価値基準の会議
国会議事堂の地下三階に、その会議室はある。
窓はない。スマートフォンの電波も入らない。中央にあるのは、楕円形の長いテーブルだけだ。
「……で、進捗は?」
質問したのは、財務大臣だった。
その声には、国を動かす者に特有の“温度のなさ”があった。
テーブルの端に座る男が、タブレット端末を操作する。
「ゼロ円札の流通率は、当初の想定を二割上回っています。現在、推定所持者は全国で──」
数値が読み上げられた瞬間、何人かが小さく息を呑んだ。
「多すぎるな」
「ええ。ですが、想定の範囲内です」
「暴動の方は?」
今度は官房長官が口を挟んだ。
「コンビニ、駅構内、無人販売所を中心に拡大しています。有価値会のほうでも回収活動は進めていますが、逆に“殉教者”が出始めています」
「……宗教になる前提で設計したのは、そちらだろう?」
官房長官の目が、白衣の男に向いた。
「はい。無価値に価値が宿った瞬間、人はそれを“信仰”に変えます。これは貨幣というより、実験用の神です」
誰も否定しなかった。
「で、本来の目的は達成できそうなのか?」
財務大臣が問い直す。
白衣の男は、少しだけ間を置いて答えた。
「ええ。市場はもう“本物の価値”を誤認し始めています。
金、株、不動産──あらゆる指標が、ゼロ円札を基準に揺れ始めました」
「つまり?」
「この国の“価値基準そのもの”が、書き換えられます」
会議室が、静まり返った。
経済の崩壊ではない。
経済の再定義だ。
「だが、制御できなければ国が壊れる」
そう言ったのは、若い女性議員だった。
白衣の男は、静かに首を振った。
「壊れるのではありません。“選別”されるだけです」
「持つ者と、持たぬ者、か?」
「いえ。“奪う者”と、“手放せる者”です」
その言葉に、数人の政治家の視線が泳いだ。
「……ところで」
白衣の男は、話題を変えるように言った。
「製造番号一桁の被験者ですが」
一瞬だけ、場の空気がピリついた。
「まだ泳がせているのか?」
「はい。彼は“所有欲”と“倫理”のバランスが、非常に理想的です」
「危険は?」
「もちろんあります。しかし──」
白衣の男は、わずかに笑った。
財務大臣は、深く椅子にもたれた。
「……君たちは、国民をどこへ連れて行くつもりだ」
白衣の男は即答しなかった。
代わりに、こう言った。
「“価値のないものに支配されない社会”です」
そのとき、別の職員が会議室に駆け込んできた。
「緊急速報です! 都内複数の駅で──ゼロ円札を巡る集団衝突が発生。死者が……」
その報告を遮るように、白衣の男は小さく呟いた。
「始まりましたね」
誰も、それを止めようとはしなかった。
国会議事堂の地下で、誰もが“もう後戻りできない”と気づいていた。




