第2話 空っぽの箱
「さて、と」
夢師ミオは、目の前に横たわる大男を見下ろした。薄暗い夢師の間。灯火がゆらめき、壁に掛けられた布がかすかに揺れる。ベッドに横たわるのは、昨夜現れた依頼人ヴォイドと名乗る傭兵だ。
「まさか、本当に夢を一度も観たことがないなんて……」
ミオは思わずつぶやいた。人なら誰しも眠れば夢を観る。それは心の奥底が紡ぐ映像であり、記憶の断片だ。夢を観ない人生など、聞いたことがない。だが彼の瞳は嘘を言っているようには見えなかった。あの冷ややかな灰色の目。感情を拒んだ瞳孔。人の心を覗くのが仕事であるミオには、彼の“空虚”が本物だと直感できた。
「いいわ。夢師の力を信じなさい。夢がどんなもんか教えてあげる」
ミオは机に置かれた木箱を開ける。中には糸巻きのような光る糸――夢糸が並んでいる。
それぞれは過去の依頼で使った余りで、心の残滓を吸い取っている。彼女は真新しい透明の糸を取り出し、指先でふっと息を吹きかける。
「夢はね、人の心から溢れる想念を糸にして紡ぐの。あなたの深層を探り、映像に織り上げれば、あんたは初めて“夢”を体験できるわけ」
説明する声は勝気だが、その胸の奥には妙な緊張があった。
――本当に、この男に夢を観せられるのだろうか?
「少し眠くなるけど、心配しないでね」
ミオは香を焚き、ゆっくりと空気を満たす。淡い煙が部屋に広がり、ヴォイドの瞼が徐々に重く閉じていった。
「おやすみなさい、傭兵さん。夢の世界へご案内~」
ミオは夢糸を男の胸にそっと置き、指で弾いた。すると、光の粒が舞い上がり、糸が心臓の鼓動に合わせて揺れる。……が。
「……あれ?」
通常なら、糸はすぐに色づく。青や緑、時には赤や金色。依頼人の心の記憶や感情が染み出して、夢の素材となる。しかし、ヴォイドの糸は――無色のままだった。
「うそ……?」
ミオは眉を寄せ、再び糸を撚る。
「来い、感情……記憶……何かしらの欠片でも」
しかし、光は淡く瞬くだけで、色は現れない。糸はただの空っぽな透明。まるで彼の中に、織り込むべき心そのものが存在しないかのように。
「どういうこと? こんなの、初めて」
夢師になって以来、数えきれない依頼を受けてきた。罪人の悔恨、恋人の未練、戦士の恐怖。どんな心にも必ず“何か”があった。それが夢の材料となり、ミオは夢糸を織り合わせてきたのだ。だがヴォイドには――何もない。糸は虚空を掴むように震え、やがてぴんと張ったまま動かなくなった。ミオは唇を噛む。
「夢が、織れない……」
数時間後。薬の効果が切れ、ヴォイドが目を開けた。
「……終わったか」
冷たい灰色の瞳が、ミオを射抜く。ミオは椅子に腰を下ろし、頭を抱えていた。
「ごめん。失敗したわ」
「そうか……」
「ええ。あなたの中には材料がなかったの。感情も、思い出も。空っぽの箱を覗いてるみたいだった」
ヴォイドはまばたき一つせず、淡々と答えた。
「そうか……」
「“そうか”って何よ」
「俺は戦場でしか生きてこなかった。望むものも、恐れるものもない。ただ戦い、生き残るだけだ。――だからこそ、夢など無縁だと、どこかで思っていた」
その言葉に、ミオは苛立ち混じりに笑った。
「無縁って……それ、人間として欠陥でしょ? 夢を見ないなんて、生きてる証が欠けてるようなものよ」
ヴォイドの口元がわずかに動いた。笑みとも嘲りともつかぬ影。
「欠陥、か。そうかもしれん。仲間はみな死に、俺だけが残る。夢を観る資格なんてないのだろう」
ミオは返す言葉を失った。冷静に語るその声は、虚ろで、どこか寂しげだった。
ミオは立ち上がり、彼に歩み寄る。
「あなた、自分から夢を知りたいって言ったじゃない。だったら簡単に諦めないでよ」
ヴォイドは目を細める。
「方法があるのか」
「あるわよ。夢を織れないなら、まずは探せばいい。あなたの中に“欠片”を見つけるの。記憶の底、忘れてるだけの感情とか……」
ミオはにやりと笑った。
「夢師ミオに任せなさい。必ず見つけてあげるから」
その勝気な声に、ヴォイドはほんのわずかだけ、表情を揺らした。それは、誰も気づかないほど小さな変化だった。夜は更けていく。夢を見ない傭兵と、夢を織る少女。空白を埋める物語が、いま動き出そうとしていた。




