目が覚める朝
次の日。それは僕のもとに静かにやってきた。
「いらっしゃいませ〜」
まだ朝日も出ていない早朝。僕はコンビニで朝食を買うと、ATMを操作した。
色と文字が付いたカードを差し込み、一万円を引き出す。機械がゴーと音を立てる。そして紙幣のドアが、ガチャりとスライドした。
そこには、三枚の紙幣があった。
僕の鼓動はわずかに跳ねた。
恐る恐るそれを取り出す。
心のどこかで、それが何かは分かっていた。
一万円札が一枚。
……ゼロ円札が二枚。
無価値な紙幣の足し算。合計一万円。
いや、10,000.0円か。
ゼロ円札を天井のライトに照らす。
本物に間違いない。
だが、そこには”あってはならない”文字があった。
──いA8
僕は目を疑う。
急いでポケットからゼロ円札を取り出す。
──008
そこは製造番号が書かれていた場所だった。
ひらがなとアルファベット──それらが使えるなら、希少性という概念が覆される。
僕は熱を持つ背中で、もう一度、同じようにATMを操作した。
ゴー。ドクンッ。ガチャり。ドクンッ。
鼓動の音が、高鳴る。
現れた紙幣は、五枚……
静かに僕はすべてを悟った。
ゼロ円札の価値は……
「そろそろどいてくれんかね?」
背中からどこかで聞いたことがある声が問いかけた。
はっとした。僕の視界は急速に広がり、長時間ここを占有していたことを理解した。慌ててその場から身を翻した。
「すいません、どう、ぞ……」
そこには交換所で会った、丸眼鏡に白髪の老人が立っていた。
「ど、どうして、ここに!?」
僕はその顔を見て、なぜか安心感を覚えていた。
「愚問じゃな。そんなこと、分かっているじゃろう」
僕はゴクリと喉を鳴らした。
「変わっとらんようじゃな。お喋りはここまでじゃ。突っ立ってていいのかの?
ひとつだけ、問をやろう。
まだ静かな早朝じゃ。その紙幣なら、何を買えると思う?」
僕はコンビニを飛び出した。
今ならまだ……
黒い欲望が、脳の奥で一気に燃え広がった。
ゼロ円札はまだ、生きている。
死にかけている。だが、まだ、生きている。
僕は走った。
欲望のままに。だが、行き先は分からなかった。
ゼロ円札は、他の紙幣には換えられない。
『一円以上で売買することは違法』
国税庁のサイトで見た、その一文が、
足元から静かに浮かび上がってきた。
僕の足は速度を失い、
やがて、どうしようもなく立ち止まった。
「……そうか」
呟いた声は、思ったよりも乾いていた。
僕は、欲望がなかったわけじゃない。
ただ、使うことができなかったのだ。
ゼロ円札を使うには、
犯罪を犯すか、誰かと向き合って、価値そのものを書き換えるしかない。
それは取引であり、交渉であり、
そして——覚悟だった。
ゼロ円札は富を動かすための道具じゃない。
“欲を計測するための回路”だ──そう思えた瞬間、背筋が冷たくなった。
無人レジにそれを仕込み、
人の手で紙幣をやり取りさせる。
そうして、少しずつゼロ円札を配り、
希少性という感覚だけを社会に定着させる。
やがて、ゼロ円札は
高価なものと同じ場所に並び、
同じ目で、いやそれ以上の価値で見られるようになる。
本当の価値は、制度ではなく、数字でもなく、
人の側から、静かに立ち上がる。
それが、ゼロ円札に託された役割なのだと、僕は理解した気になった。
──朝日が建物の上から、ゆっくりと昇っていく。
朝焼けの空は晴れ渡り、昨夜までの灰色を、少しずつ溶かしていった。
本来なら、温かいはずの日差しを浴びながら、
僕はひどく凍えていた。
街灯が消え、家々に明かりが灯る。
このまま時間が止まってほしかった。
誰も気付かなければ、価値は変わらない。
いまの社会は、このまま継続できる。
けれど、そうはいかない。
僕の頭の中で、パズルのピースが
音を立てて噛み合っていく。
この世界の価値は、人々の欲求によって揺れ動く。
淡く、儚く、波のように上下して、
不安定なまま人をあざ笑う。
駅で会った、有価値会の男の言葉を思い出した。
「価値は利便性」
極端な言い様だと思っていた。
だが今は、否定できない。
白い息を吐く。
それは朝日に溶け、跡形もなく消えた。
街のどこかで、驚愕の声が上がった。
人々は家を飛び出し、なにかに追われるように走り出す。
ある者はATMへ。
ある者は、ゼロ円札で売買できると噂の店へ。
街のどこかで、悲鳴が聞こえた。
ゼロ円札が宙を舞い、人々がその場に崩れ落ちる。
別の紙幣を手にした者は、まだいない。
街のどこかで、怒号が響いた。
希少であるはずだったものが、
そうではなかったと知った人々は、
行き場のない怒りを抱えたまま、街を彷徨っていた。
その騒ぎを前にしても、僕の心は奇妙な静けさを保っていた。
まるで、少し前から知っていたような気さえした。
僕はそのすべてを、
朝の冷たい空気の中で、ただ聞いていた。




