第10話:追い出す親
午前七時零分。成瀬優太(33歳)の「聖域」は、物理的な破壊音とともに終焉を迎えた。
六畳一間の自室。遮光カーテンで外界を遮断し、自分だけの宇宙を構築してきたその空間のドアが、外側からバールのような金属器具でこじ開けられたのだ。なだれ込んできたのは、父・正三と、見知らぬ二人の屈強な男たち。彼らは「夜逃げ屋」ならぬ「引き出し屋」のプロフェッショナルであり、その眼光には家族間の情愛など一滴も混じっていない。
「……何だ。何をするんだ!」
優太は、モニターから発せられるブルーライトの残像を網膜に焼き付けたまま、ベッドの隅へと這い退った。しかし、男たちは事務的な手際で優太の両腕を掴み、抵抗する間もなく布団から引き摺り出した。
正三は、優太と目を合わそうとしない。その手には、一枚の書面が握られていた。不動産解約通知書、そして荷物の一時預かりサービスの契約書。
「優太。今日、この部屋の賃貸契約を解除した。ここはもうお前の『城』じゃない。今日中に、お前はここを出る。……いや、今すぐだ」
これは、親が投下した「愛の最終兵器」だった。
正三と母・和江は、これまでの八年間、優太に対してカウンセリングを勧め、就職サイトの切り抜きを渡し、時には扉越しに泣いて縋ってきた。しかし、優太はそのすべてを「自分は今、繊細な時期で再起のための充電中だ」「社会の構造的欠陥が俺を拒絶しているんだ」という高度な論理武装で跳ね除けてきた。
親は、ついに理解したのだ。優太にとって、親の「理解」や「忍耐」こそが、引きこもりという現状を維持するための最高のインフラ(基盤)になっており、自分たちの優しさがこの「停滞」のバッテリーを無限に充電し続けているという矛盾を。
「……待ってくれ! 急にそんなこと言われたって、行く場所なんてない! 俺には心の準備が必要なんだ。こんな暴力的な方法で解決できると思っているのか!」
「八年間、準備期間を与えたはずだ」
正三の声は、地底から響くような重苦しい確信に満ちていた。
「行き先はここだ」
正三が投げ捨てたのは、都心の格安ビジネスホテルの一週間分の予約確認書と、十万円の現金が入った封筒、そして「自立支援施設」のパンフレットだった。
「一週間だ。その間に、死ぬ気で次の場所を探せ。それができなければ、公園で寝るなり好きにしろ。もはやお前の人生に、俺たちが介入するコストは一銭も残っていない。……和江、荷物を」
廊下では、母の和江が、顔を腫らして泣きながら優太の着替えをゴミ袋に詰め込んでいた。彼女もまた、この決断に至るまでに、自らの「母性」という名の防衛線を自ら爆破する苦渋を味わっていた。彼女にとって優太を「捨てる」ことは、自分自身の残りの人生を取り戻すための、麻酔なしの外科手術だった。彼女の手は震えていたが、優太と目が合った瞬間、その瞳には「同情」ではなく「拒絶」の光が宿った。
優太は、着の身着のまま玄関へと引きずり出された。八年間、隙間風とモニターの熱気しか知らなかった肌に、外界の空気が容赦なく突き刺さる。驚くほど冷たく、そして鋭利な殺意に満ちた空気だ。住宅街を走るゴミ収集車の騒音、遠くで鳴く犬の声、それらすべての「生活音」が、今の優太にとっては鼓膜を突き破る暴力的な音波として襲いかかる。
足元には、ゴミ袋に詰められたわずかな私物と、使い古されたノートパソコンが放り出される。
「……優太、行け。死ぬ気で、どこへでも行け。ここで腐っていくのを待つより、外でのたれ死ぬ方が、まだ親孝行だ」
正三の声は、これまでのどんな罵倒よりも重く、そして静かだった。バタン、と玄関の鍵が閉まる。その瞬間、世界から優太の居場所が消滅した。優太は、パジャマ同然のジャージ姿で、朝の冷気が漂う住宅街の舗道に一人取り残された。
脳内での構造的共鳴度が、狂ったようにエラーを吐き出し始める。
【実家=絶対安全圏】という前提条件が物理的に破壊された。
【親=無限の資源供給源】という変数がゼロに固定された。
残されたのは、手元の十万円と、一週間で消える屋根。
背後にあるのは、八年間自分を守り、同時に自分を殺し続けていた「家」。
目の前にあるのは、一分一秒ごとに「生存コスト」という資源が枯渇していく、無慈悲な現実の荒野。
優太は、震える手で封筒を握りしめた。親の愛は、ついに「拒絶」という名の最終進化を遂げ、彼を本当の地獄――あるいは、皮肉なことに、本当の「世界」へと突き落としたのだ。
優太はふらふらと歩き出した。
アスファルトの冷たさが靴底を抜けて伝わってくる。通り過ぎる登校中の小学生たちが、奇異なものを見る目で彼を一瞥していく。その視線一つ一つが、社会という名の審判による宣告のように感じられた。
彼は初めて、自分の輪郭を規定していたのが「部屋の壁」ではなく、自分を拒絶し始めた「他者の視線」であることに気づいた。
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【戦況報告】
成瀬家・強制執行戦線。
親軍、長年の融和政策を完全に放棄し、「物理的排除」を実行。
ニート軍(優太)、補給基地およびシェルターを完全喪失し、無防備な状態で現実の最前線へ放り出される。
「親の愛」という名の定義が、存続支援から生存競争への強制参加へと書き換えられた。
本日の戦果:ビジネスホテル一週間分の予約票、十万円、および「自由」という名の極北。
損害:引きこもり維持費一〇〇パーセントカット、および親への依存権(永久消滅)。




