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3. ―最初の炎―【其ノ弍】

数分前――

 

警報が鳴った瞬間、夜坂美玲は誰よりも早く顔を上げた。


 その音は、想定外の高さと緊急性を帯びていた。

 耳に届いた瞬間、身体がわずかに反応してしまったのは、訓練された証拠であり、同時に“ここでは目立つ”という意味でもあった。


 《火災発生。これは訓練ではありません。》


 スピーカーから流れたアナウンスに、教室は一気にざわつき始める。

 生徒たちが浮き足立ち、教師が声を張り、誰もが“非日常”の中で動こうとしていた。


 美玲は立ち上がりながら、意識を一点に集中させた。

 ——どこ? どこから火の匂いが?


 風の流れ、床板の軋み、階下の振動。すべてを通して情報を集めようとする。


 (これは……ただの事故? いや、違う。火の出方が不自然。)


 煙が広がっていない。焦げた臭いが、強すぎる。

 そして何より——このタイミング。


 目を細めながら、視線を教室内に走らせる。

 その中に、いるはずの“観察対象”が——いなかった。


 (……真上焔。いつの間に——)


 胸の奥に、微かな焦りが灯った。

 彼の席は、確かにあった。数秒前まで。


 だが、もうそこには何もない。


 誰にも気づかれぬように姿を消す。

 それができる人間が、この学園に何人いる?


 美玲は拳をゆっくりと握った。

 視線の端では、教師が「廊下に並べ!」と声を張っている。


 自分は今、表の顔で動かなくてはならない。

 だが——裏の使命が、ここで確かに警鐘を鳴らしていた。


 (これは……私だけでは、処理できないかもしれない。)


 それでも動かなければならない。

 それが“忍連”の一員として、彼女に課された任務だった。


 廊下に並ぶ生徒たちの中で、夜坂美玲は一人、何かを探るように視線を落とした。


 制服の袖口に指先を滑らせる。

 ごく小さなボタンを二度、カチリと押す。


 「……こちら、夜坂。“朱鷺ノ肆ときのし”より通達。緊急事態です。」


 言葉は口の動きにすらならず、のど元で抑え込まれた空気が特殊な振動となって小型無線機に伝わった。

 傍目には、彼女はただ並んでいる優等生にしか見えない。


 《……内容を。》


 数秒後、耳にほとんど聞こえない範囲のノイズとともに、忍連本部の回線が応答する。


 「火災が起きました。意図的なものと判断。現在、真上焔が行方不明。彼の動きは、確認できていません。」


 言いながら、美玲は目を伏せる。

 自分が見失ったことへの悔しさが喉に引っかかる。


 《……分かった。応援を送る。——あまり目立つなよ。》


 言外に、“任務の優先順位を間違えるな”という意味が込められていた。

 美玲はわずかに唇を噛み、そっと頷く。


 「了解。」


 指を戻し、通信を切る。

 再び顔を上げた彼女は、先ほどと変わらぬ“普通の生徒”の表情だった。


 生徒たちのざわめきが廊下にあふれ、教師たちの指示が交錯している。


 夜坂美玲は、再び静かに息を吸い込んだ。

 次の瞬間——空気が変わった。


 胸の奥に、冷たいものがひやりと流れる。


 それは風でも匂いでもない。だが、確かに“何か”があった。

 それは、“誰かに向けられた殺意”。


 まるで視線の先を切り裂くような、刺す気配。

 雑音に紛れ、動き回る群れの中で、明確に“一点”を標的とする負の意志があった。


 (今の……殺気……!)


 顔は変えない。足も止めない。

 だが、美玲の内側ではすでに歯車が高速で回転し始めていた。


 誰に向けて?

 どこから発せられた?

 どの経路で、どこへ向かう?


 瞬時に頭の中で学園の構造図が展開され、想定される侵入経路と照らし合わせる。


 (ここが狙われてる。今、確実に——学園の“内部”が。)


 夜坂美玲は、制服のスカートの内側に隠したホルダーから、細身の小型クナイを一本、指先だけで抜き取る。

 誰にも見られない角度で、手の中へと隠す。


 目立たず、逸脱せず、だが確実に“敵”に先んじる。


 殺気の揺らぎは、一瞬で消えた。

 だが、美玲にはわかっていた。


 消えたのではない。

 隠されたのだ。


 その気配が発せられたのは、旧校舎と本校舎の狭間——

 普段は生徒が立ち入らない、倉庫の並ぶ搬入口付近。


 (……あそこだ。)


 警報に導かれた騒動の波が体育館へと向かう中、

 美玲は流れに乗るふりをして、すっと人の列から抜けた。


 誰も気づかない。いや、気づかせない。


 呼吸を浅くし、足音を消すように歩を進める。

 すれ違う教師の視界の死角を掠めながら、わずかな段差を利用して移動していく。


 (火災の発生源じゃない……けど、あえて“火”で意識を逸らすなら、狙うのはその逆。)


 人気のない通路を抜け、錆びついた扉の前に立った。

 開け放たれたままの非常口。誰かが通った形跡は、表面上はない。

 けれど床のホコリがわずかに乱れていた。


 “誰かが通った”。


 それも、気配を消す訓練を受けた者の動きだ。


 美玲は片手に忍ばせたクナイの柄を、わずかに握り直した。

 心拍数が少しだけ上がる。けれど恐れではない。これは——集中。


 (“敵”か、“仲間”か……どちらにしても、ここが境目。)


 そして、静かに——夜坂美玲は、その扉の向こうへと足を踏み入れた。


 金属の扉をそっと押し開ける。

 軋む音ひとつ立てないよう、指先に神経を集中させながら、夜坂美玲はその暗がりに身を滑り込ませた。


 そこは古い備品倉庫。

 使われなくなった机や椅子が積まれ、埃の匂いが鼻をつく。


 そして——人の気配は、ない。


 誰かが息を潜めて隠れている、そういう緊張感ではなかった。

 空気は沈黙している。ただ、その沈黙の中に違和感があった。


 美玲は視線を細め、足元の床を見た。


 (……踏み跡?)


 かすかに乱れた埃。

 誰かの足が数歩だけ、まるで何かを確認するように動いた痕跡。

 それ以外にはない。壁も、天井も、破壊の形跡はない。


 だが、その踏み跡が途切れている。


 (……違う。これは“消されている”。)


 続きがないのではなく、痕跡だけを残して去っている。

 それは、自分と同等、あるいはそれ以上の訓練を受けた者の仕事だった。


 どこへ向かったのかもわからない。

 だが、確かにここに“何者か”がいた。

 そして、あえて“残した”可能性すらある。


 (……試してる? 私を?)


 胸の奥に、わずかに冷たいものが差し込む。


 誰かが、学園を揺さぶろうとしている。

 それは外敵か、それとも——もっと近くにいる者か。


 美玲はクナイを手に握ったまま、静かに後ろを振り返った。

 背中を預けられる相手が、いま、この場所にはいない。


 倉庫から出た美玲は、気配を探りながら二階の廊下を進んでいた。

 避難で騒がしかった校舎は今、信じられないほど静まり返っている。

 窓の外では煙が揺れ、夕陽がじわじわと色を変えつつあった。


 ——そのときだった。


 殺気。


 背後。


 反射より早く、身体が動いた。


 美玲は横に身を滑らせる。制服の裾が裂け、刃がすぐ横をすり抜ける音が耳元を掠めた。


 間一髪だった。


 振り返ると、そこに黒装束の影。

 まるで壁から滲み出るように現れたその者は、顔を覆い、目だけがわずかに覗いていた。


 「やはり、忍びがいるか。」


 低く、くぐもった声だった。

 その声音には驚きよりも納得があり、まるで“見つかること”すら織り込み済みだったかのようだった。


 美玲はすでに姿勢を整え、右手にクナイ、左手は印を刻める構え。


 (速い……今のは本気で殺しに来ていた)


 敵の動きは直線的でありながら、研ぎ澄まされた殺意が込められていた。

 これは実戦経験のある忍び。——素人ではない。


 「……何者だ……?」


 美玲の声は低く鋭い。

 敵の正体を見極めるよりも、一瞬の油断すら許されないという自覚が、その言葉の裏にある。


 だが、返ってきたのは名でも理由でもなかった。


 「排除する。」


 その言葉と同時に、周囲の空気が変わった。


 気配が——増える。


 美玲の視界の端に、黒い影が一つ、二つ、三つ……合計四つ。

 廊下の柱の影、階段の奥、天井の梁。

 すでに囲まれていた。


 (……最初から“多人数前提”で動いてたってわけか)


 彼らは何の名乗りもなく、沈黙を保ったまま一斉に間合いを詰めてくる。


 (ここで目立つわけにはいかない……)


 夜坂美玲は歯を食いしばった。

 学校という“日常”の仮面の中で、騒ぎを起こすわけにはいかない。

 だが、四人に囲まれ、選択肢は一つしかなかった。


 (——やるしか、ないか)


 その瞬間、敵のひとりが一歩、間合いに入った。

 音もなく、構えも見せず、ただ殺意だけを持って。


 それを合図に、他の三人もわずかに動きを見せる。


 ——今。


 美玲の身体が霞のように動いた。

 右手のクナイが空を切り、その切っ先が一直線に前方の男の首筋をなぞる。

 通常の動きなら、受け止めることも避けることもできただろう。


 だが、彼女の動きは“速さ”ではなかった。

 “予測”に対する完璧な答え”だった。


 敵の刃が振り下ろされる寸前、美玲の動線はそれを半身で外し、逆に懐へと潜り込んでいた。

 小さく、短く、無音の突き。


 クナイの先が喉元を穿ち、皮膚と気道を一息で断ち切る。


 「……ッ」


 声にもならない呻き。

 男の身体がその場に崩れ落ちる。返り血も出させない、寸分の誤差もない“殺し”だった。


 他の三人が一瞬、足を止めた。


 その一瞬を、美玲は見逃さなかった。


 (この静寂を……維持する)


 次の動きへと備える中、彼女の瞳には一切の迷いがなかった。


 敵の一人が倒れた。


 それをきっかけに、残る三人の動きが変わる。

 警戒とともに、連携が明確に洗練されたものへと切り替わった。


 先ほどまで単独で動いていた彼らが、まるで一つの影のように同時に間合いを詰めてくる。


 (連携型……!)


 夜坂美玲は即座に一歩引き、壁を背にする位置に移動した。

 敵の動きは速く、しかも無駄がない。前後左右から交互に間合いを狭め、彼女に選択肢を与えないようにしてくる。


 一人がフェイントをかけ、もう一人が低い姿勢で回り込む。

 そして三人目が跳躍し、上から刃を振り下ろした。


 クナイで受けた衝撃が、腕から肩へと響く。

 (重い……!)


 次の一撃を避けきれず、制服の袖が裂けた。

 浅い切り傷が走り、じわりと熱い痛みが広がる。


 (このままじゃ……崩される)


 攻撃を捌きながらも、反撃に転じる隙がない。

 三人はまるで獣が群れて一つの獲物を狙うかのように、無駄なく、美玲を削りにかかっていた。


 動きが鈍る。呼吸が浅くなる。

 足元が少し乱れた瞬間、刃が彼女の頬をかすめ、赤い線を描いた。


 三対一。


 それは一瞬の隙すら許されない状況だった。

 手傷を負い、息も整わない。敵は確実に仕留めにきている。


 夜坂美玲は、背中の壁を感じながら、静かに目を閉じた。


 次の刃が振り下ろされる瞬間——

 彼女は、囁くように口を開いた。


 「——《忍法・影移かげうつし》」


 その言葉と同時に、足元の影がうねる。


 まるで液体のように、影が地を這い、形を取り始めた。

 それは美玲自身の輪郭を模し、瞬く間に**“もう一人の夜坂美玲”**を浮かび上がらせる。


 敵の一人が動いた。

 影の美玲に向けて、一太刀を浴びせる。


 ——それは虚像だった。


 刃が通り抜けた瞬間、その“影”は黒い煙のように崩れた。

 その直後、背後から疾風のような動き。


 「……っ!」


 一人目の敵の肩口に、鋭い衝撃が走る。

 美玲のクナイが正確に関節を裂き、腕の可動を封じた。


 敵の動きが一瞬だけ鈍る。


 それを見逃さず、美玲はそのまま壁際に跳躍。

 再び影の中へと姿を沈め、距離を取った。


 (——まず一人)


 顔には出さない。だが心の中では、冷静な計算が再構築されていた。


 《影移》は連続使用できる術ではない。

 だが、連携を崩すには十分な一撃だった。


 残る二人は、影移を目にしたことで一瞬たじろいだ。


 だが、動揺は短い。

 すぐに動きを変え、攻めの型を組み直してきた。


 (冷静……訓練された、実戦型……)


 夜坂美玲は地を蹴った。

 床を転がるようにして間合いを外し、袖口から細身の手裏剣を滑らせる。


 宙を舞う銀光が一人の動きを封じた瞬間、もう一人へと肉薄する。


 低い姿勢、鋭い踏み込み、

 敵の脇腹へと繰り出したクナイの斬撃は、あと数センチで急所に届くはずだった——


 だが、刃は空を切った。


 敵は一拍早く、側転のようにして間合いを跳ね退いた。

 それと同時にもう一人が側面から襲いかかってくる。


 (くっ……)


 美玲は刃を交差させて受ける。

 鋼と鋼が擦れ、火花が散る。

 歯を食いしばり、全身に力を込めて押し返した。


 そして——


 数歩、距離が開いた。


 三人の影が廊下の灯りに揺れる。

 息が、静かに交錯する。


 夜坂美玲と、敵の二人。

 どちらも、すぐには動けなかった。


 そして、そのまま——互いを見つめ合った。


 沈黙。

 揺れる視線と、呼吸だけが交わされる、瞬間の静寂。


 殺すか、退くか。

 その判断の狭間で、どちらも動かない。


 美玲は血の滲む手の感覚を見下ろし、わずかに息を吐いた。


 廊下に沈黙が落ちた、その瞬間だった。


 「おいおい……苦戦してるじゃねぇか。」


 軽く茶化すような声が、背後から届いた。


 美玲の背筋に、冷たいものが走る。

 その声には“気配”がなかった。

 事前の察知も、忍び込まれる気配も——何一つなかった。


 (……誰——!?)


 振り返ろうとした、その瞬間。


 視界が傾いた。


 爆音。


 体ごと吹き飛ばされ、世界が反転する。


 壁を砕きながら突き抜けた。

 床板が割れ、廊下が半壊し、埃と破片が宙に舞う。

 その中で、美玲の身体は無力に転がり、やがて地に叩きつけられた。


 「が……っ!」


 口の中に、熱い鉄の味が広がる。

 喉奥から血が逆流し、呼吸すらまともにできない。


 耳が鳴る。

 視界が滲む。

 それでも、彼女の目は、そこに立つ“何か”を捉えていた。


 大柄な男だった。

 黒装束ではなく、重厚な外套に身を包み、顔の下半分は仮面で隠れている。


 だが——それ以上に。


 (……なんだ……)


 気配が——ない。

 まるで、そこに“存在していなかった”かのように、無。


 (この距離で……動くまで、何一つ感じ取れなかった……!?)


 その異常さに、夜坂美玲の全身が警鐘を鳴らす。

 これまでの敵とは違う。

 これは——“格”が違う。


 痛む肋骨を押さえながら、美玲は血を吐きつつも男の姿を凝視していた。


 その風貌——身にまとう無機質な外套、仮面の下から覗く鋭い目。

 力強さと静けさが同居する、その“気配のなさ”。


 思考の奥、記憶の底から、ある名前が這い出てくる。


 (……まて、この男……)


 喉奥に引っかかった血を吐き捨てながら、美玲は、かすかに目を見開いた。


 (——見たことがある)


 数年前、忍連の内部資料。

 極秘扱いの討伐報告書、封印術式の未完成リスト。

 名前すら伏せられた写真に、唯一記されていた二つ名。


 ——灰鬼はいき


 かつて忍界の裏で、いくつもの拠点を“跡形もなく”灰に変えたとされる忍。

 術の構造、動機、経歴、全てが不明。

 確認されているのはただ一つ。遭遇した者は、誰一人として報告に戻らなかった。


 その存在すら、諜報階級以上の忍びでなければ知らされない、

 まさに“禁忌”のような存在。


 目の前の男は、その“灰鬼”だった。


 美玲の背筋に、今までにない冷気が走る。

 身体は動く。だが、本能が止まれと叫んでいた。


 (なんで……こんな奴が、“学園”に——!?)


 男は、美玲を一瞥すると、わずかに仮面の奥で口元を吊り上げたように見えた。


 「小娘一人に手こずってるようじゃ、話にならねぇぞ。」


 灰鬼の低い声が、廊下に響く。

 残る部下二人は、美玲との死闘でわずかに傷を負いながらも沈黙していた。

 だが灰鬼は、それすらもどうでもいいというような口調だった。


 「……まぁいい。」


 男はゆっくりと足を踏み出す。

 その歩みには、一切の無駄がなかった。


 「目撃者は——全員殺す。」


 次の瞬間、床が砕けた。


 殴りかかってきた。


 腕を振りかざす動きは、単純だった。

 だが、速度も、重さも、威圧も——何もかもが常軌を逸していた。


 (——っ! 間に合わない!?)


 脊髄が警鐘を鳴らすよりも早く、美玲は全力で身体をひねった。

 肩口を掠めて、拳が空を裂く。


 だが、その空気が肌を切った。


 次の瞬間、拳が掠めた壁が——粉砕された。


 分厚いコンクリートが爆散する。

 廊下の一部が崩れ、土煙が舞い上がった。


 (……とんでもない……!)


 足場を滑らせながら美玲は着地する。

 右肩に痺れるような痛み。

 直撃していたら、腕ごと吹き飛んでいた。


 あれは“人間の力”じゃない。


 それでも灰鬼は、淡々と顔を上げ、拳を下ろす。


 「まだ動けるか。なら——もう一発いこうか。」


 灰色の瞳が、美玲を射抜いていた。

 まるで、“確実に殺す”という意志しか持ち合わせていない目。


 灰鬼は首を軽く回しながら、踏み出した足を止めた。

 その姿は、まるで退屈を紛らわせるかのように見えた。

 だが次の瞬間、口元から漏れた声が、空気を凍らせる。


 「——崩掌・灰絶かいしょう・かいぜつ


 それは呪文でも詠唱でもなかった。

 ただ“動作に名を与えた”だけ。

 だがその言葉と共に、地が鳴った。


 灰鬼の巨腕が、地を裂くような弧を描いて振り下ろされる。


 美玲は回避を取る暇もなかった。

 足場が崩れ、間合いが詰められた状況での、逃げ場のない一撃。


 (っ——く、る……!)


 身体を反射的に構える。

 だが、それでは足りなかった。


 衝撃が襲った。


 轟音と共に、夜坂美玲の身体が吹き飛んだ。


 壁を貫き、廊下の窓を突き破って、そのまま校舎の外へ——


 「っ、は……!」


 宙で血を吐きながら、美玲は意識を保とうとした。

 視界が回転し、風圧が全身を撫でる。


 地面が迫る。


 (——負ける、わけには……)


 意識が遠のく。

 世界が色を失い、音が薄れていく。

 夜坂美玲の視界に、崩れた廊下、粉塵、ゆっくりと歩み寄る足音が揺れていた。


 ——一歩。

 ——また一歩。


 踏みしめるたびに、振動が体に伝わってくる。


 (……ああ……死ぬ)


 灰鬼は無言だった。

 だがその目には、もう“殺す”以外の意志は残っていない。

 彼の巨体が、ゆっくりと、美玲へと近づいていく。


 ——だが、そのとき。


 風が変わった。


 「おいおい……派手にやりすぎだろ」


 どこか軽い、だが芯の通った声が、空から降ってきた。

 次の瞬間、空気が裂けた。


 黒装束の影が空中に現れた。

 まるで落ちてきたのではなく、“そこにいた”かのように現れた。


 ドンッ!


 その影は、灰鬼の首元を真横から蹴り抜いた。

 とんでもない質量の衝突音。

 巨体が吹き飛ぶ。灰鬼の体が廊下の端へと跳ね飛ばされ、床を削るように滑っていった。


 粉塵が舞う中、影がゆっくりと着地する。


 黒の布に包まれた装束。

 仮面も兜もない、ただ風を切るような気配。


 廊下に落ちる赤い日光の中で、その人物が振り返った。


 「……あぁ、俺もか。」


 そう呟いて、肩をすくめる。


 それは——真上焔だった。

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