侯爵家の昔話(ダイナン視点)
母が亡くなった。
優しい母だった。
父は仕事以外で口を開くことがなくなった。
姉は、黙々と嫁ぐ準備をして、いつも下を向いてため息ばかり吐く。
俺は、後継者教育を馬鹿みたいに詰め込まれて、荒んでいた。
そんな時、この国のどこかで聖女が見つかったらしいと話題に上った。
国を沸かせるそんな話題さえ、オルダマン侯爵家に会話を呼び戻すことは無かった。
聖女は城に行き、披露という見世物にされ、教育がなってないと嘲られている。
聞けば、農民の娘を連れてきたという。
それで、どうして貴族の中に放り込もうと考えたのか。教育がなってないのなど、当たり前じゃないか。
自分には関係ないこととして眺めていた。
そんなことに心を割く余裕など、今の自分たちにはない。
――というのに。
どうして、王族というやつらは傲慢なのか。
このマナーが身についていない聖女を、王太子妃となるよう教育しろとオルダマン侯爵家に押し付けてきたのだ。
聖女を王妃としたいが、教育するのは、城であってはならないらしい。城は高貴な人間が住まう場所であり、まだ教育前の娘がいて良い場所ではないのだそうな。
そういって、我が家にやってきたのが、チェルシーだ。
フワフワの緑の髪と緑の瞳。肌は健康的に日焼けして、プニプニで柔らかそうな小さな女の子。
父が屋敷に連れてきた日に、腰をかがめて笑顔を作った。隣で、姉も似たような表情をしていた。目を細くして口をひん曲げるだけの、全く心の伴わない笑顔だが、無表情よりましだろう。
「こんにちは」
挨拶をすれば、チェルシーは素直に挨拶を返した。
「こんにちは。……今度は、ここなの」
そうして、不満げに眉を寄せる。俺の目をじっと見つめてから、顔を伏せた。
「嫌なの?」
何を読み取られたのだろう。
わざわざ浮かべていた作った笑みを消して問うと、チェルシーは苦く笑った。
「嫌って言っても、私は幸運なのだから、感謝しなければならないんでしょう?」
きっと、この生活になってから、何度も諭されてきたのだろう。
お前は幸運だ。幸せなのだと、何度も押し付けられてきたはずだ。
「そうか。この家から出すことはできないが……何が嫌だ?チェルシーがしたいことを教えてくれれば、それを一緒にしよう」
チェルシーは、目を丸くして俺を見上げた。
俺がふんと鼻を鳴らして、顎で促すと、彼女の目に涙がみるみるうちにたまった。
「……泣きたい。わんわん泣きたいの。大声で笑いたいの。足を鳴らして怒りたい」
こんな幼い子に、貴族教育なんて受けたことも無い子に、まずさせたことが、感情の制御か。
王太子妃になるならば、絶対に必要なことだが、順番があるだろう。
「ああ。いいぞ」
泣きたいなら泣けばいい。
俺が頷くと、ボロボロと涙を流しながら、腕を握ってきた。
「お兄ちゃんも一緒にするって言った。泣いて」
「俺も泣くのか!?」
「泣いて!お姉ちゃんも、おじさんも!」
小さな手が、俺と、姉と父の手を重ねて、大声で泣いた。
母が亡くなって以来、初めて感情が動いた。
泣いて良いと、許しを貰ってしまった。許しどころか、約束したから、泣かなくてはいけないという強制。
家族の手の温かさに、勝手に涙がにじんだ。
「あ……」
小さな呟きに、横を見れば、姉が涙を流していた。父が、眉間にしわを寄せて目をきつく瞑っていた。
勝手に重ね合わされた手に力を入れて、家族の手を握った。
チェルシーはわんわんと声をあげて泣き、俺と父は静かに、姉は時折小さな声をあげなら、四人で手をつないで泣いた。
そうして、気が済んだのか、泣き止んだチェルシーは俺たちを見上げて満面の笑みを見せた。
「本当に一緒に泣いてくれたのね。ありがとう!」
感謝までされてしまった。
涙というのは、心の淀みを洗い流してくれるものだったのか。父は珍しくぼんやりとした表情を浮かべている。
「ああ、チェルシー。あなたが来てくれて嬉しいわ」
姉が、感極まったようにチェルシーに抱き付き、また涙を流した。
オルダマン侯爵家でのチェルシーの教育は順調だった。
チェルシー相手に、てこずる事などない。
彼女は優秀で、本を読むのは楽しいと、次から次へと知識を吸い込んでいった。この子に教えられないなんて、城の人間は無能の集まりだ。
「家族の中で感情を表して何が悪い?公式の場では動揺を表さないように訓練すればいいだけの話だ」
父がそう言って、チェルシーに優しい笑顔を向ける。
「私、嫁ぎ先の家族とも、そうなれるようになるわ」
姉は、結婚相手といい関係が築けそうだと微笑んだ。
チェルシーは、紛うことなき聖女だ。
彼女の素直な感情表現が、俺たち家族を、すくい上げたことよりも明確な事象が起こっていた。
初めて、チェルシーがイチゴを食べた時、目を輝かせた。
「おいしい!こんなおいしいものがあるなんて!」
領地から献上された農産物だ。
「そうだね。豊作になったら、また献上されてくるかもしれないよ」
「そうなの?そうだといいなあ。もっとたくさん食べたい」
チェルシーの言葉に、父は目を細めて、イチゴを取り寄せるように家令を伝えたのを俺は知っている。
その時は、チェルシーに甘いなと思っていただけだった。
その年は、驚くほどイチゴが豊作だった。
例年であればもう終わるはずのイチゴがいつまでも届く。そして、イチゴを傷める雨が降らない。
「ああ、このままでは米が不作だな。備蓄している米を出す準備を」
オルダマン侯爵の領地は広い。そのため、社倉が各地に作られている。そこから、平等に配られるのにはそれなりに時間がかかる。不作が判明してからでは遅いのだ。
俺が頷いて書類をめくっていくと、チェルシーが不安そうに見上げてきた。
「お米がなくなってしまうの?」
「ああ、大丈夫だ。そのために準備をするのだからね」
父がチェルシーの頭を撫でると、安心したように微笑んだ。
「すごいのね。私は、自分が育てているものしか知らなかった。そうね。イチゴばかりたくさんあっても困ってしまうのね」
なるほどと頷くシェルシーはとても可愛い。
父からチェルシーを奪い取って、俺が頭を撫でる。
「高級品がたくさんできれば、お金はたくさん入って来るから、不作になっても大丈夫だよ」
実際、イチゴが例年になく豊作だったおかげで、備蓄を多くできている。
「ま、不作にならないことが一番だけど」
どんなに準備をして備蓄食料を配っても、不作の状況によっては、飢餓に陥る領民は出てしまう。
少し不安そうになったチェルシーの顔を覗き込んで、微笑む。
「だから、大変になりそうな時ほど、領主は、頑張るんだ。チェルシーも頑張るよ?」
「うん、頑張る!」
たくさん学んで、どうすれば飢える人が減るのか、勉強する理由を教える。
彼女は素直に頷いて、「お米がいっぱいできたらいい!」と叫んだ。
その年のコメは豊作だった。
米だけではない。野菜も果物も。次の年も、どの作物も、オルダマン侯爵領は、穀倉地帯になりそうな勢いで作物が実った。
――チェルシーの力だと疑い様が無かった。
「チェリーの力は、自分が育てたものにだけ作用すると聞いていましたが」
「ああ。もしかしたら……望んだ範囲、かもしれない」
農家として暮らしていた時は、自分が育てた物だけへの願いだった。それが、オルダマン侯爵家にやってきて、広い場所への願いへ変わった。
それが真実だとすれば、チェルシーの力は計り知れない。
彼女が国に存在するだけで、この国は飢饉とは無縁でいられることが保証されるのだ。
彼女は自分の力を知らない。
「おいしい」と朗らかに笑うチェルシーに、力なんていらないのに。
「チェリーと結婚したい」
俺がそう願うようになるのは、当たり前だった。
父も、分かっていただろうが、首を横に振った。
「チェルシーは、王太子妃として育てよと命じられた」
王太子妃として教育せよと預けられた聖女を、臣下が娶ることなどできるはずもない。
しかも、チェルシーを引き取ってから、オルダマン侯爵家は、さらに繁栄を遂げている。
何を育てても豊作で、上質な農作物ができるのだ。
王家が、チェルシーのおかげでないかと考えているのは、簡単に推測できる。
「チェルシーがこのまま娘としていてくれるのは、私も嬉しい。しかし、それは聖女を私腹を肥やすための道具として扱ったと、王家から謀反の疑いをかけられる」
そうして、オルダマン侯爵家が没落すれば、チェルシーを後見する家はなくなる。
王太子妃の後見となれるのならば、手をあげる家は数多くあるだろう。
だが、チェルシーの愛らしい笑顔を守ってくれる家はどれだけある?
「もしも……もしも、あの子が冷遇された時のため、私はこの権力を手放さない」
チェルシーが、農民の娘だと嘲笑われることがあるかもしれない。
その時に、オルダマン侯爵家の養女となっているチェルシーには力がある。その力を与えてあげられる。
冷徹な視線が、父から向けられた。
この権力を脅かすなと、オルダマン侯爵家後継として、王太子妃となるチェルシーを支えろと視線だけで言われた。
頷くことしかできなかった。
他の男に抱かれるチェルシーを見ることが出来なくて、留学を希望した。
しばらく離れていれば、きっと、穏やかに彼女を見ることが出来る。
結婚して幸せそうなチェルシーを見て、初めて、俺は彼女を諦めることが出来るだろう。
それまでは、結婚は考えられないと父に伝えると、深いため息を吐きながら了承してくれた。




