4 水墨画と本の虫
闇夜の空みたいだったグラスの中が、向こうを見通せない淡い色に変わっていく。
「きれい」
呟くと、先輩は少し首を傾げた。
「諸富だったら、この色を何に例える? カフェオレの色」
「うーん。月並みですけど、台風の大雨の後、晴れてきた夜空にちぎれて少し残っている雨雲ですかね。月の光が照らしている色。風がまだあって、かなりの速さでごうごう流れていくときの」
先輩は大きくうなずいて言った。
「すごくわかる。わかるけど、諸富。それ全然、月並みじゃない」
「そうですか?」
「いいよなあ。色彩感覚のある人。オレは全然。失敗が怖くて、服もモノトーンしか選べない。休みの日だって、今着てるのと大差ないよ。一人で水墨画みたいな格好してる」
一人で水墨画。言わんとするところがよくわかって、失礼だとは思いつつ吹き出してしまった。
「色彩感覚なんて、初めて言われました」
「みんなちゃんと見てないんだよな」
先輩は腕組みをする。ちゃんと見てないって何だろう。
それで、ふと思い出した。
「私が読んでる本って、何ですか。さっき何か言いかけましたよね」
先輩は、うっ、と言葉に詰まった。珍しい。いつも、柳に風で飄々としているのに。
今日は、初めての先輩の顔を幾つも見ている気がする。自分が先輩の前でこんなに色々話せているのだって、初めてだ。
そう思った瞬間に、胸のあたりにつかえているものが、ぐっと大きくなった気がして、私は何気ないふりでコーヒーをまた一口飲んだ。
先輩はちょっと目をそらして、ぼそぼそと言った。
「聞かれたから言うけど、引くなよ。っていうかオレが諸富の立場だったら引くかもしれない。先に謝っておく」
「何なんですか、いったい」
「いや、すごく色んな本、読んでるだろ。この前は、カンブリア爆発の本読んでたし、その前は、レンガみたいに分厚い推理小説読んでた。先月は、パンダの親指の進化論の本。イタリア文学者のエッセイ、フロイトやユング、比較人類学とか、深海探査とか。かと思えば、詰碁の本。小説は国内作家、児童文学、海外作家なんでもござれ」
「……よく覚えてますね」
美術室でも、友達と帰りのバスを待つときにも、読んでいる本の続きが気になっていると止められないのが私の悪癖の一つだった。そうしていても、他の子の会話にはついて行ける。はじめは驚かれたけれど、そのうち、友人たちも慣れて気にしなくなった。もちろん、すごく失礼な態度だとわかっているから、よほど気心が知れた友人相手にしかそんなことはしないのだけれど、我慢するのもかなりのストレスなのだ。
そんな現場を見つけるたびに小木曽先輩はからかって、『また読んでる。今度は何』と、私の手元を覗き込んでくるのが常だった。ごくたまに共通の本を読んでいたりすると、感想を言ってくれることもある。でも、私が読んでいる本が何なのか、本当に興味を持っているとは、今の今まで思ってもみなかった。
「こんないちいち覚えてるなんて、引くだろ。でも、気になって」
「引きはしませんけど、でも、なぜ?」
「いや、あれだけ、勉強と関係ない本読んでたら、普通成績落ちるだろう。でも、全然そんなことなさそうで、安定してる。何より、受験ってある程度もう枠組みがあって、やることが系統立てて示されてるじゃん。でも、それをいったん置いて、自分の意思と興味で本を選んでるのがわかったから、すごいなって。だからさっき、諸富のほうが賢いって言ったんだよ」
私は呆気にとられた。何だろう。すごく買い被られている気がする。
「私が本を選んでるんじゃないです。本のほうが私を選ぶんですよ。図書館とか、書店とかで。読んで、って念を感じちゃって、逆らえないだけなんです。母からは、意志が弱いっていつも叱られます。それじゃ、薫が本を読んでるんじゃなくて、本が薫を読んでる状態だよって」
先輩は困ったような笑顔で、ため息をついた。
「これだもんなあ。その感性、さすが諸富」
そうか。先輩が私にちょっかいを出してきていたのは、私が本の虫なのが珍しくて、好奇心を刺激されたからだったのか。
なんとなく腑に落ちて、私は残ったコーヒーを飲み干した。
大人ぶって少しだけしかミルクとガムシロップを入れなかったコーヒーは、最後までほろ苦かった。でもやっぱり香りがよくて、苦いとわかっているのに次の一口が止められなくなる。これを知ってしまったら、後には戻れない気がした。
◇
お会計の前に、『自分の分は払います』と言ってはみたものの、先輩に『いいからいいから』とあっさり押し切られてしまった。
あまりレジの前で押し問答して、優しそうな店主に迷惑をかけてもいけない。
その場ではいったん引いて、私は先輩の押さえてくれたドアをくぐって、外に出た。
足の裏がふわふわする。
靴の底が一センチだけ宙に浮かんで、地面を踏みしめていないような感覚。
動悸もいつもより少し速い。
本格的にカフェインが入っている飲み物が、こんなに不思議な感覚をもたらすなんて、知らなかった。
お酒の味は知らないけれど、酔っぱらうって、こんな感じなのかもしれない。
夏の夜の空気は、むわりと温かくて、強めの冷房で冷えた肩にはかえって心地よかった。
「先輩、やっぱり、奢っていただくわけにはいきません。先輩が稼いだお金じゃなくて、先輩のご両親が働いて、先輩が使うためにくださったお金なんでしょう」
アイスコーヒーのせいで、私はやはり少しおかしかったのだと思う。いつもだったら、絶対、一度押し切られた問答を蒸し返すなんてできない。
「確かにそうなんだけど。でも、どう使うかはオレに任されているから。夕方、諸富が絵を描く邪魔をしていたのは確かだし」
「じゃあ、食事より、絵を手伝ってくれませんか?」
心臓が喉のあたりでどきどきしていた。なぜ自分がこんな大胆なことを言っているのか、自分でもよくわからなかった。
「何? モデルとか?」
先輩がふざけて気取ったポーズをしてみせたので、私は笑った。
「違うんです。夜空をどう描くか迷ってて、天の川、見にいきたかったんですけど、夜はやっぱり怖いじゃないですか。だから、ちょっとだけ一緒に行ってほしいんです」
先輩はまぶしそうに目を細めて言った。
「あの、強烈な赤で下塗りされていた窓って、夜空の予定だったんだ。てっきり夕焼けを描くのかと思ってた。……もちろんお安い御用だけど、場所の当てはあるの?」
私はうなずいた。
「高校の隣の城跡公園。天守閣跡の展望広場です」