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4. ―最初の炎―【其ノ参】

 数分前。


 焔は火元から離れ、校舎裏の植え込みを越えて駆けていた。

 制服はすでに脱ぎ捨て、黒装束に身を包んでいる。

 目の前の校庭は、すでに避難完了して無人に近い。だが、空気が静かすぎた。


 (……何かがおかしい)


 煙が空へと昇る。が、違和感は“火”そのものではなかった。


 そして——見えた。


 裏手の壁際、草むらに半ば埋もれるようにして倒れていた数体の影。


 焔は足を止め、警戒を解かぬまま近づいた。


 「……なんだこれ……」


 黒装束。忍びの者だ。

 全員、即死に近い状態。喉を裂かれ、関節を断たれ、表情すら残っていない。

 処理が速すぎる。痕跡を残さぬよう訓練された“誰か”の仕事。


 焔はしゃがみ込み、死体の一つに手を伸ばした。

 体温がまだ残っている。時間にして……10分と経っていない。


 「……戦闘直後ってとこか」


 そして次の瞬間——


 ピリ、と肌に刺すような気配。


 風が揺れた。

 校舎の上階、南棟四階——そこから。


 焔はすぐに顔を上げた。


 「なんだか……変な気配があちこちからするな……」


 殺気、術の残滓、そして血の匂い。

 それらが風に混ざり、複数の“争い”が起きていることを告げていた。


 中でも、一箇所だけ。

 異様な“重さ”を持つ殺意が、今まさに燃え上がろうとしていた。


 (……上か)


 焔は跳ねるようにして、壁を蹴った。

 四階へ向けて一直線に——“それ”が爆発する前に。


 四階の廊下。


 その奥で繰り広げられていたのは、もはや“学園”という場には不釣り合いな殺し合いだった。

 砕けた壁、割れた窓、舞う血と埃。


 その光景を、焔は——影の中から見ていた。


 身を潜めたのは、廊下から続く非常口の上部。

 風が吹き抜ける通風口の中に、彼はまるで空気と同化するようにして潜んでいた。


視線の先では、仮面の男がゆっくりと美玲へと歩を進めていた。

 その歩き方には、余裕と殺意しかない。


 美玲は既に満身創痍。

 立っているのが不思議なほどだ。

 刃を握る指先が震えているのが、ここからでもわかる。


 焔は静かに目を細めた。


 (……さて、どうしたもんか)


 いま手を出せば、間違いなく“こちらの手札”も晒すことになる。


だが、このままでは美玲は間違いなく死ぬ。

 自分が一歩動くだけで防げる死。

 選ぶまでもないはずなのに、なぜか焔は息を一つ深く吸った。


 そして、小さく、呟く。


 「……仕方ない。助けるか。」


 その一言と共に、焔の身体が闇から跳ねた。

 宙を裂く黒の残影。

 次の瞬間、灰鬼の側頭部を蹴り抜いていた。


 破壊音とともに、場の空気が一変する。


 粉塵がわずかに収まり始めた廊下の奥。

 砕けた床の上に、巨体が静かに身を起こす。


 ゴキリ、と首を鳴らす音。

 仮面の隙間から吐き出される低い笑い声。


 「……やるなぁ。なかなかいい蹴りだったよ。」


 灰鬼は立っていた。

 さきほどの一撃を受けてなお、戦闘態勢を保ったまま。


 口調はあくまで余裕を崩さず、それでいて瞳には明確な“敵意”が宿っている。

 これまでの敵とは、明らかに格が違う。


 焔は距離を詰めもせず、ただ軽く肩をすくめて答えた。


 「そりゃどうも。」


 口調に、怒りも驚きもない。

 あくまで“挨拶”のように軽い調子。

 だが、その一言で場の空気が、さらに張り詰めていく。


 灰鬼と真上焔。

 “名を持つ者”同士が、ついに視線を交わした。


 「まぁ……お前も死んでくれや。」


 灰鬼の声は低く、乾いていた。

 まるで“これから何をするか”を丁寧に説明する必要などないと言わんばかりに、

 仮面の奥の眼差しが、焔の急所を正確に捉えている。


 次の瞬間、床板が爆ぜた。


 灰鬼が突っ込んでくる。


 音が遅れて耳に届く。

 その突進は、人間の動きではなかった。


 「おっと……」


 焔は半身をひねって、それを紙一重でかわした。


 衝突音。

 背後の壁が砕け、土埃が上がる。


 すかさず灰鬼は反転し、もう一度距離を詰める。

 速い。巨体とは思えない踏み込み。


 「はいはい、落ち着けって」


 焔は軽口を叩きながら、再び避ける。

 風を切る拳が鼻先を掠め、床に亀裂が走る。


 攻撃は繰り返される。

 灰鬼は寸分の迷いもなく、一撃ごとに殺すつもりで振るってくる。

 回避を強いられる焔の体が、影のように滑っていく。


 「避けてるだけじゃ、俺を殺せないぜ?」


 灰鬼が、唸るように言い放つ。

 その声音には苛立ちと焦りがにじんでいた。


 焔はその言葉に、ぴたりと足を止めた。


 「……そうだな。」


 軽く息を吐くように答えると、腰のクナイを静かに握り直す。

 その眼差しには、つい先ほどまでの余裕が消え、わずかに鋭さが戻っていた。


 「じゃあ……見せてやろうか。」


 クナイの刃が光を反射する。

 焔は、膝に力を込め、一歩踏み出そうとした——そのとき。


 ガラッ。


 足元の感触が、ない。


 (あ……)


 床が崩れた。


 ――そこは窓際だった。

 さっき灰鬼がぶち抜いた壁が、まだ半壊したまま残っていたのだ。


 「…………っあ。」


 踏み出した瞬間、支えがなく、焔の身体は勢いそのままに宙へ飛び出す。


 黒装束の裾が風になびき、

 視界いっぱいに空が広がった。


 (……うわぁ……空って……葵んだな……)


 そんな言葉が、焔の頭の中を素通りしていった。


 とくに慌てることもなく、感動するでもなく、ただひたすらに静かな実感だった。


 その様子を見ていた廊下の二人——


 灰鬼と美玲は、

 ただ無言で、


 「……え?」


 と、同時に声を漏らしていた。


 先ほどまでの殺気と怒気は完全に宙に消え、

 全員の脳内に“バグ”が起きたような空白が流れた。



 灰鬼はしばらく、ぽかんと口を開けたまま、

 窓の外を風に吹かれながら落ちていく焔の背中を見送っていた。


 「……な、なんだあいつ……」


 常識を破るような敵には何度も出会ってきた。

 だが、あんなに自分から落ちていった奴は初めてだった。


 しばし呆けたまま立ち尽くす。

 だが、すぐに頭を振り、気を取り直す。


 「まぁいい。さて、それじゃあ——」


 振り返った。


 美玲の姿がなかった。


 そこには、砕けた壁、乾いた血の跡、煙の残り香だけ。

 彼女の気配も、足音も、影も残されていない。


 「……チッ。」


 灰鬼が舌打ちした。




 一方そのころ——


 校舎の別の影。

 階段裏の壁の裂け目、冷たいコンクリートの継ぎ目にしゃがみ込むようにして、夜坂美玲は息を殺していた。


 (……はぁ……はぁ……)


 肩で呼吸をしながら、右手の傷口を押さえる。

 全身から汗が噴き出し、意識がかろうじて保たれている状態だった。


 (さっきの……あの忍びは……)


 思い返す間もなく吹き飛ばされかけ、そして現れた“黒い影”。

 自分を助け、灰鬼を蹴り飛ばし、そして——自ら窓から落ちていった忍び。


(……あれは、真上焔?)


 見間違えるはずがない。

 だが、そんな馬鹿な、と思う自分もいる。


 学園に潜む“下忍”のはずの彼が、あの化け物を一蹴できるはずが——

 否、できていた。確かに。


 (……何者……? 本当に……何者なの……?)


 影の中、夜坂美玲はじっと自分の鼓動を聞いていた。




――


 ドンッ!


 鈍い音とともに、焔の身体が校舎裏の芝生に叩きつけられた。

 ほんの数秒前まで廊下での激闘の中心にいた男が、今は青空の下に仰向けで転がっている。


 見上げる空は、思ったよりずっと青かった。


 「……あぁ……痛え……」


 呻くように呟きながら、焔は地面に片腕をついて身を起こす。

 肩に砂がつき、背中の装束には芝の葉がいくつも刺さっていた。


 芝生の上でようやく起き上がった焔は、服の袖についた土を払いつつ、首をぐるりと回した。

 どうやら骨は無事だった。体も動く。


 「さて……上に戻るか」


 ため息をひとつ漏らすと、焔は足に力を込め、壁を蹴って跳躍した。

 黒装束が風に揺れ、コンクリートの外壁を蹴り上がっていく。


 二階の高さまで差しかかろうとした、その瞬間だった。


 ふっと誰かの気配を感じ、焔は反射的に横へずらす。


 目の前に、人がいた。


 ——壁に張り付いていた。


しかも、制服姿だった。


 真っ黒な装束でも、特殊な戦装束でもない。

 普通の、どこにでもいる生徒のブレザー。

 ただ、あり得ないのはその格好のまま壁に張り付いていたという事実だった。


 お互いに、一瞬静止する。


 風が吹き抜ける。

 焔と男の視線が、真正面でぶつかる。


 「……え?」


 「……え?」


 完全にかぶった。

 沈黙。間。風の音。


 焔は軽やかに二階の屋根の庇に着地した。

 破れかけた瓦が小さく鳴るが、気にする様子もなく、そのまま壁に張り付く“男”を見上げる。


 「……どーも。」


 とりあえず挨拶した。

 戦うでもなく、問い詰めるでもなく。

 ただ、そこにいたから、そこに言っただけ。


 男は一瞬、固まった。


 「……あ、ど、どうも……」


 小さく会釈するように首を下げながら、ぎこちなく返してくる。

 焔はそこでようやく、相手の姿をまじまじと見た。


 (……なんだこの奴)


 この学園の制服。だが、だいぶ着崩している。

 ボタンが一つずれていて、ネクタイはゆるゆる。

 長い髪がぼさぼさに垂れ、目元を覆うようにかかっている。


 背中は猫のように丸まり、壁に張り付いている姿勢も妙に安定している。

 そしてその顔。


 目がやたらと小さくて、頬がこけていて、口元が常に“へ”の字。

 全体的に表情が乏しいのに、目の奥だけやたらと観察力に満ちていて、何かを知っているようで、何も考えてないようにも見える。


 焔はしばし無言のまま見つめた。


 (……うん、変な奴だな)


 なんだか、忍かどうかすらも分からない。

 だが、ここにいるということは、ただの“普通の奴”でもない。


 風がまた一度吹き抜けた。


 男は、壁に張り付いたまま、

 「……よく、落ちましたね」

 と、ぼそりと呟いた。


 男は、壁からスッと降りた。

 焔と同じ二階の屋根の上、ほんの数メートル先に、静かに着地する。

 猫背のまま、手は前に揃えてやや内股気味。

 その立ち姿は妙にぎこちなく、それでいて慣れているようにも見えた。


 焔は眉をひとつひそめ、ゆるく問いかけた。


 「えっと……あんた、何者?」


 すると男は、肩をビクッと震わせたあと、突然バッと両手を上げた。


 「わ、私は怪しい者なんかではありません……!!」


 すでに声が上ずっている。


 「た……ただ、壁にガムが……ついていたので……取っていただけです……!!」


 息を呑んで、手のひらで額をぬぐう。

 冷や汗が顔面を滝のように流れていた。


 「と、というかですね!? 貴方のほうが怪しいでしょう!?

  その格好……黒装束で、しかも空から降ってきて、人を蹴って……っ!!」


 あらゆる言葉が重なって、すでに何が言いたいのか分からなくなっていた。


 焔は、その様子をじっと見つめた後——


 「……え、まぁ……(黒装束だしな……)」


 苦笑まじりに肩をすくめた。


しばしの沈黙。

 遠くで避難放送がまだ鳴り続けているというのに、この屋根の上だけ妙に静かだった。


 焔は目の前の奇妙な男をもう一度、頭のてっぺんから足元まで眺めてから、

 少し間を置いて聞いた。


 「えっと……ここの生徒?」


 それは当然の確認だった。

 が、なぜかその質問に、男は再びビクッと肩を跳ねさせた。


 「え、えぇ……! 3年生です……!」


 必要以上に語尾が震えている。

 そのわりに、制服のボタンはひとつ外れてて、ネクタイもずれてて、髪もボサボサ。

 でも、言っていることは正しいらしい。


 焔は軽く目を瞬かせた。


 「……そ、そうか……(先輩かよ)」


 思わず内心で敬語に切り替わりそうになる。

 だが目の前のこの“壁に張り付いていた変な人”を、どう見ても“上”とは思えなかった。


 なのに、“先輩”である。


 焔は微妙な顔で黙り込んだ。


 一方その先輩(仮)は、気まずそうにメガネをずらしながら、

 「……あ、あの……その……何年生ですか?」

 と、なぜか聞き返してきた。


 焔は片眉を上げた。


 (……こいつ、なんで俺が“生徒”だってわかったんだよ)


 黒装束にマスク無し、完全に学園の外部にしか見えない自分に、最初から“生徒”として話しかけてきたこの男。


 ——妙だ。

 だが、それを突っ込む前に、焔は口角を上げた。


 「んー。俺? 一応“裏庭の雑草係・二号”ってとこかな。」


 さらっと、当たり前のように言ってのけた。


 「……え? ざ、雑草……?」


 「うん。こっそり繁殖してんの。知らなかった?」


 「……は……え……?」


 完全に混乱している。

 メガネがずれたまま口をパクパクさせる男の姿に、焔は満足げに頷いた。


 「あと、一応“保健室の裏番”も兼任してるけどね。」


 「えっ?」


 「知らない? 月曜と木曜に出没して、咳のフリして飴だけもらって帰る係。」


 「……えっ、それって……あれ?」


 「そう。“影の”生徒会長も兼任してるからさ。いや〜忙しいよ、ほんと。」


 「か、かげの……!? な、生徒会長ってふたつあるんですか……!?」


 焔は肩をすくめ、どこか遠くを見ながらため息をついた。


 「あるんだよ……“表”と“裏”が。」


 「う、裏……」


 男は完全にフリーズした。

 メガネが曇り、口が半開きで、手が何かをつかみかけてはやめる。


 少しの間を置いて、焔がふと尋ねた。


 「それで……名前は?」


 突然の問いかけに、男は一瞬だけ姿勢を正し、思いのほか丁寧に答えた。


 「わ、わたくしは……細井ほそい しんです!」


 語尾に“!”がつくほどの気合で名乗る。

 どこか演説のようでもあり、妙に真面目なその名乗りに、焔は無言で頷いた。


 「そうか。」


 そして、そのまま背を向ける。


 クナイの柄を握り直し、上階へ向けて壁を蹴った。


 「え、えぇ!? 貴方の名前は……!?」


 突然の置き去りに、細井が慌てて声を上げる。

 だが、焔は一切振り返らず、音もなく姿を上へと消していった。


 「ちょ……! か、影の生徒会長ォォ……!!」


 遠ざかっていく焔に向かって、切実な叫びが響いた。


 だが、その声に返答はない。

 焔は本気で、完全無視だった。


 残された細井 心は、屋根の上にポツンと立ち尽くし、風にメガネの曇りを任せていた。

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