5 天の川
展望広場の手すりの向こうには、思った通り、満天の星空が広がっていた。
「わあ、きれい!」
「よく晴れてるね。……ねえ、何で、下塗りが赤だったのか聞いてもいい?」
私はきょとんとした。
「え、だって、あの山際のあたり、赤っぽいじゃないですか。真上に行くと真っ黒ですけど、グラデーションですよね」
「ええー」
先輩は意外そうに言って、私が指さした山際をじっと見つめた。
「だめだ、オレには見えない」
「黒を深い色に塗るにも、下地にはっきりした色があるときのほうが、そう見える気がします。私の個人的な感覚ですけど」
「つまりこれが、諸富とオレの差だよなあ。美術部、何で入ったんだろうっていうくらい、オレ、絵は才能ないから」
「嘘でしょ」
私はぎょっとして振り返った。
「先輩の去年の展覧会の絵、覚えてますよ。雨の水滴がついた窓ガラス。その向こうの、ピントが合わないみたいにぼんやり霞んだ緑の景色。赤い傘を差してるみたいな、小さな人影」
「諸富こそ、よく覚えてるね」
「そりゃあ。だって、あの雨粒、本当に触ったら手が濡れそうなくらいリアルでした。絵葉書版にプリントしたら、写真だと思う人がほとんどじゃないですか。私には、あんな風に絶対描けないです」
いい絵だった。雨粒のせいでガラスがくっきりと立って見えて、その向こうに見える景色に手を触れられないどころか、ピントさえ合わせられないもどかしさが伝わってくるみたいで、じっと見ていると、切なくて苦しくなってくるようで。
先輩に直接言ったことはなかったけれど、私は本当にあの絵が好きだったのだ。描いた本人にあの絵を否定されたら、私は身を切られるようにつらい。
「才能がないなんて、言わないで下さい」
「だって、写真みたいな絵なら、写真を撮ればいいだろう」
先輩は肩をすくめた。
「シャッターを押せば、一瞬だよ。いや、カメラだって奥が深いんだろうし、オレがこんな風に言うのはおこがましいのかもしれないけど」
「それは違います。上手く言えないですけど。絶対、先輩が描いた絵は、すごくいいです」
「……ありがとう」
先輩は私の剣幕に押されたように礼を言ったけれど、そのまま、手すりに手をついて、夜空を見上げた。
「オレは諸富がうらやましいんだ。いいって思ったものはいいって言えるし、他の人に見えない夜空の赤が見えても、ちゃんと、それを自分の中で抱えて、他の人に伝えられる形で出せる。オレには、自信を持って自分の中から差し出せるものって、何もなかったんだよね」
「だって、先輩、勉強すごいできるじゃないですか」
その上、いい絵も描く。私は内心でそっと付け足した。
「勉強なんて。オレは必死で頑張ってあの位置だけど、トップスリーの奴らなんて、オレの半分の勉強時間でそんなの軽々越えて、もう次のことしてる。高校来て、そんなことの連続。オレは小器用なだけで、特別な才能なんてないって痛切にわかっちゃってさ。でも、うちの高校の特進なんて言ったら、親とかは絶対期待するんだよな」
私は控えめにうなずいた。歴史の古い、いわゆる地元の名門校なのだ。
「うち、伯父が医者なんだよ。さっき話した従兄の兄貴も医学部。親父が伯父貴に妙な対抗心持ってるんだ。大学受験で、兄は医学部に受かったのに自分は落ちたってこと、ずっと気にしてて、オレに、絶対兄貴よりいい大学に行けって酒を飲むとよく言ってたんだよ。自分の兄である伯父貴のことなのか、オレが兄貴って呼んでる従兄のことを言ってるのかもわかんないくらい酔っぱらってるような、悪い酒の日。そういうのが本当に嫌で、でも、じゃあ自分が何をしたいかとかって、全然わかんなくて」
「……はい」
安易にわかるとは言えない。けれどなぜか、あの絵が強烈に脳裏に浮かんで、私は、もう一度うなずいた。
「だから、塾辞めるって言ったら、マジで締め上げられるかと思うくらい怒られた。でも、うちのクラスで本当にちゃんと勉強やってて結果出てるやつって、塾には行ってないんだよ。自分で参考書選んだり、せいぜい、通信教材をとるくらいで、あとは放課後残って、周りの得意なやつに聞いたり、先生に聞いたりして勉強してるんだよな。つまり、オレは塾に行ってることだけで満足してて、本気で自分で自分の面倒みる覚悟がなかったんだなって思って」
「怒られたけど、辞めたんですね」
「うん。ついでに、ずっと医学部志望ってことになってたけど、文転した」
「……マジですか!? それは、お父さん、びっくりなさったでしょう」
理系から文系への転向。塾を辞めたことより数倍大きな決断だ。ついで、なんて言葉じゃすまない。大騒動になるんじゃないか。
「うん。殴られる寸前。でも、オレも引かなかった。興味持てないのに医学部なんて行っても、ドロップアウトするだけだ。それより、オレはもっと世の中のことがちゃんと知りたいし、そのうえで、自分がやりたいことを探したい」
「先輩こそ、自分の中の決断がちゃんとあるし、それを他の人に伝えているじゃないですか」
きっと、先輩はすごくお父さんのことが大事なのだ。期待を裏切るのが辛いのだ。悩んでいるのは、本当の意味でお父さんを思っているからだ。
本に読まれて本に溺れている私なんかより、よほどちゃんと考えている。さっきからずっと胸につかえているかたまりが大きくなって、私は泣きたくなった。
「諸富は優しいね。ダメだよ、誰にでもこんな風に接してたら、すぐ勘違いされるから」
「誰にでもなんて、言いません」
私はつんと顔を背けた。絶対、今日の私はおかしい。コーヒーのせいだ。
「じゃあ言うけど」
先輩の声に、ぴりっとした色が混ざった。
「こんなところに二人で来て、オレが今日、諸富を誘ったのは下心があったからって言ったらどうする? これ、冗談とか、もしもじゃなく言うんだけど、オレは諸富が好きだ」
「……へ? え?」
人間、あまりに自分の予想の範疇にない言葉を投げかけられると、情報処理が完全に止まってしまうらしい。
私は頭が真っ白になった。
今、本当に言った? どうするの。何か言わなくちゃ。気ばかりが急いて、空回りする。
先輩は少し困ったように言った。
「……ごめん。こんな風に言って、困らせるつもりじゃなかった。下心って言うか、本当に一緒にご飯食べたかっただけなんだけど、諸富がぽやんとしてて、他の誰かの前でこんなことして危ない目に遭ったらって思ったら、急にたまんなくなって。変なこと言ってごめん」
ためらうように一度言葉を切ったけれど、彼は私をまっすぐ見て、続けた。
「でも、嘘じゃない」
私はぎゅっと目をつぶって考えた。考えるより先に見えていた結論を棚に上げて、何かふさわしい言葉を探したけれど、結局私の中にはそれしかなかった。
その言葉を棚から降ろして、私は大事なものをそっと差し出すように、あまりに素朴なそれを返したのだった。
「……あの、私も、小木曽先輩が好きです」
先輩みたいに頭が切れて、いつも飄々とした人でも、あまりに予想の範疇にない言葉を返されると、情報処理が追いつかなくて真っ白になってしまうのだそうだ。これは、後で聞いた話だけれど。
たっぷり三十秒、ぽかんと私を見つめた先輩が次に言った一言は、あまりに失礼だけどあまりに本音で、私は今思い出しても笑ってしまう。
「本当に? オレと同じ意味で言ってる? 本が好きです、かき氷が好きです、と同じ意味で言ってない?」
「そんなわけないじゃないですか! ちゃんと好きです!」
こんな気持ちは初めてなのに、それでも私はちゃんとそれを確信できた。不思議だけど、きっとこれが、誰かを好きになるってことなんだろう。
「ええと、じゃあ」
先輩はちょっと照れくさそうに、私に右手を差し出した。
「手を繋いでも平気? そういう好き?」
私は黙って、その手をとった。本当は心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張していたけれど、ここでためらったりしたら、私の気持ちはちゃんと伝わらない気がした。
初めて触れた先輩の手は、少しだけひんやりしていた。
目を合わせたら恥ずかしくて何も言えなくなりそうだったので、夜空を見上げた。
「あ、ほら、天の川がきれいですよ」
◇
お付き合いしたせいで受験に失敗したなんて絶対に言わせない、と、先輩はものすごくがんばって、第一志望の法学部に受かってみせた。どちらかというとふわふわと焦点が定まらないタイプの私も、何とか無事に、先輩が進学した大学の近くで、自分の興味にあった大学を見つけて進学できた。
目の前のグラスで、溶けた氷が自然に動いて、からん、と小さな音を立てる。
いつの間にか、ブラックで飲むようになっていたコーヒーは、あの日の夜空みたいだ。グラスの表面に浮かんだ水滴が、窓から斜めに差し込む日差しにきらきら光って、星のように見える。
「薫」
目の前の席に滑り込んで、名を呼ぶ人に、私は見つめていた小さな天の川から視線をあげた。
「一さん」
多分私の顔に浮かんでいた笑顔と同じように、彼も笑顔になる。諸富、小木曽先輩、と呼びあっていた高校時代と何も変わらない、楽しそうで屈託のない笑顔だ。
「ずいぶん長いこと、ぽやんとしてたね。何を考えてたの?」
「アイスコーヒーの中毒性について、です」
真面目くさった私の回答に、彼の顔に浮かんでいた笑みが大きくなった。
お読みいただき、ありがとうございました。
小木曽先輩が主人公の作品「地上一センチの天使」も投稿しています。
ご興味があれば、お手に取っていただければ幸いです。