当たり前の日常
僕はいかつい顔の銀行員に送られて自宅に返された。
どうやら、僕は選ばれた人間でも危険人物でもないらしい。ただ、何もしなかった人間。彼らからすれば僕は、ただの異物で、単なるモルモットなのだろう。
でも、それを理解して重たかった肩の荷が下りた。それと同時に心の中の黒い何かが、ふっと熱を持った気がした。
そして僕は、ゼロ円札に犯された日常に戻っていった。ポッケには、一枚のゼロ円札と真っ白なカードが意味ありげに息を潜めていた。
それから数日後。会社の飲み会で、ある話題が盛り上がった。
「最近の企業はゼロ円札で何でも取り引きしてるらしいぜ」
顔の赤い同僚は僕に寄りかかりながら言った。
「ああ、無人レジがなくなったからな」
部長は何かを知っているふうに続ける。
「ゼロ円札はレジを通せば、本物か偽物かを簡単に判断できて、価値がゼロだろ?」
僕と同僚は頷く。
「だから、誰も“値段を気にしなくていい”んだよ。高価な設備のやり取りをゼロ円札で支払うこともあるらしい。もしかしたら、うちの会社もそうだったりしてな」
僕は急に怖くなった。
「でもそれって、犯罪じゃないですか?」
「そりゃそうだ。でもな、ゼロ円札はお互いの合意があれば自由にやり取りできるだろ。だから罪悪感はないそうだ。国に認められたやり方だってね」
上司は笑っていた。
でも、僕はまったく笑えなかった。
ゼロ円札で取り引き。
無価値の紙幣が本当の紙幣の価値を超えている。
「俺もゼロ円札欲しいっす。レジからぽろっと出てきませんかねぇ〜」
「まったくだ。私もゼロ円札に投資しようか迷っているところだ」
「いいですね!さぁ飲みましょ、飲みましょ!」
僕はこの飲み会を、まったく楽しめなかった。
数カ月後には、ゼロ円札は完全に社会を支配していた。ゼロ円札による取り引き、ゼロ円札による会員制、ゼロ円札を使うことで半永久的にサービスを受けられる場所すらあった。ゼロ円札で世界一周旅行に行けるという噂もある。
人々はゼロ円札の価値を自由に定義し、自分たちの欲望を満たしているように見えた。
その社会は静かに、だが確実にそこまでやって来ていた。
僕はゼロ円札を見上げた。価値が無限大となった紙幣。
008
いまはどれくらいの枚数が発行されたのだろうか。
僕は相変わらず、この紙を使えずにいた。
ゼロ円札が当たり前となったある日。
通知がひとつ、届いていた。
その文面を見て、頭にずっとぶら下がっていた恐怖が、ずい、と浮かび上がってきた。
「その時はきた」
僕は何が起こるのかは分からなかった。
でも、何が失われるかは知っていた。




