第3話:金持ち親 × 意識低いニート
午後一時。地上百六十メートルに位置する超高層タワーマンションの四十二階。
藤堂翔(22歳)は、イタリア製の最高級ソファに身を横たえ、全面ガラス張りの窓から、眼下に広がるミニチュアのような東京を眺めていた。
この階層では、地上の喧騒は一切届かない。救急車のサイレンも、誰かの叫び声も、労働者たちが上げる呻きも、薄い雲と何層もの強化ガラスによって完全に遮断されている。ここにあるのは、高性能な空調システムが吐き出す、温度も湿度も一定に保たれた「人工の安寧」だけだ。
翔のスマホが、一通の通知を鳴らした。
『今月の運営費、振り込んでおいたわ。足りなくなったら言ってね。』
母からのLINE。そこには、一般的な若手社員の年収に匹敵する額の「お小遣い」が振り込まれたことを示す数字が並んでいた。
「……また、数字が増えたな」
翔は、感情の起伏もなく呟いた。
この家族に、第1話のような激しい論争や、第2話のような情念の爆発は起こらない。両親にとって翔は、すでに「維持費」という名の固定資産として、ポートフォリオの一部に組み込まれているに過ぎないからだ。
脳内で、冷徹な連想ゲームが起動する。
通常、ニートという状態は「資源の枯渇」という恐怖によって駆動される。食費が尽きる、家を追い出される、電気を止められる。それらの生存の危機こそが、人を社会へと押し戻す「摩擦力」になる。
しかし、この部屋において、摩擦係数はゼロだ。
どれだけ自堕落に過ごしても、資産という名の超流動体が翔の生存を永久に保障し続ける。飢えることがない。凍えることもない。ただ、何も起きない。
(……これは、宇宙の熱的死だ)
翔は、スマホの画面を見つめたまま思考を暴走させる。
物理学における宇宙の終焉。エネルギーが均一に広がり、あらゆる温度差が消滅した状態。そこでは情報の交換も、生命の活動も意味を成さない。
このマンションの一室は、まさにその「熱的死」を体現していた。
親からの潤沢な供給。争う必要のない空間。
怒鳴られれば反発という熱量が生まれる。泣かれれば罪悪感という摩擦が生じる。
だが、ここでは「どうぞ、お好きなように」という圧倒的な肯定という名の、底なしの沼が広がっている。
「……あ、翔。起きてたのか」
リビングに、父・清和が入ってきた。彼はかつてのようなモーレツ社員ではない。現在は数社の社外取締役を歴任し、ゆったりとしたガウン姿でワイングラスを手にしている。
「あ、ああ。おはよう、父さん」
「今日から軽井沢の別荘に行くんだけど、お前も行くか? 別に、行きたくなきゃ行かなくていい。お前の人生だ。お前が一番『楽』な方法を選べばいいんだよ」
清和は、心底どうでもよさそうに笑った。その笑顔には、息子を立ち直らせようという気概も、息子を恥じ入る卑屈さもない。ただ、庭の観葉植物が枯れていないかを確認するような、淡白な生存確認だった。
「……いや、いい。部屋でゲームしてる」
「そうか。じゃあ、夕食は適当にUberでも頼んでおけ。暗証番号はいつものだ」
父はそれだけ言うと、軽やかな足取りで玄関へ向かった。
翔は、その背中を追いかける言葉すら持たなかった。
この「金持ち親」のレイヤーにおいて、教育とは「自由という名の放任」に昇華されている。彼らは知っているのだ。金で解決できる問題に、感情を割くのはコストパフォーマンスが悪いということを。
翔は一人、静寂の中に取り残された。
目の前の大型モニターでは、スマホゲームのオート周回が、無機質に経験値を稼ぎ続けている。
画面の中でキャラクターがレベルアップし、豪華なエフェクトが舞う。だが、翔の心拍数は一回も増えない。
(……俺は、生きているのか?)
翔は、自分の腕を強くつねってみた。
痛みはある。だが、その痛みはどこか遠い国の出来事のように感じられた。
冬の朝、震えながら会社へ向かう駅のホーム。夏の午後、上司に怒鳴られて流す汗。そんな「不快感」が、今の翔には、ダイヤモンドよりも貴重で輝かしい「生の証明」に見えた。
この部屋には、不快がない。
不快がないから、快感もない。
ただ、最適化された無味無臭の時間が、四十二階の窓から見える絶景を背景に、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていくだけだ。
翔はソファに沈み込み、再び目を閉じた。
明日の予定はない。明後日の予定もない。
死ぬまで続く、この「平和という名の異常事態」に、翔は初めて、凍りつくような恐怖を感じた。
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【戦況報告】
藤堂家・絶対零度戦線。
両軍、潤沢な軍事予算(遺産・配当金)を背景に、非武装中立地帯を構築。
戦闘は発生せず。しかし、絶対零度の静寂により、ニート軍(翔)の精神的熱量が急激に低下。
社会復帰という名の重力圏からの脱出速度、ついにゼロ。
本日の戦果:スマホゲームの期間限定アイテム(コンプリート)。
損害:生への執着、および焦燥感(全損)。




