2. ―最初の炎―【其ノ壱】
数日後。
昼下がりの学園には、相変わらずのざわめきが満ちていた。
机を並べる音、談笑、笑い声。制服の音が混じり合い、まるで“普通”の象徴のように時間が流れていく。
だが——その中に、ひとつだけ、明らかに異質な存在があった。
黒髪。肩までの直線的な髪が陽に揺れている。
肌は透けるように白く、目元には鋭さと艶が同居していた。
立ち姿、仕草、歩き方、そして空気のまとい方。すべてが自然でありながら、あまりにも整いすぎている。
教室の隅で、何人かの男子がさりげなく視線を送っている。
女子たちも、その整った顔立ちと物静かな雰囲気に、ひそやかな興味を抱いていた。
彼女の名は、夜坂美玲。
先月からこの学園に転入してきた生徒だ。
焔は、その姿を遠目に眺めながら、静かに目を細めた。
——なるほど、確かに目立つ。
だが、それは“表”の話だ。
彼女がここにいる理由を、焔はすでに知っていた。
先日、兄・涼が言っていた“例の忍び”——それが彼女だった。
夜坂美玲。忍連(JNA)からこの学園に送り込まれた、現役の諜報忍。
潜入と監視、あるいは焔の“再起動”に備える保険か。いずれにせよ、任務を帯びてこの学園に配置されていることは明白だった。
もちろん、彼女自身はその事実を表に出す気配すら見せていない。
だが、焔は最初の一歩、教室のドアをくぐった瞬間から、すべてを見抜いていた。
昼休み。購買帰りの廊下。
焔はカフェラテのパックを片手に、ゆったりと歩いていた。
昼下がりの陽光がガラス越しに差し込み、制服の袖を暖かく照らしている。
そのときだった。
「——あっ、ごめんなさいっ!」
肩が当たる。軽い衝撃。
同時に、小さな缶ジュースが焔の胸元にぶつかり、ぱしゃりと飛沫が広がった。
白いシャツに、淡い茶色の染みが滲む。
焔が目をやると、そこには彼女がいた。
夜坂美玲。
整った顔立ちに、ほんのわずかに焦ったような色を浮かべ、手にしていた缶をきゅっと握りしめている。
「ごめんね……! ふ、服……大丈夫……?」
その声は柔らかく、戸惑いと申し訳なさを含んでいた。
完璧な謝罪。完璧な“普通”の反応。
——だが、焔は知っていた。
タイミング、角度、距離。
すべてが偶然を装った“計算”だった。
それでも、焔はふっと微笑んでみせた。
「あちゃちゃ……まぁ、大丈夫だよ。洗えば落ちるし。」
表情も、声も、ごく自然に。
だがその裏では、彼の思考が静かに動いていた。
——来たな。ようやく。
「あちゃちゃ……まぁ、大丈夫だよ。洗えば落ちるし。」
焔はそう言って、軽く自分の胸元を払った。
笑みは柔らかいが、視線はわずかに警戒を含んでいる。
夜坂美玲——彼女が“偶然”この接触を仕掛けてきたことを、焔は完全に見抜いていた。
「本当に……? ちょっと冷たいかも……」
美玲は心から気にしているような表情で、制服のポケットからティッシュを取り出し、焔の服に手を伸ばしかけた。
だが焔は、すっと身体を引いた。
「大丈夫。自分でやるよ。」
その動きは自然だったが、明確な拒絶でもあった。
美玲の指先が、わずかに宙を彷徨う。
「そ、そっか……ほんと、ごめんね。」
わずかに伏せた視線。
だが、焔はその奥で、彼女の眼差しが観察していることに気づいていた。
わずかな動き、間、距離感。まるで戦場で敵の呼吸を読むような精密な“間合い”があった。
「でも、責任……取らなきゃ、ね?」
柔らかく笑うその表情は、周囲の生徒たちの目にはただの“優しい美少女”に映っているだろう。
だが焔の目には、それが最初の布石にしか見えなかった。
「……そうだね。」
焔はカフェラテを一口啜りながら、目線を逸らさずに応じた。
「じゃあ——今度、昼でも奢ってもらおうかな。」
一瞬、美玲のまぶたがぴくりと動いた。
想定内か、外か。どちらでもいい。
焔は静かに、自分の“立場”を守りながら、誘いに応じるというカードを切ったのだった。
「うん……それ、いいかも。」
二人の距離は少しだけ縮まった。
だがその間には、見えない刃が既に交錯していた。
翌日、昼休み。
教室の喧騒が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃、焔が机にカフェラテを置いて腰を下ろすと、すっと影が近づいてきた。
「……ねぇ、真上くん。昨日の件、ちゃんと覚えてる?」
ふと顔を上げると、夜坂美玲が微笑んで立っていた。
今日も整った制服に乱れはなく、何もかもが計算されたように完璧だった。
「責任、取らせてもらうって約束。まだ、お昼……食べてないよね?」
周囲のクラスメートが、一瞬ざわつく。
美玲は学園内でも目立つ存在。そんな彼女が焔の席に来たとなれば、それだけで十分に目を引いた。
そこに、やはりというべきか、依田が乱入してきた。
「なになに……! お前ら、もしかしてっ!?」
焔はため息混じりにカフェラテを持ち上げた。
「馬鹿言うな。タダ飯だ。」
言い切りと同時に席を立つ。
その表情に照れや躊躇いは一切ない。ただ淡々と、“食べ物に釣られた”という体を貫いている。
「じゃ、行こっか。学食、混んでるかもだけど……」
美玲も自然に歩き出す。
その背中を見送りながら、依田が呆れたように呟いた。
「……いや、絶対あるだろこれ……!」
教室の空気が、ほんの少し騒がしくなる中、二人は肩を並べて廊下に消えていった。
学食は、案の定混み合っていた。
だが美玲は慣れた様子で空席を見つけ、先にトレーを置いて席を確保する。
焔はその様子を横目に見ながら、購買で買ったパンと飲み物だけで済ませるつもりだった。
二人は向かい合って腰を下ろした。
周囲の視線を、少しだけ感じながら。
「ね、昨日の服……本当に大丈夫だった?」
美玲が箸を止めて、ふと問いかける。
声は自然だったが、焔はその奥に、ごく薄い“調子の確認”を感じ取っていた。
「うん。漂白剤が仕事した。」
焔はパンの袋を開けながら淡々と答える。
視線は合わせない。だが、気配は常に相手の動きに向いていた。
「ふふ、よかった。」
美玲は笑って、一口食べる。
その動きに不自然さはない。ただ、完璧すぎる。
——完璧というのは、つまり“作られた自然”だ。
トレーの上の食事がほとんど片付き、昼休みの終わりを告げるチャイムが、どこか遠くで鳴った。
夜坂美玲は、食後のお茶を静かに飲み干し、席を立つ。
焔もそれに倣ってカフェラテの空容器をまとめた。
彼はふと顔を上げ、小さく微笑んだ。
「今日はありがとう。」
その言葉に、美玲は少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかな笑顔で返す。
「お話できて、楽しかった!」
そう言い残して、美玲は軽やかに踵を返し、学食の出口へと向かっていく。
その背中は、完璧な立ち姿だった。まるで何ひとつ乱れていないように見える。
焔は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
食べ終わったパンの包みを指先で弄びながら、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……めんどくさいなぁ。」
それは独り言というには、あまりに重たく、静かな嘆きだった。
彼の目に映るのは、美麗な“生徒”ではなく、“忍び”としての仮面を被ったもうひとつの存在。
焔はその場にしばらく留まり、ようやく椅子を引いて立ち上がった。
昼休みが終わっても、焔の頭の片隅には、先ほどの会話の余韻が残っていた。
彼女——夜坂美玲。
表面上は柔らかく、言葉選びも丁寧。だが、その視線の奥には絶えず“計り”があった。
廊下ですれ違っても、教室で何気なく目が合っても——
彼女の視線は、まるで薄く張り巡らされた糸のように、焔の輪郭をなぞっていた。
焔はため息をついた。
「はぁ……」
その吐息が少し大きかったのだろう、近くの席から声が飛んできた。
「どうした? そんなでかいため息でもして。」
声の主は伊藤。穏やかで気配りの効くクラスメートだった。
すかさず、隣の席からさらに声が重なる。
「もしかして……好きな人でも出来たのか!」
依田だった。ニヤニヤした顔で身を乗り出してくる。
焔は一拍置いてから、目を細めて笑った。
「俺が好きなのは、“お前”だけだぜ?」
ウインクすらしそうな軽い口調に、教室の空気が一瞬固まる。
「……きも。」
伊藤が素っ気なく言い捨てた。
依田も、なぜか無言で席に戻っていった。
焔は心の中で静かに息をつきながら、ふたたび遠くの気配に目を向けた。
視線は、やはりそこにあった。
数日が過ぎた。
夜坂美玲との昼食以来、特に目立った出来事はなかった。
彼女も深く踏み込んでくる気配を見せず、焔もまた、表向きはいつもと変わらぬ日常を過ごしていた。
授業、休み時間、適度な会話、くだらない冗談。
教室の窓から射す光も、風の匂いも、同じだった。
まるで何事もなく、このまま何も起こらずに学期が終わっていくかのようにすら思えた。
——その日までは。
午後の授業中。
いつもと変わらない教師の声、板書の音、紙をめくる気配。
だが、焔はふと目を細め、首筋に走った“何か”に反応した。
静かに目を閉じ、意識を教室の外へと滑らせる。
微かな空気の乱れ。廊下の向こう、校舎の端。
香りでも音でもなく、ただ気配——
——ピンッ。
焔の中で、何かが弾ける。
(……入ったな。ネズミが。)
その瞬間、教室という“舞台”が薄皮一枚、別の空間へと変わった気がした。
敵意とも呼べない、だが明確な“目的”を帯びた気配。
潜り込んできたのは、ただの生徒ではない。
無駄なく、そして不自然なほどに静か。
獣のような直感が、焔の背骨を冷たく撫でた。
彼の指先が、机の下でわずかに動く。
だが顔には出さない。呼吸も変えない。
彼にとって、“異常”の中に溶け込むことは日常の延長だった。
(……目的は、まだ分からない。)
焔は目を伏せたまま、思考だけを研ぎ澄ませた。
気配は確かにあった。入り込んでいる。だが、それが何者で、何を狙っているのかは、まだ判然としない。
——不用意に動けば、こちらの手札も晒すことになる。
焔はそう判断した。
だが、警戒を解くわけではなかった。
そいつがこの学園に忍び込んだ理由。たまたまか、焔を狙ってか。
あるいは……仙蔵の残党か。
その名が脳裏に浮かんだ瞬間、彼の中の温度がわずかに下がる。
過去に自らの手で壊滅させた一族。だが、先日の件で再びその影が蠢いているのは明らかだった。
(仙蔵の手の者だとすれば、交渉の余地はない。……敵なら、排除するだけだ。)
教室の中、周囲のざわめきは変わらない。
教師の声、誰かのあくび、隣の席の依田が何かを書き損じて舌打ちする音。
だが焔の中では、すでに“戦場”の感覚が戻り始めていた。
焦らず、慌てず、ただ静かに。
獲物が自ら罠に嵌るのを、待つ猟師のように。
焔は微かに、息を吐いた。
昼休み。
日差しは柔らかく、風も穏やか。いつもと変わらぬ騒がしさの中、焔は机に肘をつき、ひとつ大きなあくびをした。
「ふぁぁぁ……」
その声に、すかさず反応が返ってくる。
「おいおい、どうした? そんな豪快なあくびして!」
依田が目の前の机から身を乗り出してきた。
手にはパンを握りながら、ニヤニヤと焔を見つめている。
焔は片目だけでちらりと依田を見て、苦笑交じりに言った。
「ちょっと退屈でな。」
それは、何気ない言葉のようでいて、焔にとっては確かな“観察”の裏返しでもあった。
ネズミたちはまだ動いていない。
学園内の空気に変化はない。
だからこそ、いまは静かに“泳がせている”段階だ。
(……焦る必要はない。奴らが動くまでは。)
焔は再び伸びをしながら、窓の外に視線を向けた。
陽光の中、グラウンドを駆ける運動部の声が遠くに聞こえていた。
平和に見えるその光景の奥に、何人の“忍び”が紛れているか——
そんなことを考えているのは、きっとこの教室でただ一人だけだった。
教室のざわめきの中、焔はひとつ、ため息を落とすように目を伏せた。
(……恐らく、彼女はまだ気がついていない。)
夜坂美玲。忍連の派遣忍であるはずの彼女は、あの異物の気配に反応していないようだった。
それとも気づいていて、あえて泳がせているのか——それは分からない。
だが、もし本当に察知していないのだとしたら。
いざという時、この学園を守る立場にいる彼女が対処できなければ、焔自身が動くしかない。
(……その時は、“中忍”の看板を外すしかないか。)
カフェラテを一口啜りながら、焔は窓の外に視線を流す。
青空の下、走る生徒たちの姿は無防備で、平和そのものだった。
(それにしても……)
考えは自然と、敵の姿へと向かう。
(あの襲撃者——日中から堂々と潜入するなんて、忍びの風上にも置けないな。)
常識を知らぬのか、あるいは愚かさゆえか。
忍びの本質は、目に映らぬこと。音なく潜み、存在を隠し、目的の達成とともに影に帰ること。
それが“本物の忍び”だ。
その瞬間、教室の天井から甲高い電子音が鳴り響いた。
——ウー……ウー……ウー……!
突然の警報に、生徒たちが一斉にざわめき始める。
「え、なに? 火事?」
「マジかよ、いたずらじゃねぇの?」
そんな声が飛び交う中、スピーカーから放送が割り込んだ。
《火災発生。火災発生。これは訓練ではありません。》
一瞬、空気が凍りつく。
《場所は確認中。職員および生徒は、速やかに体育館まで避難してください。繰り返します——これは訓練ではありません。》
声は事務的ではあったが、わずかに動揺を含んでいた。
おそらく放送室の職員がその場で状況を把握しながら流しているのだろう。
教室の前方で教師が立ち上がり、大きな声で指示を飛ばす。
「おい、全員落ち着け! 荷物はそのままでいい、すぐに整列して廊下に出ろ!」
生徒たちは戸惑いながらも席を立ち始める。
その中で、焔は誰よりも静かに席を立ち、目だけを細めていた。
(……動いたな。)
火災。それが偶然なのか、本当に事故なのか——
焔はそんな可能性を、初めから信じていなかった。
ざわめきが廊下へとあふれ、教師の怒声と生徒たちの動揺が交錯していた。
椅子が倒れ、カバンが蹴られ、誰もが「非日常」にどう反応すればいいかを探していた。
その中で、焔だけは静かだった。
「う〜ん、どうしよっかな〜」
小さく呟くように、誰にも聞こえない声で言った。
周囲では、依田が「並べって言ってんじゃん!」「マジ火事!?」と騒ぎ、伊藤が半分引きつった顔で壁際に立っていた。
焔は、その流れに一歩も踏み込まない。
(とりあえず——混乱の場に乗じて、現場を見に行くか。)
次の瞬間、彼の姿は教室から消えていた。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
誰一人、気づく者はいない。
足音も気配も、息遣いすら残さず。
焔は一瞬にして群れから外れ、空気に溶け込むように姿を消した。
廊下を駆け抜ける生徒たちの中に交じることもなく、彼はただ、音のない方向へと進んでいた。
——目的地は、火災発生現場。
だが焔にとって、それは“火”が見たいのではない。
“そこに何がいるか”を確認するためだった。
――
窓を蹴って渡った先、別棟の旧校舎前。
空気の焦げる匂いが濃くなり、熱が壁面にまで染み込んでいた。
焔はすでに“制服”を捨てていた。
黒装束に身を包み、口元を布で覆う。
それは、彼にとって“素の姿”に戻るようなものだった。
「うぉ〜……燃えてるな。」
誰に聞かせるでもなく、感情のこもらぬ声で呟く。
まぁまぁな火災。だが、明らかに意図的な放火——陽動であることは明白だった。
教室から見えた煙よりも実際の火勢は大きく、ただの誤作動では済まされない規模だ。
炎が屋根を舐め、窓ガラスが断続的に破裂していた。
だが——人の気配は、ない。
騒動の中心にあるはずの場所が、妙に静かだった。
焔はじっと耳を澄ませ、周囲の空気の流れに意識を傾ける。
そこに、“動いているもの”の音はなかった。
けれど、そこに“いたもの”の痕跡は、残っていた。
(……消えてるな。きっちり。)
足跡ひとつない床。
焦げ方に妙な不自然さがあり、誰かが通った形跡はあれど、故意に消されていた。
忍びにしては荒っぽく、素人にしては痕跡処理が徹底している。
焔はしゃがみ込み、焦げた床に指を這わせた。
煤と熱の中に微かに混ざる、薬品のような香り。
(こいつは……派手なことをしやがる。)
再び立ち上がり、焔は天井の焦げ跡を見上げる。
敵はまだ学園内にいる。
これは単なる始まりに過ぎない——そう、火が告げていた。




