私の落穂拾い
聖書というものに偏見があった。それを懺悔し告白しなければならない。あれは高校二年生のときだっただろうか。クラスにキリスト教を信仰している生徒がいた。私はそれを知ったとき反射的に、「気持ち悪い」と思ってしまった。それほど宗教というものに嫌悪感があった。キリスト教系の学校などにも同様の気持ちを抱いていた。難関大学には意外とキリスト教系の学校が多い。そういう学校では一年時に誰もが必須で聖書を勉強するらしい。クリスチャンではない人がそのような大学に入って、突然聖書についての授業を受けたら、私と同じような気持ちを抱くかもしれない。「なんでこんなわけのわからないものを読まされるのだろう」と。
そんな偏見が取り除かれたのは数年前のことだった。当時の私は歴史の知識がほとんどなく、そのせいで人生の大半を損しているような気がしていた。テレビを見たり、新聞や本を読んでいても必ず各国の歴史について言及される。そしてそれを知らないがために深く楽しむことができない。このままではもったいないと思い、まずは簡単な日本史から勉強していくことにした。しかし日本史の本を読んでいくにつれ、世界史の知識の必要性を痛感させられた。「世界の歴史を知らずに日本の歴史を理解できるはずがない」と思い、突如世界史の勉強に移った。世界史関連の本を何冊も読んでいくうちに、次に私はキリスト教の知識の必要性も強く痛感させられた。どこを読んでも必ずキリスト教が影のようにまとわりついてくる。この時、初めて私は、「キリスト教を理解しなければ、世界の歴史を真に理解することはできない」という思いに至った。これが私に聖書を紐解かせた経緯である。
聖書は旧約聖書と新約聖書からできている。外典も入れればその文字数は膨大であるが、乗りかかったこの歴史船から降りるつもりは毛頭なかった。覚悟を決めて、創世記から読み進めていった。創世記だけでも十分魅力的でその壮大な物語に私は強く心を打たれた。しかし決定的だったのは、意外にもレビ記という律法について記された部分だった。私はそれを退屈そうに読んでいた。なぜなら読んでいて全く面白くなかったからだ。しかし次の文章が目に入ったとき、突然私の体に電撃が走った。
「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」 聖書 新共同訳より
この文章が目に飛び込んだとき、反射的にミレーの有名な絵画『落穂拾い』が頭に浮かんだ。「もしかしたら、あの絵画はこの文章がモチーフになったのではないか」私は急いで調べてみた。結果は厳密に言えば、その絵画はルツ記という同じ聖書内のものをモチーフにしたものらしかったが、その絵画内の行為がこのレビ記にある律法に基づいていることは紛れもない事実であった。
それを知った時、サウロの如く、私の目から鱗が落ちた。言葉の輝きはあまりにも眩しいものであった。豚であった私は、そのとき初めて真珠の価値を知り、人になることができた。あのときの感動を昨日のことように思い出すことができる。たったこれだけの小さな出来事が私に知的感動を与えてくれた。その文章を読み、その絵画の背景を知った後では、私の中でのミレーの『落穂拾い』は「ただ身を屈めて落穂を拾ってるだけ」という印象ではなくなっていた。
聖書を最後まで読み終えたとき、私のキリスト教に対する偏見はすっかり取り払われていた。聖書を読んだおかげで、文学、音楽、絵画、映画、歴史、文化、英語、ありとあらゆるものを深く楽しめるようになった。
聖書から引用された箇所があると、「それ知ってる!」と小躍りしてしまう。そこには何かクイズで正解するような高揚感がある。一見無関係なように思える日本文学にもそれは欠かせない。芥川龍之介や太宰治などの作品を読んでいると、彼らの聖書の豊富な知識量に圧倒される。そして聖書の知識があるおかげでそれらの作品を深く楽しめることにありがたみを感じる。
私は今でも無宗教であるが、学生時代にキリスト教に対して偏見を抱いてしまったことをとても申し訳なく感じた。無知であることは恐ろしい。無知が偏見を招いてしまう。しかし私の場合、知的好奇心が連鎖して、言葉に導かれ、偏見を斥けることができた。何かを知り、学ぶのに遅すぎるということは絶対にない。
いくつになっても、学びそこねた知識の落穂拾いをするのはとても楽しくて面白い。それを拾った後ではあらゆるものに対する見方が全く変わってくる。
偏見をなくすためには、知ることから始めなければならない。
世の中には数え切れないほど多くの本が存在する。
その中のたった一冊の本が人生を大きく変え、今後何度も読み返すことになる、まさに自分にとっての「聖書」になる可能性があるのならば、果たして読まないという選択肢があるだろうか?