第1話:定年父 vs 高学歴ニート息子
午前十時十四分。静寂という名の暴力が、リビングの空気を支配していた。
東大大学院修了、専門は数理統計学。二十八歳、無職。佐々木和也は、自室の使い古されたゲーミングチェアに深く沈み込み、モニターから発せられるブルーライトの奔流に身を浸していた。
本来であれば、この時間は「シェルター」の安全が保障されているはずだった。かつてモーレツ社員として日本経済の歯車を回していた父・義男は、朝の八時過ぎには満員電車という名の戦場へ向かい、夜まで帰宅しないのがこの二十年間の絶対的な物理法則だったからだ。
しかし、その法則は一ヶ月前に崩壊した。
定年退職。
それは、和也にとっての「安全保障条約の破棄」を意味していた。
一階のリビングから、カツ、カツ、と一定の間隔でフローリングを叩く音が聞こえてくる。ゴルフのスイング練習か、あるいは意味もなく歩き回っているのか。その音の波形を脳内で解析するだけで、和也の側頭部には鋭い痛みが走る。
和也は自室のドアを薄く開き、階下の気配を探った。階段の隙間から漂ってくるのは、淹れたての安っぽいコーヒーの香りと、隠しきれない加齢臭、そして「暇を持て余した強者の傲慢」が混ざり合った独特の停滞した空気だ。
「……いる。確実に、あそこに鎮座している」
和也の脳内で、連想ゲームが暴走を始める。
父がリビングにいるということは、テレビのチャンネル権が占拠されていることを意味する。それは同時に、和也が昼食を確保するためにキッチンへ降りる際、必ず「目線」という名の非核兵器に晒されることを示唆していた。
統計学的に言えば、遭遇確率は一〇〇パーセント。回避不能。
空腹という名の生理的欲求が、対人恐怖を僅かに上回った。和也は意を決し、ボロボロのパーカーのフードを深く被ると、音を立てないように階段を下りた。
「……あ、和也か」
リビングの主、義男が声をかけてきた。新聞を広げたまま、眼鏡の奥の眼光は現役時代の部長職そのものだ。和也は無視を決め込み、キッチンへ向かおうとする。しかし、義男の「助走」はすでに始まっていた。
「おい、ちょっと待て。お前、今日もその格好か。時間は十時を過ぎているぞ。俺の若い頃はな、十時と言えば……」
来た。
和也は立ち止まり、深く息を吐いた。脳内の論理回路が、一瞬で戦闘モードへと切り替わる。
「『俺の若い頃は、十時と言えばもう二件目の商談を終えていた』。そう言いたいんだろ、父さん。その台詞、この一週間で四回目だよ。インプットの多様性が欠如しすぎている。父さんの記憶ストレージは、成功体験という名の読み取り専用メモリで埋め尽くされているみたいだね」
「なんだと? 親に向かって……。いいか、働かざる者食うべからずだ。東大まで出してやって、その結果が昼までパジャマでうろうろすることか? 恥ずかしくないのか」
「『恥ずかしい』。その感情は、社会的なコンテクストにおける他者との比較から生じる主観的なバグだ。父さんが言っているのは、一九八〇年代の労働市場における生存者バイアスに過ぎない。当時の実質賃金上昇率と、現在の有効求人倍率の質的変化を無視した精神論の散弾銃だ。一発ごとに俺のニューロンが死滅していく音がするよ」
「理屈をこねるな! 世の中はな、理屈じゃねえんだ。汗をかいて、頭を下げて、金を稼いでくる。それが男だ。お前にはその根性がないんだよ」
「『根性』という抽象概念を持ち出した時点で、父さんの論理的敗北だよ」
和也の声が、一段と冷徹さを増す。
「汗をかくことが価値を生むなら、サウナに入っている人間が一番の富豪になるはずだ。父さんは高度経済成長期という名の、上りエスカレーターに乗っていただけだ。ただ立っていれば、勝手に上へ運ばれた。今の俺たちは、止まったどころか逆回転しているエスカレーターを全力で駆け上がらなきゃ、現状維持すらできない。その前提条件の差異を無視して、精神論を押し付けるのは、知的怠慢だ」
「貴様……! 教育費にいくらかけたと思ってるんだ! その学歴は、親を言い負かすためにあるのか!」
「いいや、最適解を導き出すためにある」
和也の思考は加速する。父の顔が怒りで赤黒く染まっていく。その「温度」の上昇を感じながら、和也は自らの優位性を確信していた。
「父さんが定年して、この家から外的な刺激が消えた。その結果、父さんの自己肯定感は著しく低下し、それを補うために唯一の弱者である俺を攻撃している。これは心理学における『置き換え』という防衛機制だ。可哀想に。父さんは、仕事というアイデンティティを失って、ただの『無職の老人』になった自分を受け入れられないんだ」
「黙れ! 誰が、誰が無職だ……! 俺は四十年間勤め上げたんだ!」
「過去形だね」
和也は、トドメを刺すように言葉を継いだ。
「今は、俺と同じだよ。昼間にリビングにいて、生産活動に従事せず、家族のリソースを消費している。父さんと俺の差は、銀行残高という数値上のデータだけで、本質的な社会への寄与度は現在進行系でどちらも『ゼロ』だ。つまり、俺たちは同じ穴のムジナ、無職の同盟軍なんだよ」
義男の口が、金魚のようにパクパクと動いた。
論理の刃が、父の誇りを正確に切り裂いた。和也は、勝ったと思った。
しかし、その直後、義男の瞳から急速に熱が引いていくのを和也は見逃さなかった。怒りではない。それは、深い絶望と、鏡を見せつけられた者の当惑だった。
義男は力なくソファに沈み込み、震える手で新聞を掴み直そうとした。だが、その手は空を切り、膝の上に落ちた。
「……そうか。俺も、お前と同じか」
リビングに、重苦しい沈黙が返ってきた。
和也は、勝利の快感を感じなかった。むしろ、胃の底に鉛を流し込まれたような、不快な重量感が残った。父を論破したところで、この家の経済状況が改善するわけでも、自分の履歴書に空白期間が埋まるわけでもない。
そこにあるのは、ただ、老いた無職と、若い無職が、狭いリビングで互いの存在を疎ましく思いながら共存しているという、無残な現実だけだった。
「……腹、減ったな」
義男が、消え入るような声で呟いた。
和也は何も言わず、キッチンへ向かった。棚からカップヌードルを二つ取り出し、ケトルでお湯を沸かす。
三分後。
ダイニングテーブルには、湯気を立てる安っぽいカップ麺が二つ並んだ。
東大院卒の知性も、四十年の勤続経験も、熱湯でふやける縮れ麺の前では何の役にも立たなかった。二人は無言で、ズズッ、ズズッ、と麺を啜る音だけを響かせた。
外では、現役世代を乗せた営業車が、忙しなく走り去っていく音が聞こえていた。
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【戦線異状報告】
佐々木家・不発弾戦線。
ニート軍、精密な論理爆弾により親軍の精神的拠点を壊滅。
しかし、攻撃の余波により「親の扶養能力」という名の兵站基地に亀裂が生じる。
両軍ともに「無職」という共通認識の泥沼に沈降し、一時停戦。
本日の戦果:カップヌードル(二個消費)、および致命的な沈黙。
損害:父の威厳、および息子の僅かな敬意(全損)。




