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ゼロ円札  作者: TOMMY


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7/9

無価値の資格

──黒塗りのベンツは休日の昼過ぎにやってきた。

「どうぞ」

いかつい顔の銀行員はドアを開ける。


僕は意を決して乗り込んだ。この車には、嫌らしいほどに金の匂いが立ち込めていた。


気が遠くなるほど車に揺られ、山奥の施設に到着する。車を降りて、それを眺める。無機質で真っ白な研究所。そんな印象の施設だった。


その施設には窓もドアもなかった。でも、見慣れた機械が壁についている。僕は知っている。ゼロ円札をこの機械に入れることを。ポケットをまさぐる。


……そっか、そうだった。すでにゼロ円札は、使っていた。


「こちらを」

銀行員は一枚の紙幣を僕に突きつけた。


それを受け取る。

ゼロ円札。つかさず青空に透かす。本物。

そして僕の手は、数字を見て震えた。


「なんで、これを持っている?」

製造番号は008。

「ゼロ円札を回収することが、私の仕事です」


危険な香りが鼻筋をかすめる。僕はそれ以上無意味な会話は止め、機械にそれを滑り込ませた。すると壁はスライドして開いた。


壁の向こうは、音がなかった。


足音が吸い込まれていく。壁も床も、天井も、異様なほど白い。清潔というより、概念としての無垢が塗り固められているようだった。


「あなたが最初です」

透き通った声が響く。

中には、ゼロ円札交換所であった、背の高い白衣の男性がいた。相変わらず、丁寧な口調と優しい表情を崩さない。


「何の……ですか」


「欲を、管理できた人間です」


意味が、分からなかった。

白衣の男は僕の表情を無視して、前に進んでいく。

僕の身体も、何も分からないまま前に進む。僕の意思よりも、この場所のほうが強く、正しい気がした。


部屋の中央には円卓があった。

いや、正確には円卓だけがあった。椅子はない。座る前提がない。


背広姿の男女が二人。どちらも、名札も肩書きもない。けれど、異様に“偉そう”だった。

偉いのではない。偉そうであることに慣れきった姿だ。露骨に嫌悪を向ける鋭い目の女性。ネクタイが派手な無表情の男性。彼らの目は、僕を見るというより、僕の内部の“数値”だけを観測しているようだった。


胸の奥に、薄い膜のような恐怖が張りついた。歓迎されていないことを肌で感じる。


すると、無表情の男性が言った。


「お前が、008番だな」


僕は反射的に頷いた。

番号で呼ばれることに、妙な安心を覚えている自分にぞっとする。僕は周囲を見渡し、白髪の老人を探した。ここには、いない。


「お前は、ゼロ円札を自分の意志で使ったよな?」

「ええ、そうですが何か」

「それを使って、何を買った?」

「コンビニで弁当と缶コーヒーを」


一瞬だけ、空気が揺れた。

笑った者はいない。だが、全員が同時に“納得した”気配だけがあった。


「あなたは、欲を“消費”しなかった」

鋭い目の女性は淡々と言う。

「意味が……」

「普通の人間は、金で欲を膨らませる。多額の富を、巨大な権力を。しかしあなたは、ゼロ円で欲を完了させた」


ぞくり、とした。


「あなたは、ゼロ円札政策で欲を制御した、初の人間です」

いかつい顔の銀行員は、改めてもう一度言った。


部屋の中の視線が、静かに僕に集まった。

いかつい銀行員、白衣の男、鋭い目の女性、そして無表情の男性。その眼差しは僕を試すような視線だった。


「ゼロ円札をただ使っただけで、欲を制御したことになるんですか? 普通に、みんな使っていると──」


僕はそこで言葉が詰まった。ニュースは毎日、ゼロ円札の話題で持ちきりだ。ゼロ円札の存在や危険性を知らない人間など、いるはずがない。


「そんな人間はいないのです」


白衣の男は淡々と、しかし断定的に言った。僕は、喉の奥が締めつけられるのを感じた。


「強いて言うなら、使えない人はいます。暴動への恐怖から捨てる者、正義感から警察に届ける者、金庫の奥に閉まっておく者。動機は様々です。だが、それらは“欲を制御している”とは到底言えません」


男は円卓を軽く叩いた。その音が白い部屋に小さく響く。


「手放すことと、制御することは違います。あなたはそこを混同している」


僕は、それを聞いて思わず口を開いた。


「でも……僕はただ、財布にあったから使っただけです。特別なつもりなんて、これっぽっちもありません」


声が震えているのが自分でもわかった。あれを使うことが“特別”であるという実感は、使った瞬間までなかったのだ。なのに、ここにいる。


白衣の男は、僕の言葉を受け流すように、ゆっくりと続けた。


「人は“ゼロ”を恐れます。無価値の紙切れ一枚であっても、失うことそのものを恐れる。だから求め続けるのです。“持ち続ける自分”を。そうして価値に縛られ、欲に従属する」


その一言に、部屋の空気が一段と冷たくなった。


「欲の制御とは単なる放棄ではありません」男の声はより静かになった。

「手放したあとも、その価値に心を縛られない者。それだけが、条件なのです。価値を失っても、生活の基準がそれによって揺らがない者だけが“制御できる”と認定される」


言葉が、僕の中にゆっくりと沈んでいく。

自分がそんな人間だと、僕は一度たりとも思ったことがなかった。


胸の奥に、薄い膜のような恐怖が張りついた。皮膚の下で、何かが冷たく震えている。僕は知らず知らずのうちに、試験に合格してしまったのだろうか──そんな馬鹿げた考えが、頭をよぎる。


「この政策は、選別です」

誰かが淡々と言った。

「持つ者と持たぬ者ではない。奪う者と、手放せる者だ」


その理念が、静かに、しかし確実に胸に落ちた。僕は、いつの間にかその網の目の中に巻き込まれていたのだ。


白衣の男は一枚のカードを円卓に置いた。

名刺サイズのそれは、カタリと乾いた音を立てる。真っ白で、装飾も文字もない。


「これはあなたのものです」


僕はそれを見つめた。

なぜ自分なのか、その答えがそこに印刷されている気がして。


「……なんのカードですか?」


鋭い目の女性が、口角をわずかに持ち上げた。


「“なんでも手に入る”カードよ。正確には、そう定義されているだけ」

彼女は続ける。

「大事なのは、それを持ったまま、どう振る舞えるか」


いかつい顔の銀行員が、黙って顎をしゃくる。

受け取れ、と言外に命じる仕草だった。周囲の視線が、逃げ場を塞ぐ。


僕は、仕方なくカードを手に取った。


──軽い。


あまりにも軽すぎた。

紙幣よりも、プラスチックの会員証よりも軽い。

なのに、今まで聞かされた言葉だけが、胸の奥で重さを増していく。


「……なぜ、僕なんですか」


思わず口を突いて出た。


ゼロ円札を使った人間なら、他にもいるはずだ。

欲を制御したと言うなら、もっと適任がいる。


無表情の男が、初めてこちらを正面から見た。


「まだ、自分が“選ばれた”と思っているのか?」


低い声だった。


「違う」

男は即座に否定する。

「お前は、選べなかった人間だ」


部屋が、一瞬だけ静まり返る。


「……どういう意味ですか」


白衣の男が代わりに口を開いた。


「ゼロ円札は、使った瞬間だけ人を試すわけではありません」

「使った者、奪った者、売った者、捨てた者、隠した者、恐怖で手を出せなかった者」

彼は淡々と指を折っていく。

「それらはすべて、明確な“反応”です」


「だがあなたは違った」


その言葉に、僕は息を止めた。


「あなたは知っていた。危険性も、価値も、社会の熱も」

「それでも、触れなかった。避けたわけでも、拒絶したわけでもない。ただ、選ばなかった」


鋭い目の女性が、楽しげに続ける。


「一番困るのよ、そういう人間。欲深い人は扱いやすいし、清廉な人は管理できる。でも──」


彼女は僕を指さした。


「価値を前にして、欲する理由も、拒む理由も成立してしまう人間」

「どこにも分類できない」


無表情の男が、円卓に手を置いた。


「だからお前は、ここにいる」

「選別の結果ではない」

「判断不能だったからだ」


背筋に、冷たいものが走った。


僕は、何もしていない。

それなのに、すでに記録され、観測され、ここまで運ばれてきた。


「時が来たら、ゼロ円札の価値という床を静かに抜く。残るのは、“それでも基準を失わない者”と、そうでない者だ。お前はどこに分類されるのだろうな」


鋭い目の女性が、愉快そうに笑った。


「あなたはね、どちらでもあり得る」

「だから見たいのよ。価値が崩れたあとでも、何を選ばないままでいられるのか」


カードが、掌の中で冷たく光っていた。

指が凍えそうに痛む。


それは、報酬ではなかった。

罰ですらない。


──ただの、観測装置だ。


僕は、この施設に“呼ばれた”のではない。

世界から、最後まで分類されなかった人間として、残されただけだった。


価値の崩壊……

何を言っているのか、このときはまだ、理解できていなかった。

ただ、僕がここにいる理由だけは理解できていた。

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