第6話:弟はリア充、兄はニート
午後一時。静まり返ったリビングに、突如として「外界の陽光」が侵入した。
相職慎一(30歳)は自室のドアを数センチだけ開き、階下から聞こえる華やかな騒音を網膜に焼き付けた。そこには、数年ぶりに帰省した弟・直樹の姿があった。
直樹は、慎一とは対照的な存在だ。大手広告代理店勤務、休日はフットサルとキャンプ。SNSには常に誰かと笑い合う写真が並ぶ、いわゆる「陽」の極北。彼が座るだけで、実家のくたびれたソファまでが高級ブランド品に見えるから不思議だ。
「兄貴、起きてんの? ほら、これ土産。今流行ってる店の焼き菓子!」
直樹の声には、一点の曇りも、軽蔑の色すらない。それが慎一の肺胞を一つずつ潰していく。
脳内で、冷酷なスコアリング(格付け)が自動的に開始される。
【社会的地位】【年収】【コミュニケーション能力】【髪の密度】【肌のツヤ】。
あらゆる項目において、慎一の数値は直樹のそれの「誤差」の範囲内に収まっていた。かつては慎一の方が成績が良く、「神童」と呼ばれた時期すらあったことが、今となっては最大級の皮肉として機能している。
「……ああ。そこ置いといてくれ」
慎一は、極力感情を殺した声で応えた。しかし、直樹の「無自覚な絨毯爆弾」はここからが本番だった。
「兄貴もさ、ずっと部屋にいないで今度一緒にバーベキュー行こうよ。俺の連れも『慎一さんに会ってみたい』って言ってるし。兄貴、昔から博識だから、絶対盛り上がるって!」
慎一の脳内で、連想ゲームがオーバーヒートを起こす。
バーベキュー。それはリア充たちが火を囲み、自らの幸福を確認し合う神聖なる儀式。そこに「無職」というノイズが混入することを、直樹は『多様性の受容』だと思っている。だが、慎一にとっては、それはマセラティの展示会に中古の軽トラで乗り込むような、公開処刑に等しい。「会ってみたい」という言葉の裏には、希少生物を観察するような好奇心が含まれていることを、なぜこの弟は理解できないのか。
「……悪い。その日は、外せない用事がある」
「そっか、残念だな。あ、母さん! 兄貴にこれ、俺が使わなくなったタブレット。最新モデル買ったから、兄貴にあげるよ。調べ物とか捗るだろ?」
母・和子が「まあ、直樹は本当に優しいわね」と目を細める。
和子の瞳の中で、直樹は「家族の誇り」であり、慎一は「守るべき傷病兵」として明確に区分けされた。この瞬間に確定した、家庭内ランキング。一位・直樹、最下位・慎一。父・健三すら、直樹の前では現役時代の威厳を取り戻したかのように饒舌になっている。
(……この部屋の空気、酸素濃度が薄すぎる。直樹が吐き出す『善意』が、俺の生存圏をじわじわと圧迫している。あいつに悪意があれば、まだ戦えるのに。あいつが俺を馬鹿にしてくれれば、『いつか見返してやる』という憎悪を燃料にできるのに……!)
直樹が持ってきた焼き菓子を一口食べた。驚くほど洗練された味がした。それは、今の慎一が一生かかっても手にすることのできない、「選ばれた人間」のための味だった。
夕方、直樹が「じゃあ、また来るわ!」と嵐のように去っていった後。家の中には、耐え難いほどの静寂が戻ってきた。母は直樹からの土産を大事そうに片付け、父は直樹の話していた業界の噂話を楽しそうに反芻している。
慎一は、譲り受けた最新のタブレットを、一度も電源を入れることなくベッドの隅に放り投げた。この家は、もはや慎一の避難所ではない。直樹という鏡が置かれたことで、自分がどれほど歪み、停滞しているかを二十四時間突きつけられ続ける、鏡張りの拷問部屋へと変貌していた。
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【戦況報告】
相職家・家族内格差戦線。
同盟軍(弟)による、意図せぬ「陽」の兵器投下および精神的絨毯爆弾の直撃。
ニート軍(慎一)、圧倒的な「リア充」エネルギーの前に、心理的防衛ラインが全壊。
「兄貴」という呼称が、実質的なとどめ(致命傷)として機能。
本日の戦果:高級焼き菓子(消費)、および最新タブレット(鹵獲品という名の恥辱)。
損害:家庭内における「唯一の正当性」、および生存権(測定不能なまでの毀損)。




