3 タマゴサンドとアイスコーヒー
「どうぞ」
いつの間にまたカウンターから出てきていたのか、口ひげの店主が私たちの前にサンドイッチの皿を並べた。紙のコースターを手品師のようにさっと二枚取り出して置き、氷の音が涼やかに響くグラスを乗せる。
私は、目の前に広がった光景に先輩の言いかけていた何かを忘れてしまった。
楕円のお皿の上に整然と並ぶ、三角形の山並み。タマゴサラダの淡い黄色と食パンの白、全粒粉パンの茶色が、規則正しいストライプを描いている。ところどころに薄く入った、ハムのピンクの層も魅力的だ。
先輩のカツサンドは四角形に切ってあった。こぼれそうなほどたっぷりのキャベツに肉厚のとんカツが挟まっている。私の方にまで、揚げたてのカツから甘い油の匂いが漂ってきていた。
「おいしそう」
思わずこぼれた一言に、先輩は笑って私を促した。
「食べよう」
私は小さく、いただきます、と呟いて食べ始めた。サンドイッチは、予想より遥かにタマゴの味が濃厚で、パンも香りがよくてしっとりしていて、食べたことがないくらいおいしかった。
私が思わず顔を上げて、
「このサンドイッチ、すごくおいしいです」
と言うと、だろ、と先輩は笑顔になった。
「ここのを食べてから、うちの母親、家で作ってくれないんだよ。サンドイッチって大変だろ。色んな材料ちょっとずつ揃えて、一つずつはさんで。それだけ苦労して作っても、一瞬で食べ終わられちゃうしここのほどおいしく出来ないし。なら、もう家でサンドイッチは作らなくてよくない? って、まさかのサンドイッチ卒業宣言」
私も笑った。
「でも、お母さんの気持ち、わかります。中学のとき、夏休みの宿題で、家族の昼ごはんを作ろうっていうのがあって」
サンドイッチかおにぎりを選んで、紅茶とサラダか味噌汁と浅漬けを添えて作り、家族の感想も聞いてレポートを書く課題だった。
「私、弟が二人いるんですけど、上の弟は、おにぎりだったら断然シャケなんです。下の弟はツナマヨ原理主義者。でも、シャケとツナマヨだと味が近すぎるでしょう。バランスをとろうと思って、父の好きな梅を加えたら、母の好きな昆布を無視するわけにはいかなくなって。四つも食べきれないから、一口おにぎりにして、家族五人分、二十個ですよ。もうすごい大変。慣れてないから、二時間もかかったんです」
「おにぎりやサンドイッチが簡単な食事って、食べる側の論理だよな」
先輩は笑い混じりのため息をついた。
「でもオレ、今の話聞いて何言ってるんだって言われそうだけど、諸富のおにぎり食べたくなった」
「……先輩、要するにお腹空いてるんでしょう。カツサンド、冷めないうちにどんどん食べましょうよ」
私は何気ないふりで自分のタマゴサンドに手を伸ばした。
もちろん、先輩が食べたくなったのはシャケやツナマヨや梅や昆布のおにぎりで、『私の』おにぎりって訳じゃない。
でも、早とちりな私の耳は変な風に先輩の言葉を拾って、裏切り者の私の頬は勝手に赤くなるのだ。耳まで熱い。この店の照明が少し暗いのはありがたかった。こんなのがばれたら、またからかわれる。
余計なしっぽをつかまれたくなくて、無言でタマゴサンドを口に運ぶ私につられたように、先輩も黙ってカツサンドをかじった。
私の食事は、先輩のペースに比べて、全然進まなかった。いつもならこんなにおいしいサンドイッチ、ペロリと平らげてしまうのに。一口がいつもの半分くらいしか開けられないせいだろうか。胸の辺りがぎゅっとして、飲み込んだパンがうまく降りていかないような気がするからだろうか。
救いを求めて、私は冷たい汗をかいているグラスをつかんで、ストローから一口、コーヒーを飲んだ。
「……うわあ!」
思わず、小さく叫んでしまった。
まず第一印象は、苦くて酸っぱい。とにかく濃い。でもその直後に、のどの奥から鼻に抜ける、少し焦げたような香ばしい匂い。口の中にどっと広がる香りと味が、一気に世界を塗り替えていくみたいな感覚。
胸がつかえたみたいな感覚のせいで、一口を小さくしていて、結果的に正解だった。いきなり沢山、口に含んでいたら、むせてしまったかも。
「どう?」
心配そうに、先輩が私をのぞきこむ。
「すごく濃いです。普段飲んでるのと全然違う」
少しだけ先輩の顔が曇って、私は自分の間違いに気がついた。
「びっくりしたけど、すごくおいしいです。今まで飲んでたのはコーヒーじゃなかったんだなって思うくらい、初めての味」
「おいしい? マスターはうるさいから、半分くらいは絶対ブラックで飲めって言うんだけど、ミルクやガムシロップ、入れていいんだからね」
先輩のかすかな眉間のしわが、ほっとしたように緩む。
「そんな意地悪、生意気な男子中学生にしか言いませんよ。お口に合う飲み方でどうぞ」
カウンターの向こうから、おかしそうに店主が口を挟んだ。
「何だよ、もう」
先輩はすねたように口をとがらせると、自分のアイスコーヒーを一口飲んだ。
「先輩はブラックなんですね」
「その意地悪おじさんのせいでね。コーヒーの味がわかるって言いたかったらブラックで飲めって」
「ね、生意気だったの、わかるでしょう」
笑い交じりに私に言う店主のほうが当然一枚上手だ。
私もつられて笑って、店主に会釈してから、お言葉に甘えて、ミルクとガムシロップを少しずつ加えた。