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1.シノビ

 窓を開け放った教室に、昼下がりの陽光が差し込んでいた。

 ざわめき、笑い声、椅子を引く音。

 放課後直前の、あの妙に浮ついた空気が、教室という箱の隅々まで満ちていた。


 真上焔は、そうした喧騒の中で、ひとりだけ温度の違う空気を纏っていた。

 肩肘をつきながら、黒板の上に掛かった時計を、ぼんやりと見上げる。

 秒針の音がやけに耳に残るのは、それ以外に意識を向ける意味が見当たらなかったからだろう。


「なぁ、真上〜。今日、カラオケ行かね?」


 半ば叫ぶような声とともに、机に肘をつく男がいた。依田。

 騒がしいクラスの中でも特に声の大きいその男は、真上の沈黙すらも軽やかに踏み越えてくる。


「うーん……疲れてるから、パス。」


 返事は短く、熱のない声音だった。

 真上は目を閉じ、まるでそのまま眠りに落ちるかのように息を吐いた。


放課後。

 真上焔は、他の生徒と同じように校門を出た。だが、その足取りには目的地のない緩さがあった。

 夕暮れの光が街路を赤く染め、制服の影を長く伸ばす。商店街のざわめきが遠くから聞こえる中、彼はひとり、無言で歩き続けていた。


 視線の気配は、校内からすでに感じていた。

 尾行の足取りは若く、ぎこちない。忍びとしての訓練が不十分であることは、数歩のうちに察せられた。


 焔は歩調を崩さずに、曲がり角をいくつか選んだ。

 やがて辿り着いたのは、ビルとビルの隙間にある、通りから死角となる細い路地だった。人気はなく、舗装の割れたアスファルトが足元に不規則な模様を描いている。


 焔はふと立ち止まり、背後に向かって言った。


「いつまでついてくるつもりだ?」


 気配が揺れた。驚きと、焦り。


 次の瞬間、彼の動きは迷いなく、無音だった。

 一歩、二歩、素早く踏み込み、背後の影に腕を伸ばす。


 銀の刃が、静かに喉元へと当てられた。

 それは鍛えられた鋼でできたクナイ。わずかに冷たい金属の感触が、相手の肌を緊張させる。


「——忍びか。何の用だ。」


 焔の声には驚きも怒気もなかった。淡々として、むしろ冷たい。


 「——さすがは、“眞神”の末裔。この程度じゃ気づくか。」


 刃を突きつけられながらも、男の声にはわずかな余裕が滲んでいた。

 焔がクナイを握る指先に、微かに力を込めた、その直後だった。


 風が動いた。否、空気がずれた。


 男の姿が、消える。


 一瞬。ほんのまばたきの間に、その影は焔の視界から消え、次の瞬間には、真上焔の背後に立っていた。


 鋭く磨かれた動きだった。重心の移動、気配の制御。

 それは素人の尾行とはまったく異なる、訓練された者の動き。


 焔は振り返らない。ただ、視線だけを背後へと向けた。


 焦りも、驚きもない。

 まるでこの展開すら、既に想定の範囲内であるかのように。


 「随分と手の込んだ挨拶だな。」


 言葉は静かだったが、その静けさこそが緊張を際立たせた。

 互いに間合いを測りながら、次の動きに備える沈黙が、薄暗い路地に濃く積もっていく。


 「俺はJNAの人岸だ。」


 そう名乗った男の声音には、迷いがなかった。


 焔は眉をわずかに動かすだけで、感情を表に出さなかったが、その名には聞き覚えがあった。


 「……忍連ニンれんか。」


 JNA——Japan Ninja Alliance。

 正式には「日本忍者連盟」。

 その実態は、かつての忍びの技術と血統を管理・統制するために、戦後極秘裏に設立された国家級の裏組織である。


 表向きの姿は存在しない。書類も記録も、政府のどの部署にも見当たらない。

 だが実際には、公安や内閣調査室とも連携を取りながら、超法規的に“忍”の存在を現代社会に適応させ、時に監視し、時に利用してきた。


 表の法と裏の掟、その境界に立つ存在——それがJNAだった。


 忍びの血を引く者を「登録」し、その活動を監視する役目。

 技の継承者に対する法的な抑止。

 そして、制御不能な力を持つ“逸脱者”を排除する、もうひとつの目的。


 焔にとって、それは“自分たちを飼い殺す檻”の象徴であり、敵とも味方ともつかない、不気味な沈黙の組織だった。


 「それで……何の用だ?」


 焔は振り向かずに問いかけた。声は低く、淡々としていた。だが、わずかに目元の空気が揺れる。


 「任務だ。」


 人岸は短く答えた。その声音には、交渉の余地も、感情の色もなかった。


 沈黙が一瞬、路地の空気を満たす。


 焔はわずかに口元を歪め、吐き捨てるように言った。


 「……悪いが、俺は忍びを辞めた。」


 言葉には鋼のような冷たさがあった。

 それは過去への拒絶であり、自分自身に課した決別でもあった。

 “忍び”という言葉が意味するもの——命令、殺し、監視、裏切り、孤独。焔はそれらすべてから距離を取ろうとしていた。


 人岸は、その表情を読み取るでもなく、ただまっすぐに立っていた。

 まるで“辞めた”という言葉の重さを、あらかじめ予測していたかのように。


 「本当に……? あの“死火シビ”と恐れられたお前が……?」


 人岸はくくっと笑った。乾いた笑いだった。

 焔を挑発するでもなく、侮るでもなく。まるで、語ること自体が既に禁忌であるかのように。


 その言葉に、焔の目が鋭く見開かれた。

 深く眠っていた何かが、無理やり引き起こされたような反応だった。


 「……何故、それを知っている。」


 声は低く押し殺されていたが、その裏には明確な警戒と怒気があった。


 “死火シビ”——

 それは、かつて忍びの世界において伝説と化していた名。

 火遁の系譜にありながら、常識の範疇を超えた力。

 それを目にした者は、例外なく死に至ったという。


 残されたのは黒すら通り越した、存在の欠片もない空白。

 焼け跡も、灰も、血も残さない。ただ“在った”という事実さえ消す炎。


 ——故に、その火を見た者は、この世に存在しない。


 なのになぜ、“死火”という名だけが忍界に広がったのか。


 それは、語る者がいたからではない。

 恐れた者が、勝手に名を与えたのだ。

 見えぬ炎に怯え、影だけが伝説となって広がった。


 「お前……何者だ……?」


 焔の声は、低く、わずかに掠れていた。

 心の奥に封じていた過去が、問いと共に揺れる。

 だがその揺らぎは、迷いではない。警戒と、刃のような直感だった。


 その瞬間、空が陰った。


 音もなく、日が雲に隠れた。

 光の温度が一段下がり、路地の影が、まるで命を持ったように濃く伸びる。


 ざっ……と、ほとんど聴き取れない足音。


 焔は振り返らずに、気配だけを数えた。左上の屋根、背後のゴミ箱の影、ビルの非常階段。

 ——三、五、七。最低でも八人。


 風が止んでいた。時間が凍りついたような静寂。

 そして、最初に口を開いたのは、やはり人岸だった。


 「……それを知る必要はない。」


 その声音には、もはや余裕すらなかった。

 ただ命令のように冷たく、断絶のように鋭かった。


 “交渉は終わった”——そう告げる合図。


 焔の足元に、風がわずかに巻いた。

 熱が、呼吸の内側で静かに目を覚ます。


 焔は目を見開いた。ほんの一瞬、驚いたように。


 「……なんてな。」


 口元に微かに笑みを刻みながら、彼は右手の指をゆっくりと持ち上げた。

 その人差し指には、かすかに光を反射する極細のワイヤーが絡んでいた。見えないほどの糸、それはすでに空間を張り巡らせていた。


 キィ、とわずかに金属が擦れる音が響いた刹那——


 ザクリ。


 周囲に潜んでいた者のうち、二人が崩れ落ちる。

 最初の男は喉元から顎にかけて、まるで刃物で斜めに切り落とされたように、ゆっくりと沈んだ。

 二人目は、それと気づかぬうちに頭部が胴体からわずかにずれ、血が一拍遅れて噴き上がる。

 鮮やかな紅が、まるで噴水のように夕闇に弧を描き、壁に、地面に、静かに飛沫を残した。


 血の匂いが、風を汚した。


 「な、なんだ……!? いったい……!」


 人岸の声が揺れる。焦り、そして怯え。

 数秒前まで確かに“有利”だったはずの状況が、崩れ去ったのだ。


 焔は、動かぬまま言った。


 「——最初から、お前の正体も、こいつらの気配も、すべて分かっていた。」


 冷たい声だった。

 感情はほとんどなく、ただ状況を語るだけの無機質な響き。

 だがその無感情こそが、“死火”と呼ばれた者の本質だった。


仙蔵せんぞう——

 かつて焔がその手で壊滅させた忍び一族。その生き残りが、今、眼前に牙を剥いていた。


 一人が叫び声を上げ、手裏剣を撒きながら間合いを詰めてくる。

 焔は動じなかった。すでに数手先まで計算に入れている。


 その足捌きは、水面を滑るように無音。

 攻撃の軌道を半身でかわすと、流れるように逆の手でクナイを引き抜き、切先をひと息で相手の喉元へ滑り込ませた。


 刃が肉を裂く鈍い音。

 抵抗の声は、出る前に息と共に絶えた。


 返す間もなく、もう一人が背後から飛びかかってきた。

 気配で察知した焔は、身を沈めるようにして回避。わずかに軸をずらしながら、相手の重心を見極める。


 そして、重さが乗りきった瞬間——

 焔の膝が、鋭く、正確に相手の腹部を貫いた。

 鈍く濁った息が漏れ、骨が軋む音がわずかに響く。

 男の体は折れ曲がり、地面に転がったまま動かない。


 足音も声もなく、三人の忍が同時に動いた。

 それぞれが異なる角度から、鋭利な刀を振るい、焔の命を狙う。


 正面。左斜め上。背後。

 包囲。連携。殺意の三点同時突き。

 ——だが、焔は一歩も動かない。


 最初に来たのは、正面の一撃。

 刃が振り下ろされる瞬間、焔はその刀の軌道を見切っていた。

 手首をわずかに叩く。

 その力は鋭さより“角度”を殺すことに特化していた。

 刀が軌道を外れ、刹那、焔の掌が相手の喉元を撃ち抜く。

 五寸釘のように指が刺さり、喉を陥没させた男は、音もなく崩れた。


 次の一人は屋根上から斬りかかった。

 焔は飛び上がることもせず、腰の懐から糸を放つ。

 細く強靭な糸が、空中に交差するように張られ、男の両手首に絡みついた。


 着地の瞬間、その糸を引く。


 ズルンと、肉の裂ける音。

 刀とともに、男の両腕が宙を舞った。

 咄嗟に叫びかけたその喉に、焔は一閃。

 刃を使わず、手の甲だけで喉笛を潰した。


 三人目は背後からの斬撃。だが、焔の背中は空ではなかった。

 彼の足元には、小さな苦無が伏せられていた。

 踏み込みと同時に、その苦無を足裏で弾き上げ、後方へ蹴り飛ばす。

 音速に近い速さで吹き飛んだ刃が、背後の忍の片目に吸い込まれるように突き刺さった。


 男は悲鳴すら上げられず、よろめきながら倒れた。

 その首を、焔が踏み抜く。

 骨の折れる乾いた音だけが、静かな路地に響いた。


 「そ、そんな……一瞬で……全員を……」


 人岸の声はかすれていた。

 眼前に転がる仲間たちの死体を前に、言葉を紡ぐことすら重い。

 焔の動きが見えなかった。意志のない殺しではない。すべてに、技があった。美しさすらあった。


 焔は一歩前に出た。血を踏み越えて。


 「——それで、お前の主は誰だ?」

 「何故、俺の正体を知っている?」


 その声音は静かで、まるで吐息のようだった。

 だが、その一言に、刃を突きつけられるより重い威圧があった。


 人岸は顔を歪め、わずかに笑う。

 地を蹴ると同時に、印を結んだ。


 「舐めるなよ……《秘技・千草風せんそうふう》!」


 突如として、空気が逆巻いた。

 人岸の周囲に風が集い、旋回し、刃のように暴れ狂う。

 瓦礫が舞い上がり、地面を穿つ。風はやがてひとつの渦と化し、竜巻のごとき柱となって焔に襲いかかった。それは、仙蔵一族に伝わる秘術。風を操り、五感と肉体を切り裂く技。


「……仙蔵の秘術か。」


 焔は目を細め、右手を胸元に添えた。

 指が印を刻む。その動きは滑らかで、炎の舞のようだった。


 「ならば——《忍法・焔楊えんよう》」


 ゴウッッ……!


 大地が震える。

 焔の掌から吹き出した炎が、まるで生き物のようにうねり、風の渦へと突き進む。

 普通なら風が火を飲み込むはず。だがこれは違った。炎は渦に絡みつき、熱とともに風の道筋をねじ曲げた。

 人岸の術は、強大であった。だが——


 焔の放つ火は、それを上回った。


 「なっ……ぐあああああッ!!」


 風が逆流し、炎が螺旋となって襲いかかる。

 人岸の叫びとともに、その身体は熱に包まれた。

 肉が焦げ、刃が溶け、足元から崩れていく。

 抵抗も虚しく、全身を焼かれ、男の姿はやがて地面に沈んだ。


焔は、血の匂いがまだ漂う路地に佇んでいた。

 死体の山。焼けた肉の残り香。折れた刃。沈黙。

 そのすべてを一瞥し、焔は深く息をついた。


 「……はぁ。仕方ない。」


 ポケットから黒いスマートフォンを取り出す。

 発信履歴の一番上を無言でタップする。


 数秒の呼び出し音の後、低く落ち着いた声が応答した。


 「もしもし。」


 画面の表示には、“兄・涼”の文字。

 その男は、忍連(JNA)の幹部のひとりである。


 「どうした、焔。」


 「……どうやら、俺の正体を知る組織が動き出してる。」


 焔は簡潔に、今日起きた出来事を語った。

 尾行、襲撃、仙蔵の残党、そして“死火”という名への言及。

 涼は言葉を挟まず、ただ静かに耳を傾けていた。


やがて、短く呟く。


 「……それを知っているということは、かなり大きな組織かもしれないな。」


 “死火”という名は、眞神一族の内でも限られた者しか知らない。

 かつてその炎を見て死んだ者たちは、何も語ることなくこの世を去った。

 焔の正体を知る者など、いまや親族の一部と、ごく一握りの古い忍びだけのはずだった。


 「……なるほどな。」


 涼の声は少し低くなった。

 受け取った情報を頭の中で組み直している、そんな音がした。


 「とにかく、調べてみるよ。組織単位で“死火”の名を出せる相手となると、相当に古くて、深いところにいる奴らかもしれない。」


 「頼む。」


 焔は短く答える。

 その声に感情は少ない。だが、その裏にある信頼は確かだった。


 「——あぁ、そうだ。前に伝えてた例の忍びの件。様子はどう?」


 涼がふと、思い出したように話題を変える。


 「ん〜……まぁ、大丈夫なんじゃない?」


 焔は気の抜けた返事を返した。兄には珍しく砕けた調子だったが、それがむしろ、本音の裏返しにも思えた。


 「そっか。じゃ、また何かあったら連絡して。」


 通話が終わろうとした、そのとき。


 「あ……それと。」


 焔はふと、足元に転がる肉塊の数々を見下ろした。

 赤黒く滲んだ地面。熱で歪んだ空気。まだ残る血の匂い。


 「……掃除の依頼、お願い。」


 通話の向こうで、涼が微かに苦笑した気配がした。

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