第5話:シングルマザーと息子
午後十一時四十五分。玄関の鍵が回る、重く、疲弊した音が響いた。
長谷川蓮(21歳)は暗い自室で、その音に全身を強張らせた。第1話のような傲慢な知性はどこにもない。ここにあるのは、一LDKの狭いアパートに充満する、濃縮された「申し訳なさ」という名の毒素だ。
母・由紀子が、スーパーのレジ打ちと深夜のビル清掃という二重労働を終えて帰宅した。
蓮は部屋の電気を点けることができない。モニターの明かりさえ、この家では母の血を削って得た電気代という名の「負債」に思えるからだ。
「……ただいま。蓮、起きてる?」
由紀子の声は、ひどく掠れていた。蓮はのろのろと這い出し、台所へ向かう。そこには、母が職場のスーパーで安く買い取ってきた、消費期限が数時間後に迫った「半額」のシールが重なるように貼られた弁当が二つ、食卓に並んでいた。
「母さん、……おかえり」
「ごめんね、遅くなって。今日はシフトの人が急に休んじゃって、店長に頼まれちゃって。でも、その分残業代が出るから、今月の光熱費は大丈夫そうよ」
由紀子は笑おうとしたが、その頬は疲れでこけ、目元には深い隈が刻まれていた。
蓮の脳内で、制御不能な連想ゲームが暴走する。
この弁当の代金は、母が何百回バーコードをスキャンした対価か。この部屋の家賃を払うために、母の膝の軟骨がどれだけ磨り減ったのか。計算は一瞬で終わる。答えは常に、蓮の存在そのものが母の寿命を前借りしているという残酷な数式に収束する。
「……母さん。俺、明日からまた仕事探すから。今度は、ちゃんと……」
喉まで出かかった言葉が、由紀子の手の温もりに遮られた。彼女は腫れ上がった自分の手で、蓮の手をそっと包み込んだ。
「いいのよ、蓮。あんたは優しい子なんだから、あんな変な会社でまたボロボロにされる必要はないの。お母さん、体が丈夫なのが取り柄だから。あんたが隣にいてくれるだけで、明日も頑張れるんだから」
責められない。それが、蓮にとって最大の拷問だった。
罵倒されれば、反発できる。「俺の勝手だ」と逆ギレして、精神の均衡を保つことができる。しかし、この母は、蓮を一切責めない。自分の苦労を蓮のせいだとは一言も言わず、ただひたすらに、自分が犠牲になることで息子という名の聖域を守ろうとしている。
(……これは、攻撃じゃない。救済という名の、完全な解体だ)
蓮は、冷えたハンバーグを口に運んだ。味がしない。
もし自分が消えれば、母はもっと楽になれる。もっといいものを食べ、もっと長く眠れる。そんな極めて論理的な「最適解」が頭をよぎるが、それを実行すれば、母の唯一の生きがいを奪うことになる。
動けば母を苦しめ、止まれば母を削る。
蓮は、愛という名の泥沼の中で、一歩も身動きが取れなくなっていた。
「……美味しい?」
由紀子が、幼い子供に接するように尋ねる。
蓮は、鼻の奥がツンとするのを必死に堪え、力なく頷いた。
「……うん。美味しいよ」
二人は、狭い食卓で肩を寄せ合い、見切り品の弁当を分け合った。
外を走る深夜の大型トラックの振動が、安アパートの床を揺らす。
蓮は、自分がこのまま母の命を吸い尽くす寄生虫として終わるのか、それとも、この絶望的な静寂を破って立ち上がれるのか、その答えを出すことができないまま、ただ最後の一口を飲み込んだ。
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【戦況報告】
長谷川家・超低空消耗戦線。
両軍、極めて高い相互依存関係にあり、敵対行動は一切確認されず。
しかし、資源(母の体力・家計)の枯渇が深刻化し、戦線崩壊の危機が常在。
「優しさ」という名の地雷原により、ニート軍(蓮)の自立攻勢が完全に封じ込められている。
本日の戦果:半額のハンバーグ弁当(二個)、および延命。
損害:自己肯定感(測定不能)、および未来への展望(視界ゼロ)。




