ゼロ円札
ある日、無人レジからお釣りを受け取ると、見慣れない紙幣が一枚入っていた。
外見は他の紙幣と遜色ない。インクの重たい匂いも、指にまとわりつく紙のざらつきも、本物のそれだった。空に照らせば、透かしもちゃんと入っている。しかし、見たこともない人物と風景、それに数字のゼロが一つだけ。その前にあるはずの”1”は見当たらなかった。
「ゼロ円……札?」
その言葉は虚空に消えた。僕は偽札なのではないかと怖くなり、近くの自動販売機に滑り込ませた。
ピッという電子音がした。
紙幣は返却されない。
デジタル表示板のゼロが、濃い。
表示のゼロは、確かに“受け取り”を意味していた。僕はすぐに返却レバーを回して、ゼロ円札を財布に戻した。
明らかに『レア』だ。
こんな紙幣はどこを探したって手に入らない。僕は鳥肌が立つほど静かに興奮した。
世界では、ゼロ円札の噂がふつふつと熱を帯びはじめた。誰もそれが、劇物だとは思っていなかった。
「あそこの店でゼロ円札が出たんだってよ」
「えー!ほんとー!?」
「ほんと、ほんと。今度行ってみない?」
「うん、いくいく!」
女子高生たちからはそんな話題が盛んに聞こえた。ゼロ円札の噂はあっという間に広まった。今では学校でも、会社でも、病院でも耳にしないことはなかった。
僕はちらっと財布の中のゼロ円札を見た。無価値のはずなのに、どこか胸が熱くなった。
商店街を歩いていると、家電量販店の前に人だかりができていた。みんな無言でモニターを眺めている。すると小さく、「──ゼロ円札による違法取引が……」という声が耳に届いた。僕はそこに駆け寄った。
モニターには警察に逮捕される青年と、上部に『ゼロ円札による売買を検挙』の文字が映し出されていた。急に背筋がつめたくなる。身体は小刻みに震え、脳が警鐘を鳴らした。
「ここにいては、捕まる」
その感覚がゆっくりと、かかとを地面から剥がした。
僕は急いで自宅に戻ると玄関に鍵を掛けた。そして脇目も振らず”ゼロ円札”とネットで検索した。すると、国税庁の規則のページが目についた。僕は震える手でそれを開き、凝視する。
国税庁のサイトには、まるで初めからそこにあったかのように、ゼロ円札に関する規則が淡々と載っていた。
*****
ゼロ円札は国が管理、発行する紙幣です。
破れば器物損壊となり、盗めば窃盗となります。
さらに、ゼロ円札を一円以上で売買することは法的に禁止されており、発覚した際には重い刑罰が処されます。
ただし、例外としてお互いの合意のもとでの譲渡は制限されません。
*****
僕は息を飲んだ。法律が改定されたわけではなく、もとからあったかのように書いてある。ふと、自動販売機の動作を思い返した。あれもまた、最初からゼロ円札の存在を肯定した作りになっていた。普通に考えれば、ゼロ円なのだから設定する必要はないはず。なのに、だ。
違うページには、違法オークションで一千万円で落札され、出展者が逮捕された記事やゼロ円札を持った人を神様のように崇める宗教団体の記事もあった。
僕は震える指でゼロ円札を財布から抜き取る。重さなんてほとんどないはずなのに、ずしりと重さを感じた。考えれば考えるほど、震えが止まらなかった。
視線が吸い寄せられるようにゼロ円札を眺めていると、ゼロ円の表示の他に小さな数字が刻まれていることに気付いた。
「008」
それは普通の紙幣にある製造番号のように見えた。けれど、三桁しかない。これでは百枚、いや千枚で打ち止めになる。
「僕が持っているのは8枚目……」
決められた製造数による希少価値と法律的に定められた経済的無価値。この歪んだ矛盾が人々に熱を持たせているのかもしれないと僕は思った。
それを見ながら思考を巡らせる。
売買のリスクは高い……
レアリティの誇示は身を滅ぼしかねない……
手放すのは、とても惜しい……
そして小さく頷く。
ゼロ円札への理解が進み、指の震えは決意とともにピタリと止まった。そして僕は、知りたくなった。政府がなぜ、こんな紙幣を作り出したのかということを。
なぜか僕には、これがあればそれが分かるような気持ちが芽生えていた。
その自信に、根拠がないことだけははっきりしていた。




