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ゼロ円札  作者: TOMMY


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9/9

目が覚める朝

次の日。それは僕のもとに静かにやってきた。


「いらっしゃいませ〜」

まだ朝日も出ていない早朝。僕はコンビニで朝食を買うと、ATMを操作した。


色と文字が付いたカードを差し込み、一万円を引き出す。機械がゴーと音を立てる。そして紙幣のドアが、ガチャりとスライドした。


そこには、三枚の紙幣があった。

僕の鼓動はわずかに跳ねた。


恐る恐るそれを取り出す。

心のどこかで、それが何かは分かっていた。


一万円札が一枚。

……ゼロ円札が二枚。


無価値な紙幣の足し算。合計一万円。

いや、10,000.0円か。


ゼロ円札を天井のライトに照らす。

本物に間違いない。


だが、そこには”あってはならない”文字があった。


──いA8


僕は目を疑う。

急いでポケットからゼロ円札を取り出す。


──008


そこは製造番号が書かれていた場所だった。

ひらがなとアルファベット──それらが使えるなら、希少性という概念が覆される。


僕は熱を持つ背中で、もう一度、同じようにATMを操作した。

ゴー。ドクンッ。ガチャり。ドクンッ。

鼓動の音が、高鳴る。


現れた紙幣は、五枚……


静かに僕はすべてを悟った。

ゼロ円札の価値は……


「そろそろどいてくれんかね?」

背中からどこかで聞いたことがある声が問いかけた。


はっとした。僕の視界は急速に広がり、長時間ここを占有していたことを理解した。慌ててその場から身を翻した。

「すいません、どう、ぞ……」


そこには交換所で会った、丸眼鏡に白髪の老人が立っていた。

「ど、どうして、ここに!?」

僕はその顔を見て、なぜか安心感を覚えていた。


「愚問じゃな。そんなこと、分かっているじゃろう」


僕はゴクリと喉を鳴らした。


「変わっとらんようじゃな。お喋りはここまでじゃ。突っ立ってていいのかの?

ひとつだけ、問をやろう。

まだ静かな早朝じゃ。その紙幣なら、何を買えると思う?」


僕はコンビニを飛び出した。

今ならまだ……


黒い欲望が、脳の奥で一気に燃え広がった。

ゼロ円札はまだ、生きている。

死にかけている。だが、まだ、生きている。


僕は走った。

欲望のままに。だが、行き先は分からなかった。

ゼロ円札は、他の紙幣には換えられない。


『一円以上で売買することは違法』


国税庁のサイトで見た、その一文が、

足元から静かに浮かび上がってきた。


僕の足は速度を失い、

やがて、どうしようもなく立ち止まった。


「……そうか」


呟いた声は、思ったよりも乾いていた。


僕は、欲望がなかったわけじゃない。

ただ、使うことができなかったのだ。


ゼロ円札を使うには、

犯罪を犯すか、誰かと向き合って、価値そのものを書き換えるしかない。


それは取引であり、交渉であり、

そして——覚悟だった。


ゼロ円札は富を動かすための道具じゃない。

“欲を計測するための回路”だ──そう思えた瞬間、背筋が冷たくなった。


無人レジにそれを仕込み、

人の手で紙幣をやり取りさせる。

そうして、少しずつゼロ円札を配り、

希少性という感覚だけを社会に定着させる。


やがて、ゼロ円札は

高価なものと同じ場所に並び、

同じ目で、いやそれ以上の価値で見られるようになる。


本当の価値は、制度ではなく、数字でもなく、

人の側から、静かに立ち上がる。


それが、ゼロ円札に託された役割なのだと、僕は理解した気になった。


──朝日が建物の上から、ゆっくりと昇っていく。

朝焼けの空は晴れ渡り、昨夜までの灰色を、少しずつ溶かしていった。


本来なら、温かいはずの日差しを浴びながら、

僕はひどく凍えていた。


街灯が消え、家々に明かりが灯る。

このまま時間が止まってほしかった。

誰も気付かなければ、価値は変わらない。

いまの社会は、このまま継続できる。


けれど、そうはいかない。


僕の頭の中で、パズルのピースが

音を立てて噛み合っていく。


この世界の価値は、人々の欲求によって揺れ動く。

淡く、儚く、波のように上下して、

不安定なまま人をあざ笑う。


駅で会った、有価値会の男の言葉を思い出した。


「価値は利便性」


極端な言い様だと思っていた。

だが今は、否定できない。


白い息を吐く。

それは朝日に溶け、跡形もなく消えた。


街のどこかで、驚愕の声が上がった。

人々は家を飛び出し、なにかに追われるように走り出す。

ある者はATMへ。

ある者は、ゼロ円札で売買できると噂の店へ。


街のどこかで、悲鳴が聞こえた。

ゼロ円札が宙を舞い、人々がその場に崩れ落ちる。

別の紙幣を手にした者は、まだいない。


街のどこかで、怒号が響いた。

希少であるはずだったものが、

そうではなかったと知った人々は、

行き場のない怒りを抱えたまま、街を彷徨っていた。


その騒ぎを前にしても、僕の心は奇妙な静けさを保っていた。

まるで、少し前から知っていたような気さえした。


僕はそのすべてを、

朝の冷たい空気の中で、ただ聞いていた。

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