かちのある無価値
──次の日、銀行でゼロ円札について尋ねた。
「すみません。ゼロ円札に両替していただきたいのですが……」
口にした瞬間、嘘に近い言葉が皮膚の裏を這い、身体のあちこちがむず痒くなる。
ネクタイの色がやたらと派手ないかつい顔の銀行員は、感情の載らない声で言った。
「申し訳ありません。こちらではゼロ円札をお取り扱いしておりません」
なるほど、やはり存在そのものは否定しない。そこに、わずかな隙がある。
僕は喉の奥の乾きを誤魔化すように、小さく笑ってみせた。
「そうですか。では、もし……ゼロ円札を入金するとしたら、どうなりますか? あくまで、もしもの話です」
一瞬だけ、銀行員の眉が歪んだ。
「書類が、必要になります」
言い終える前に、もう視線は逸らされていた。
これ以上は踏み込むべきではない。僕はそう感じ、会釈だけして銀行を出た。
それから数日間、僕は市内の銀行を渡り歩いた。
すると、どこの銀行にも共通して、ゼロ円札入金用の書類だけが用意されていることに気がついた。
真っ白な用紙。
記入例も、注釈も、何もない紙が、新品のプラスチックケースに整然と収められている。
まるで、誰もまだ一度も“正解を書いたことがない”書類のようだった。
そして、ある支店で、僕はそれを見つけてしまった。
すでに必要事項が事細かに記入された、ゼロ円札用の書類。
横に立っていたのは、白髪に丸眼鏡の老人だった。
苛立った様子で、窓口の奥を睨みつけている。
僕は自分の誤りを悟った。僕だけが保有しているわけではない。
すると背後から
「どうかなされましたか?」と威厳に溢れたベテラン銀行員が話しかけてきた。
その目はとても鋭く、こちらの内側まで見透かされている気がした。
まずい。用紙を見つめ過ぎている……
背中に冷たい汗が流れる。
「すみません、急用を思い出しました」
自分でも驚くほど声が裏返り、僕はほとんど逃げるように銀行を後にした。
自宅に戻り、ネットでゼロ円札の動向を追った。
闇市の相場は日を追うごとに跳ね上がっている。
製造番号が若いものほど高額で取引され、数千万円に達した例もある。
喉の奥で、黒い欲が音を立てた。
僕はそれを、必死で押さえ込んだ。
そして、奇妙なサイトを見つけた。
──『ゼロ円札交換』
そこは、お互いの好きな製造番号のゼロ円札を持ち寄り、等価で交換するコミュニティだった。
譲渡であれば違法にはならない。
ただ、運営元の表記はどこを探しても曖昧で、ドメインだけが妙に“それっぽい”。
銀行が集め、どこかへ流す。
交換サイトが、別のどこかへ送り出す。
それらがすべて、どこかで一つの輪になっている——そんな嫌な想像が頭を離れなかった。
その夜、知らない番号からの着信が二件、スマホに残っていた。
留守電は入っていない。
胸の奥が、じわじわと締めつけられる。
翌日の夕方、インターホンが鳴った。
覗き穴の向こうにいたのは、あのいかつい顔の銀行員だった。
ひとりで、静かに立っている。
……やはり、辿り着くのか。
僕は息を殺し、そっと窓を開けた。
外の自動販売機にゼロ円札を滑り込ませ、部屋へ戻り、何事もなかったように玄関を開ける。
「お持ちのゼロ円札について、少しお話を」
銀行員の声は、穏やかすぎるほどだった。
なぜか、当たり前のように、知っている……
持ってなんていないと言うのは、話がこじれかねない。
「……残念ですが、使ってしまいまして」
喉が震えるのを、必死に抑えながら言葉を継ぐ。
「銀行を出てすぐ隣の、コンビニで」
すると、銀行員は小型の探知機のようなものを取り出し、僕の胸の前をなぞった。
ざらついた音が、短く鳴る。
続いて、部屋の奥へ向けられる。
乾いた音は、やけに長く続いた。
「……そうですか」
名刺が、無言で差し出された。
「また、伺うかもしれません。失礼します」
扉が閉まったあともしばらく、足音が遠ざかるまで、僕は動けなかった。
夜更け、外の自動販売機で返却レバーを回すと、ゼロ円札は何事もなかったように戻ってきた。息を撫で下ろしながら、ゼロ円札を眺める。製造番号、008。その数字が月明かりに浮かんだ。
賭けに、勝った。
木を隠すなら、森の中だ。




