ゼロ円札交換所
──数日後、僕はゼロ円札交換サイトの住所を尋ねた。これを持っているのはリスクが高い。そこにはそれを解消する何かがあるように思えた。
住所は自宅から遠い都内を示していた。電車を降り、街を歩いていると、ある異変に気付いた。
「くそっ、ここもだめか」
自動販売機の飲料水を大量に抱えて走る少年たち。
僕は嫌な予感を察し、コンビニに入った。すると駄菓子を一つ持った大人が無人レジに長蛇の列を成していた。全員一万円札を握りしめ、目が血走って見えた。
すでに社会は、まるでガチャガチャのように、当たりも外れも分からないまま、ゼロ円札を巡って機械を回していた。
僕はさらに財布が重たくなったように感じ、早足になった。
ようやく、交換サイトの住所に書かれた建物を見つけた。僕は目眩を覚える。尖った屋根に”0”のオブジェクトが飾られている大きな建物。それはまるで十字架を掲げた教会そのものだった。
その建物の正面には、扉もドアノブもついていない。しかし、見覚えのある、街中で何度も見たあの機械が、壁に取り付いていた。
「なるほど、上手くできているじゃないか。勝手に奪えば窃盗罪だからな」
僕はそう言いながら、そこにゼロ円札を滑り込ませた。
ピッ、という小気味よい電子音とともに、建物の壁は真横にスライドした。
「008番様。お待ちしておりました」
透き通るような優しい声。僕は中で待っていた、背の高い白衣の男性を見上げた。目が合うと、にこやかに笑みを作った。その丁寧な対応に僕は安心感を覚えたが、同時に、少しだけ不気味でもあった。
白衣の男性は僕を小さな部屋に案内した。
中央に丸いテーブルが一つ。その両脇に一人がけの豪華な椅子が二脚あるだけの部屋。
そこには、どこかで見たような老人が座っていた。
「よく来たな008番」
やけに上機嫌な声。
僕は露骨に嫌味を返す。
「その呼び方、やめてもらっていいですか」
老人は白ひげの口を歪めた。
「こんな怪しい施設で、本名を名乗る気かね?」
「どうも。山田太郎です」
「そうか、008番」
噛み合わない会話のまま、老人はゼロ円札を差し出した。
僕はそれを奪うように掴み、蛍光灯の光にかざす。製造番号は、間違いない。
老人は笑みを浮かべながら、胸ポケットから丸眼鏡を取り出し、ゆっくりとかけた。
その瞬間、銀行での記憶がよみがえる。ゼロ円札の書類を記入し、窓口で苛立っていた白髪に丸眼鏡の老人。
「……最初から僕をつけていたんですか」
僕の問いに、老人は楽しそうに笑った。
「製造番号一桁の人間が、どこまで壊れるかを確認したくてな」
数多の”なぜ”が頭の中に沸き起こり、理解がまったく追いつかない。僕はその中から核心だけをすくい出す。
「なぜ、ゼロ円札を作ったのですか?」
老人はがっかりしたような顔で指を差した。
「わからぬか……社会の価値を取り戻すためじゃよ。人はな、価値を信じていた頃より、無価値に値がついた瞬間のほうが、ずっと狂いやすい──」
すると、白衣の男性は老人に耳打ちした。
「……ふむ、時間じゃな」
老人は立ち上がり、扉の方を振り返る。
「ひとつだけ、問を残そう。
機械の列に繰り返し並んでいた人間が、急に帰ったら……他の者は、何を考えると思う?」
答える間もなく、老人たちはスライドする壁の奥へと消えた。
「ま、待て……」
スライドする扉に飛びつくも、そこはすでに壁のように動かなかった。
しんとした、室内。
建物からは人の気配が感じられなかった。
しかし、外では何かが起きている気配があった。悲鳴や怒号、何かが割れる音が、かすかに響いている。
僕は外へ飛び出した。
道に出た瞬間、肩に強い衝撃を受けた。
「どけ!」
ぶつかってきた男は血走った目で走り去っていく。怒号がビルの隙間をかけ巡る。ざわざわとした騒々しさが波のように押し寄せては引いていく。僕は視線を彷徨わせ、その正体を理解した。僕は駅に向けて、静かに走った。
その途中、コンビニの外で、自動販売機の近くで、そして駅の中で、暴動が起こっていた。
「ゼロ円札を渡せ!」
「それは俺のものだ!」
仕組まれた争奪戦。希少性という名の火薬。もはや一億円にも届きそうな価格を前に、人々は狂っていた。ゼロ円という国が定める経済的価値だけが、それを嘲笑っている。
僕は電車に乗り込み、夕日に沈む窓の向こうを眺めた。
街は叫び続けているのに、
僕の胸の奥だけが、異様なほど静かだった。
まるで――
最初から、何も入っていなかったかのように。




