曖昧に途切れそうに
その後──迅たちが作業を済ませて洞窟を出るまで、あの足音が再び聞こえることはなかった。
なぜ、迅は“あれ”を見たのに殺されなかったのか?
その理由は、結局わからず終いだった。
ただ──あの脚が立ち去ったあと、オルガが迅を驚いた顔で見ていたことが迅にとって印象的だった。
オルガのその顔が少し滑稽で…………迅は心の中で笑っていた。
──何はともあれ、生き残れたことが何よりだ。
迅がそう思っていたとき、ふと、オルガが前に言っていた言葉を思い出す
──「わからないことを、わからないまま割り切るのも大事だ」
計7名の犠牲が出た。もちろん、その中には多少なりとも迅の見知った顔もあった。
それでも──生きて帰れた。
迅にとって、今はただそれだけで良かったし、それ以上何かを望んだり、知ろうとするのは贅沢な気がしていた。
* * *
その日、夜に見た夢はいつもと違っていた。
暗い空間に一本の光の糸が垂らされている。
俺は、──何の迷いもなくその糸を掴んだ。
糸を両手でしっかりと掴み、上へ上へと手繰り登る。
この糸に縋すがりついて、どこまでも登って行けば、きっと地獄からぬけ出せる。もう、底辺の暮らしに喘ぐこともなければ、命を使い捨てにされることもない。
既に手繰り寄せた糸は、足元へ垂らされることなく、俺の掌へと吸い込まれていく。
──とても、心地よかった。
* * *
「おう、迅。珍しくスッキリ起きました。みたいな顔だな」
俺の起床に気づいたオルガが、顔を覗き込みながら言った。
いつものことだが、オルガが先に起きていたみたいだ。
「ちょっと、顔が近い。──気持ち悪いですよ」
「なっ!?てめッ、ひでぇな迅!」
これは、昨日迅がオルガにつき損ねた悪態だ。オルガは、「まあいい」と一言おくと、
「お前、昨日あんなことがあった日に限って目覚めが良いなんて、元から変なやつだけとやっぱり変な奴だな!」
豪快に笑いながらそう言ったのだった。
(オルガこそ、昨日あんなことがあったのに、よくそんなに笑えるものだ……)
* * *
当然のように、彼らは今日も採掘作業に駆り出される。
今日の作業の監視員としてやってきたのは二人だ。
男が一人と、そしてもう一人は──珍しく、女性だった。
後頭部で束ねられた髪は、元は相当な長さがあったのだろう。それは、日の光を受けるたびに眩しく輝く、見事な“銀髪”だ。
水色に近い瞳は、その髪と同様に、色素が薄い。
そして、それらとは対照的な、夜のように暗く重たい、漆黒の外套に身を包んでいた。
「監視のシオンです。本日はよろしくお願いします」
短い挨拶だ。
しかし、そもそも挨拶をしたり、ましてや自ら名を名乗る監視員はとても珍しい。
同伴している男は何も言わず、ただ隣で迅達を見ていた。腰には一本の剣を携帯している。
「ゴミでも見るような眼だな、あれ」
シオンと名乗る女性が今までの監視員と比べて礼儀正しかったせいか、オルガはもう一人の男の態度が気になるようだ。
昨日の採掘場。あの洞窟の採掘は一昨日と今日で完了したので、採掘隊は新しい採掘場に向かうことになる。
迅達は準備を済ませ、耀輪車に乗り込んだ。
* * *
(まあ、流石に昨日みたいなことにはならないだろう)
迅がそんなことを考えていると、今日の採掘隊、7名を乗せた耀輪車は目的地に到着する。
今日の採掘場、それは昨日のような洞窟ではなく、かつて人が暮らしていた集落跡だった。
そこかしこにルーミナイトが生えているその地域は、おそらく人が消えてから久しい。
おそらく戦後、アルカディオンに逃げてきた人々がかつて住んでいた集落の内の一つだろう。
「周辺にモンスターはおらず、安全は確認済みです」
(安全確認までしてくれているのか……)
監視員の女性──シオンがそう言うと、俺たちは作業に取り掛かった。
* * *
採掘自体はとてもスムーズに進んだ。このままのペースなら明るいうちに帰れるだろう。
「迅、ちょっとルナクタ持ってきてくれ~!」
「え、なんで俺が……」
「わるい!ちょっと手が離せなくてな」
どうやらオルガノ使っているルーミナイト破砕機、そののエネルギー源であるルナクタが尽きたらしい。
作業の継続にはルナクタが満たされた筒が必要だが、手を離せないらしいオルガは迅に頼んで持ってきてもらおうとしたのだ。
「なんて、持ってきましたよ。忘れてったの、知ってんだからな~?」
そう言ってルナクタで満たされた筒を一本取り出した。耀輪車を降りて採掘準備をする際に、オルガが予備の筒を忘れているのを見つけていたのだ。
迅としてはオルガがエネルギー切れで困ったところに渡して、からかってやろうと思って持ってきたものだ。
まさか「取りに行け」なんて使いっ走りにされるとは、迅本人も思ってもいなかったのだが……
「おお~迅!、気が利くじゃねえか!!」
(…………)
迅にとって、結果的にオルガを喜ばせただけなのが腹立たしかった。
心底……腹立たしかったのだ。
(あれ、なんで俺こんなにイラついてるんだ……?)
そして、少し憂鬱だ……
迅にとって半年間、短いようで長い間、年齢こそ離れているが相棒のような立ち位置で、お互いに足りないところを補って必死に生きてきたオルガとの仲である。
(それなのに、なぜこんなに俺の扱いが雑なんだ……)
(まるで、俺はオルガの奴隷か何かじゃないか? 便利な召使か?)
そんなことを考えていると、迅は自身の心がゆっくりと沈んでいくのを感じた。
昏い海の底に、ゆっくり、でも確かに沈んでいくような感覚だ。
(おかしい…………なんだ、この気分は)
(海に沈むように苦しい……でも、なにかがおかしい。これは正当な感情か?そもそも海ってな……)
「おいおいおいおい!!なんっで!!!!」
採掘隊で一緒に来た男の悲鳴により、迅の思考が一時中断される。
しかし、悲鳴の方角を見る気は起きなかった。悲鳴の方を見るべきだと、頭では理解しているのに。
それでも迅はなんとか、絞り出すように、ゆったりと、身体の向きを悲鳴の方角へ向けた。
すると……
世界が、──青く染まっていた。
夕日が落ち、世界が夜へと姿を変える瞬間とはまた違う、目の前に、薄い青い膜が張られているかのように、世界が青く染まっていたのだ。
そしてより一層濃い青の中心、
迅とオルガがいつも住んでいる小屋、その小屋よりも一回り大きいサイズの、四足歩行の何かが立っていた。
体毛の一切ない、粘ついたような質感の皮膚。それはぼろ布のような何かで、雑に覆われている。
その背からは、異様に太く長い腕が生えており、見るからに重そうな巨大な杖を握っている。
顔面には、ぎょろりと大きな瞳が二つ。まるで埋め込まれるように並んでおり、その顎からは、胴は左肩から右脇にかけて、何かの布を纏う首のない人間が生えていた。
そして、その生き物の口には、
──先ほどの悲鳴の主と思わしき、血塗れの男が咥えられていた。
* * *
──採掘場の集落入口、耀輪車前──
「…………!」
(何!?今のは?)
シオンは、集落の中心方向から流れ出てきた異質な魔力の奔流を感じ取った。
(これは、モンスターの魔力の力場……!)
それは、昨日の洞窟で迅達が感じ取った魔力の縄張り。この集落にモンスターがいることの証明だ。
集落が発見された時、シオンの調査によって既にモンスターが住み着いていないことは確認済みだ。そして、それらが寄り付かないような処置をした筈だった。
それ故、彼女は「安全は確認済み」と採掘隊に伝えたのだ。
「今のは……モンスター、ですねえ」
同じく監視員として同行していた男が、含みをもたせたように口元を歪ませて言った。
「…………あなた、何かしたの?」
睨み、問いかけるシオンに男は短く「ああ」とだけ頷くと、悪びれもせずに言い放つ。
「俺が──モンスターを連れてきたんだよ」
通常なら考えられない奇行を告白する男に、シオンは驚愕する。そして、声を上げて問い詰めた。
「な、何のためにそんなことを!」
「お前、黒縄の第十一傘下のボスだろ……?」
「……!」
シオンにとってここで耳にするとは思っていなかった単語。それは彼女の所属組織の情報であり、男には伝えていなかった情報だ。
「つまり、この監視業務は黒縄会の指示だ。じゃなきゃ外の世界の監視なんて自分からやる意味はない。それも、俺みたいな傭兵まで雇ってな」
男は監視員ではなく、シオンが護衛のために雇った傭兵だった。
「傭兵を雇わなきゃならないくらいだ。…………お前の組織、相当人手が足りてないんだろ?」
にやけたまま、男はさらに言葉を重ねる。
「そして“工房”も持っている」
なにもかも知っている風な男の言動に、シオンは自身が危機的状況にあることを理解した。
傭兵として雇っている手前、武力行使では勝ち目がない。
「何が……目的なの……?」
シオンが恐る恐る問う。
「決まってるだろ。黒縄会は失敗したお前を見捨てる。最下位の組織に情けなんて掛けないさ」
男の広角がさらに上がる。楽しくてしかたがないといった風で話続けた。
「──だから俺が、お前の組織ごと、そのポストをいただく」
「……!」
シオンの顔に怒りと恐怖の表情が混ざる。
「シナリオはこうだ」
そして、男は得意げに指を鳴らすような仕草で言った。
「採掘場にモンスター襲来!作業は継続不可能!責任者であるお前は、黒縄の制裁を恐れて逃げ出す──それを俺が“やむを得ず”討つ。その首を持ち帰って、黒縄会に差し出す。これで、お前の組織は俺のものってわけだ」
狂ったような筋道。だが、王国の“裏社会”では通用しかねない。
「あなただって、ただじゃ済まないとは思わないの……?」
シオンの声が震える。しかし、それは苦し紛れの一言だった。
怒りと、恐怖が混じるその声を、男は鼻で笑いながら答える。
「ない。責任者はお前だ。そして俺は、そのケジメをつけて帰る」
男が下卑た笑みを引きつらせるように浮かべた。
「黒縄会は何より“力”を重んじる。だから俺は、お前より優れたボスになれると、あいつらに思わせりゃそれでいい」
* * *
──採掘場の集落、中心──
──シャラン
音だ。──モンスターの背から生えた腕が、その手に持つ杖の持ち手側を地面に叩き付けると、杖の先端に作られた輪形、それに備わった幾つかの輪が互いにぶつかり音を奏でる。
その音を聞くと、迅は何かが心に重くのしかかる感覚がして、生きる希望みたいな力が削り取られて無くなっていくの感じた。
個人差はあるが何度か聞いた時点で動けなくなる者や、希死念慮に駆られて自死を選ぶ者も出てきた。
そして、その音がモンスターの発する力場と重なり、凶悪な効果を生んでいる。
先ほど迅が感じていた憂鬱の正体もこれだ。
力場だけなら気の持ちようで何とかなっていたかもしれないが、──あの音だけは、どうやっても抗えない。不思議なことに、迅達が耳を塞ごうとしても身体がそれを拒否して動かないのだ。
「気を確かに持て!動けなくなったら食われるぞ!!」
オルガが叫ぶ。
あのモンスターは杖の音を聞いて動けなくなった者しか攻撃しない。
──シャラン
(くッ……!)
採掘隊の一人が動けなくなる。それをモンスターの長い舌が串刺しにして、そのまま巻き取った。
悲鳴とモンスターの咀嚼音を聞きながら、迅は確信する。
(おそらく、あと一回でもあの音を聴いたら動けなくなる……)
逃げなければならない……音の届かない場所へ。
集落の入り口まで逃げれば、きっと監視員が何とかするだろうと迅は考えた。
(本当か?)
(監視員が俺たちを助ける……?そんなこと、今までに一度でもあったか?)
──足が重い……
あいつらは俺たちが食われるのを笑って見ているに違いない。逃げたところで、意味なんか……
………………
(……違う違う違う!思考を支配されるな!!)
既に、モンスターの能力で迅の脳内は悪い思考に支配されていた。そして、それを振り切りながら逃げるのは大変困難である。
──シャラン
(あっ……まずい……)
動けなくなったら食われる
5度目の音を聴いたとき、ついに迅の身体が動かなくなった。
モンスターが迅に狙いを定める。
(死ぬ……!)
その大きな口が開かれると同時に、長く鋭い舌が凄い勢いで迅を目掛け射出された。
「迅!!!!」
突如、迅は何者かに突き飛ばされる。
飛ばされながらその方向を見ると、
モンスターの舌によって左腕を弾き飛ばされた、──オルガがいた。
モンスターは宙を舞うオルガの左腕を舌で巻き取ると、そのまま口に運ぶ。
「オルガ!!!!!」
オルガは迅のことを身を挺して守ったのだ。
そして、突き飛ばされた時の衝撃で迅は身体の自由を取り戻した。
迅は、すぐさま倒れたオルガの元に駆けつける。
オルガは左肩の付け根、腕の千切れた部分から止めどなく出血しており、既に瀕死状態であった。
「なんで、オルガ……!」
「オルガ、さんだろ……」
「早く……血を止めないと」
「もう無理だ、こんな状況で血を止められるわけがないだろ。迅、何でか知らんがあいつが怯んでいる隙に逃げろ……」
オルガの舌を咀嚼したモンスターは、ターゲットの肉でないことが原因か、何やら怯んでいる様子で動きが止まっている。
「置いていけるわけないだろ!!」
迅が叫ぶ。その瞳には涙が浮かんでいた。
その様子を見たオルガは、迅を落ち着けるように優しく、そして柔らかな口調で語りかける。
「なあ、迅。俺黙ってたけどな。昨日、聞くに限りに襲われた時。あいつを追っ払ったのはお前なんだよ……」
「こんな時に何言って……」
「だってな、お前の身体、何でか知らないけど、妙に輝いてたんだ……それを見たあいつな、お前を見て逃げ出してやんのよ。滑稽だったなあ……」
オルガは嬉しそうに話し続ける。
迅はなにも言えずにいた。
「迅、お前には、多分すげぇ力があるんだ。魔法なんかより、もっと特別で……もっと、やばいやつだ。黙ってたのはさ、教えたら、お前がいなくなっちまうんじゃないかって……壁の中に行って、もう二度と会えなくなるのが怖かったのさ……」
「オルガ……」
オルガの顔色がどんどん悪くなっていく。しかし、オルガはそれでも構わずに話し続けた。
「だから、お前を助けたのは……きっと、罪悪感ってやつだ。俺が勝手に黙ってたせいで……悪かったな」
「お前は……壁の外で終わる人間じゃない……いいか、ここから逃げて力を示して王国に入るんだ……そして、俺たちをこんなクソッタレな目に合わせてる連中を……ぶん殴ってきてくれよ…………!」
絞るように願いを託すオルガ。
託された迅の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「お前といれて楽しかったぜ……だから……絶対に…………生き残れよ……迅……!」
迅はその言葉になにも返さず、ただ力なく頷いた。
気がつくと、怯みから回復したモンスターが迅の目の前まで来ている。
(生き残れよ……か……
死にたくない。
だから、絶対に生き残って、オルガを助ける。)
モンスターが杖を振りかざす。今にも、あの大腕で杖の音を鳴らそうとしていた。
すると、
(……!)
──唐突に、迅の世界がスローモーションになった。
オルガの微かな呼吸も、モンスターの振り下ろす腕も、全てがゆっくり進む。
そして、迅の目の前には、
天から伸びる一本の輝く糸が垂らされていた。
それは今朝、迅が夢で見た糸と似ている。
その糸は、迅にとって救いに思えた。
(それを掴んで、どこまでも登って行けば、きっと地獄からぬけ出せるのかもしれない)
迅は……
迅は、その強かで、それでもってどこか曖昧に途切れてしまいそうな、その糸を。
──右手で強く掴んだ。