2 喫茶トロイメライ
小木曽先輩が机といすを運んできた時には、私は、絵に集中しているふりをして、そちらに視線をやらなかった。視界の端にちらりと映った、意外に骨太でしっかりした腕が、重い机といすを軽々と持っているのにはつい目を奪われかけたけれど、気づかれないように、すぐにキャンバスに注意を戻した。
先輩も、この時にはもう、無駄口を叩いたりはしなかった。少し離れた私の斜め後ろの壁際に机といすを設置すると、ほどなく、本のページをめくる音や、ノートに鉛筆を走らせる音しか聞こえなくなった。
そんな風にして、私は何とか絵に集中し、先輩は勉強を続けた。絵は思いのほかはかどった。どうしても納得が行かなかった、紫みがかった濃い青をベースにしていたポトスの葉の影に、補色のイエローオーカーをほんの少し潜ませたら、ずいぶんしっくりきたのだ。
この分なら、明日から主役の夜空に取り掛かれそうだった。
はっと気がつくと、最終下校時刻の六時までにあと十五分だと告げる、教頭先生の校内放送が響いていた。
またやってしまった。私の好きなことなんて、読書と絵を描くことくらいだけれど、この二つは、私から完全に時間感覚を奪ってしまう。
美術の屋島先生自身は結構遅くまで残業していく。けれど、やはり生徒には最終下校をきっちり守るよう、口を酸っぱくして言っていた。
私が慌てて道具を片付けていると、小木曽先輩も伸びをして立ち上がった。
「ここは片付けておくから。諸富はそのキャンバスと画材、戻しておいで」
「いえ、そんな」
「いいって。ほら、早くしないと、屋島先生の雷が落ちるよ。昇降口で待ってるから」
……いや、なんで小木曽先輩と一緒に帰ることになってるんだろう。
先輩は自分の机といすだけ片付けて、先に帰ってくれたらそれでいいのに。
けれど、内心のそんな言い分を上手く伝える模範解答が見つからなくて、私は無様に会釈すると、黙って道具とキャンバスを持って、逃げるようにその場を去った。
◇
もう、他の美術部員たちは全員帰った後だった。ギリギリだぞー、と屋島先生に毎度お馴染みの注意をもらいつつ、慌てて道具を片付けると、ロッカーに入れていた自分のバッグを持って私は急いで美術室を出た。
急いでいたのは、最終下校までに、昇降口を出るためだ。
きっと、言葉通りに昇降口で待っていてくれるであろう小木曽先輩を待たせたくない、とか、そういうことではない。断じて。
夕暮れに沈んだ昇降口で、先輩は壁に寄り掛かって単語帳をめくっていたが、私が声を掛ける前に、気配を察したようにさっと顔をあげた。机といすの礼を言う私に、そんなのいいって、と、ひらひらと手を振る。
「それより諸富、このまま帰るの?」
「他にどんな用が? もう、六時ですよ」
「いや、オレ、今日は家に帰っても家族みんな出かけてて、夕飯自分で買って帰るか、食べて帰るかしないといけないんだよ。よかったら、付き合わない?」
あまりの急展開に呆然として、脳がフリーズしてしまう。人付き合いがそんなに得意ではない私は、女の子たちと駄菓子屋のかき氷を食べて帰るのだって、初めての時は結構緊張した。なのに、最後のワンフレーズ。他意がないのはもちろんわかっているけれど、その一言は軽く暴力だ。
私が言葉に詰まっているのをいいことに、先輩はあっさり自分で結論をだした。
「諸富の場所、お邪魔したお詫びに奢るからさ。ついてきて」
◇
この辺で、高校生が気軽に食事できる場所なんて、駅前に一つだけあるファーストフード店くらいだ。当然そこに向かうものと思っていたのに、先輩の足はずんずんと商店街を進んでいく。
やがて、彼は一軒の喫茶店の前で立ち止まった。
昔ながらの、少し照明が薄暗い店だった。入り口ドアにはめこまれたガラスには、くすんだ金色で『自家焙煎・ネルドリップ 喫茶トロイメライ』と書かれていた。本格的で落ち着いていて、高校生同士が制服で入るには気後れしてしまいそうな雰囲気だ。
「どうぞ」
先輩は、ためらいなく重そうなドアを手前に引き開けると、それを押さえて私を通した。
「いらっしゃいませ」
低く応じる店主の声は落ち着き払っている。私は釣り込まれ、まるで異世界に迷い込んだように、おずおずと二歩店内に踏み込んだ。
「そちらのお席にどうぞ」
店主に指定された席に、さっと先輩が近づいて手前側の席を押さえ、私に奥の席に座るよう手で促した。
「先輩、慣れてますね」
動揺を押し隠そうとすると、また、無愛想になってしまう。
「まあね。時々来るから」
店主が魔法のようにカウンターから出てきていて、お冷や、おしぼり、メニューの三点セットをテーブルに並べてくれた。先輩は私のほうに、軽食のページを開いたメニューを向けた。
「ここのは食事もおいしいよ。何がいい?」
そう言われても、見当がつかない。
「おすすめはありますか?」
先輩はわたしとメニューを交互に見比べた。
「……タマゴサンドかな。オレはカツサンド頼むけど、諸富はそっちだと食べきれないと思う。あと、アイスコーヒー。時間遅いから無理しなくていいけど、飲めるんならここのは間違いない」
正直に言えば、コーヒーと銘打たれている飲み物で私が飲んだことがあったのは、パックに入って売られている甘いコーヒー牛乳か、クリームパウダーも砂糖も予め混ぜ込まれたインスタントだけだった。
けれど、こんな店にもコーヒーにも不馴れだというのはいかにも子どもっぽいようで、私は精一杯背伸びして応えた。
「じゃあ、タマゴサンドとアイスコーヒーにします」
堂々と落ち着いた態度で二人分のオーダーを済ませる先輩は、美術室で見る、男子同士でふざけてじゃれあっているいつもの先輩とはまるで別人のようだった。
「特進の三年生って、こんなとこに来るんですか」
「まさか。クラスの奴と帰りに遊んだりなんかしないよ。塾や家庭教師で、急いで帰らなきゃいけないやつのほうが多いだろ」
「じゃあ、まさか彼女さん」
「なわけないだろ。そもそもいないし」
語尾に被せる勢いで否定された。……いないのか。
「親とか、兄貴とかだよ」
腕を組んで、ちょっとそっぽを向いて言う。さっきまでの圧倒的に大人っぽく見えた様子が引っ込んで、ふてくされたような仕草に、私は思わず微笑んだ。
「あ、やっと笑った」
目ざとく見つけて、先輩も笑う。
「こういう店、苦手なのかと思って、オレすごい大失敗したんじゃないかとヒヤヒヤしてたんだ」
私はかぶりを振った。緊張していたのは見抜かれていたらしい。
「お兄さんがいらっしゃるんですか」
「ん? いや、一人っ子。兄貴は、近所に住んでる従兄。時々勉強見てもらってる」
「先輩の勉強見られるなんて、そのお兄さん、すごい勉強できるんですね」
先輩は軽く口角を上げた。
「それはオレの出来が悪そうだから言ってるの? 頭悪すぎて教えるのが難しそうってこと?」
今度は私がそっぽを向く番だった。逆の意味で言っていることをわかった上でからかっているのだ。たちが悪い。
「勉強って言うなら、諸富の方が賢いだろう」
ふと真顔に戻って先輩は言う。
「いやいや、先輩は適当ですよね。そんなこと全然ないですよ」
私はクラスでは半分より少し下。三十人の掲示名簿のボーダーライン上をいつもうろうろしている。まあどうせ、先輩は二年生の順位表なんて覚えていないに決まっている。
「だって、あれだけ美術部もちゃんとやってるだろ。いつも読んでる本だって」
言いさして、しまった、という顔で先輩は言葉を飲み込んだ。