第4話:地方実家、逃げ場ゼロ
午前七時三十分。けたたましく鳴り響く防災行政無線のチャイムが、市川大地(26歳)の意識を強制的に覚醒させた。
ここは都心のマンションではない。三河地方の端、見渡す限りの田んぼと、数十年前に分譲された古びた住宅街が混ざり合う、閉鎖的な「村」だ。
大地は、重い体を引きずって雨戸の隙間から外を覗いた。
向かいの家の老婆が、じっとこちらを見ている。ただ庭の草むしりをしているだけかもしれない。しかし、この街において「平日の昼間に雨戸を閉めている家」は、レーダーに捕捉された未確認飛行物体と同じだ。
「……見られている」
脳内で、被害妄想と分析が交差する。
地方都市におけるニート生活は、親との戦い以上に「地域という共同体」との情報戦だ。一人が目撃すれば、その情報は夕方の井戸端会議という名の通信網を経て、瞬時に全村に共有される。
「大地、起きてるの? 今日は組内の清掃日だよ。あんたも顔出しなさい。いい加減にしないと、お父さんがなんて言われるか……」
階段下から、母・敏子の鋭い声が飛ぶ。第2話のような甘さはここにはない。ここでは「世間体」が家庭の最優先防衛目標であり、大地はその脆弱な防壁の「穴」そのものだからだ。
「……無理だよ。あんなとこ行ったら、何を言われるか」
「『お仕事はお休み?』って聞かれたら、『資格の勉強中』って言えばいいじゃない。あんたのせいで、お母さん、回覧板を回しに行くのも苦痛なのよ!」
大地は舌打ちし、部屋の壁を蹴った。
この家には、物理的な逃げ場がない。車社会のこの街で、親が管理する軽自動車のキーを取り上げられれば、大地は足をもがれた昆虫と同じだ。最寄りの駅まで徒歩一時間。コンビニまでは三キロ。移動手段という名の「補給線」を完全に断たれている。
(……詰んでいる。この街全体が、俺を閉じ込める巨大なパノプティコン(全方位監視監獄)だ。親は看守で、隣人は密告者。俺が呼吸をするたびに、村の『正常な秩序』が乱されていく……!)
大地は渋々、ボロいジャージを羽織って外へ出た。
外の空気は驚くほど澄んでいたが、それは同時に、逃げ隠れできない「透明な檻」の中に放り出されたような感覚だった。
「あら、大地くんじゃない。久しぶりねえ。今、どこの会社?」
近所の主婦が、鎌のような笑みを浮かべて近づいてくる。挨拶という名の尋問。大地の脳内では、即座に回避パターンの計算が始まる。
(選択肢A:正直に無職と答える。結末:『可哀想に』という名の精神的爆撃。選択肢B:適当な嘘をつく。結末:後日、親に裏取りが行われ、嘘が露見してさらに炎上。選択肢C:無視する。結末:『大地くんは変になった』というレッテルが確定)
「……あ、今は、リモートで……フリーランスを」
一番マシだと思われる嘘を、消え入りそうな声で絞り出した。
しかし、主婦の目は笑っていない。
「フリー……? ああ、パソコンでパチパチやるやつねえ。便利ねえ、家から出なくていいんだから。でも、たまにはお天道様の下で働かないと、体に悪いわよ」
その言葉の裏に隠された「働いていないのと同義」という蔑みが、大地の心臓を正確に射抜いた。
振り返ると、家から出てきた父・正和が、近所の男たちと苦虫を噛み潰したような顔で談笑していた。正和もまた、この村社会というシステムに組み込まれた犠牲者だ。「息子をまともに育てられなかった男」という評価を恐れ、常に防衛的な態度を取っている。
清掃が終わるまでの二時間、大地は泥水を掬いながら、ただ地面だけを見ていた。
ここでは、学歴も理屈も通用しない。
ただ「朝、決まった時間にスーツを着て車で出かける」という単純な儀式を行えない者は、生存権すら危ういのだ。
部屋に戻った大地は、暗い部屋で一人、パソコンの電源を入れた。
画面の中だけが、唯一の領土。
しかし、換気扇から微かに聞こえてくる近所の話し声が、まるで戦地で流れるプロパガンダ放送のように、大地の精神をじわじわと削り続けていた。
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【戦況報告】
市川家・地域包囲戦線。
ニート軍(大地)、地域共同体による「世間体」を用いた総力戦に直面。
地形(公共交通機関の欠如)および人的資源(隣人の監視)により、機動力完全喪失。
虚偽報告(嘘の職業)を試みるも、敵側の「常識」という重火器の前に効果なし。
本日の戦果:側溝の泥(バケツ三杯分)。
損害:精神的プライバシー(全損)、および外出意欲(壊滅的)。




