者: 五平


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7/12

第7話:ニート軍師

 午前二時十五分。伊集院理(29歳)は、自室のデュアルモニターが放つ冷徹な白光の渦中にいた。

 画面に展開されているのは、ネットの娯楽ではない。Excelのスプレッドシート、厚生労働省発表の最新「簡易生命表」、そして大手銀行の複雑な「老後資金シミュレーション」の数式だ。理の指先は、まるで精密機器を調整する職人のように、淀みなくキーボードを叩き続けている。


 これまでの数年間、両親からの「いつまでいるつもりだ」「いい加減に働け」という感情的な波状攻撃に対し、理は沈黙を守ってきた。しかし、感情で戦うから負けるのだ。理の脳内では、家庭という名のシステムを純粋な「経済圏」として再定義し、自らの存在をバグから必須のモジュールへと書き換えるためのハッキングが完了しつつあった。


 夜が明け、リビングに重苦しい空気が漂い始めた頃、理は数枚のプリントアウトを手に食卓へと降りた。そこには、定年後の再雇用で疲れ切った父・正道と、不安げにトーストを齧る母・佳代子がいた。


「父さん、母さん。建設的な話をしよう。僕がこの家から出ることによる、家計への長期的リスクヘッジについてのプレゼンだ」


 正道が説教を起動しようとするのを、理はその言葉を物理的な厚みを持った資料で遮った。


「まず、僕が一人暮らしをして、平均的な低賃金労働に従事した場合を想定してほしい。社会保険料、住民税、家賃、光熱費。これらを差し引いた僕の可処分所得は、現在の僕が実家で消費しているコストを大幅に下回る。つまり、僕が外に出ることは、家族全体のリソースを分散させ、死蔵させる『非効率な投資』なんだ。いいかい、『当たり前』という言葉は、論理的な思考を停止した人間の逃げ場だよ」


 理の声は、感情を一切排した機械音のように響く。


「見てほしい。このグラフは、父さんと母さんの平均余命と、今後の介護コストの推移だ。今後二十年で、外部の介護サービスを利用した場合、累計で二千万から三千万のキャッシュアウトが見込まれる。しかし、僕が『専業息子』として家庭内に留まり、介護の初期段階からオペレーションを担当すれば、このコストは六割以上カットできる。さらに、相続税だ。僕が同居を続けることで『小規模宅地等の特例』が適用され、この土地と建物の評価額は八〇パーセント減額される。僕がここにいるだけで、父さんが残す資産の目減りを数千万円単位で防げる。僕は『無職』ではない。この家庭という小宇宙における、最高効率の『資産防衛アドバイザー』なんだよ」


 正道の顔から血の気が引いていく。理は、容赦なく事実という名の弾丸を撃ち込み続ける。


「僕が外で働くことで得られる数万円の給与と、僕がここに留まることで守られる数千万円の資産。どちらが合理的かは、四則演算ができれば明白だ。父さんは、自分のプライドのために、数千万を捨てるつもりかい?」


 沈黙が食卓を支配した。理の提示したスプレッドシートには、一切の隙がなかった。正道が誇りにしていた「勤勉さ」も、佳代子が武器にしていた「世間体」も、理の構築した冷徹な合理性の前では、ただの非効率なノイズに成り下がった。


 理は、勝利を確信しながら冷めたコーヒーを啜った。親はもう、理を責めることができない。理を追い出すことは、自分たちの老後の首を絞めることだと、脳の原始的な部分で理解してしまったからだ。


 しかし、その勝利の味は、驚くほど虚しかった。理は、親を愛する存在としてではなく、管理すべき資産と負債として定義してしまった。自分の価値を介護要員や節税対策という記号に変換することで、理は自らの人間としての可能性を、スプレッドシートのセルの端に、自ら埋め込んでしまったのだ。


「……わかった。理、お前の言う通りかもしれないな」


 正道が、力なく笑った。その笑顔は、かつて息子を叱り飛ばしていた頃の熱量を完全に失い、ただの利害関係者としての同意に変わっていた。


---


【戦況報告】

伊集院家・経済合理性戦線。

ニート軍(理)、精密なコストベネフィット分析を用いた論理飽和攻撃により、親軍を完全制圧。

老後資金および相続税対策という名の外交圧力により、実質的な支配権を獲得。

しかし、勝利の代償として、家族間の「情愛」という名の補給線が完全に遮断される。

本日の戦果:スプレッドシートによる完全勝利、および永住権の確立。

損害:人間としての「熱」、および親からの無条件の愛(全損)。


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