1 苦手な先輩
あれは、アイスコーヒーのせいだったのだと、後になっても私は確信している。
高校二年生の夏のことである。
あの頃を思い出すと、真っ先に浮かんでくるのは、蝉時雨。グラウンドから響いてくる野球部の練習の声。
それから、油絵の具を溶くのに使う、テレピン油の匂い。
秋には県内の高校生展が開かれる。そこに出品する作品は、私が所属した美術部では油絵と決まっていた。個人活動では、一年間で最も大きい制作物となる。
油絵具は乾くのに日数がかかるため、彩色は夏休み中に終わらせるのが恒例のスケジュールだった。
美術室は、全員が絵を描けるほど広くはない。各自、キャンバスとイーゼルと画材、床に絵具汚れを残さないためのピクニックシートを抱えていって、校内の自分の気に入った場所で描く。帰るときに、描きかけの絵を美術室に戻しに行く。
だから、夏休みの美術室と人気のない校舎内には、いつもテレピン油の匂いが漂っていた。
私のお気に入りは、北校舎の一階、茶道室の前だった。
夏休みに校舎を使っているのは美術部と三年生の夏季補講だけだ。生徒昇降口から教室へのルートから一番離れたそこは、通りかかる人間もほとんどいない。グラウンドの喧騒からも建物一つ分距離を置いている。しんと静かで、時折風が吹き抜ける。私だけの、ちょっとした穴場スポット。
……の、はずだった。
◇
「いやあ、暑いねー」
飄々とした声で、イーゼルの向こうを覗くまでもなくそこにいる人物はわかっていた。なのに、つい、顔を出して確認してしまった。
ぱたぱたと手に持った参考書で顔を仰ぐ上級生。うう、やっぱりだ。
「小木曽先輩、もう引退でしょ。何で今日も来てるんですか」
「補講、うちのクラスだけ、午後までコマがあるんだよ。覚悟しとけよ、来年は諸富の番だぞ」
先輩は、十クラス中一クラスだけある特進科に在籍している。私はその一学年下で、やはり同じ特進科だ。
「もう終わったんですか。なら帰ればいいじゃないですか」
ついつい、ぶっきらぼうな口調で言い返した。この人の対人距離は妙に近いのだ。慣れない私はいつもどぎまぎしてしまう。
「うちに帰っても集中できないんだよね」
私の無愛想を一切意に介さない様子で、彼は私の隣の壁にもたれかかって、描きかけのキャンバスに視線をやった。
絵を見られると、ちょっと恥ずかしい。でも、恥ずかしいと思っていることを悟られるのはもっと恥ずかしい。
小木曽先輩はさほど熱心な部員ではなく、美術部にはこまめに顔は出すけれどあまり長居もしないタイプだった。見た目も爽やかで学業成績も優秀だったから、女の子たちの評判は悪くなかったけれど、先輩のほうでさりげなく部活に深入りするのは避けているような印象だった。
なのになぜか、先輩は、下級生の中で私だけは構い倒し、しょっちゅうちょっかいを出してきた。
特進科の二年が部内で私だけだったからだろう。
おかげで、部では、私は『クールな小木曽先輩の公式妹』ポジションという、謎の立ち位置を得ていた。それでずいぶん普通科の女の子たちと打ち解けたのだから、感謝すべきなのだろうけれど、この人は少し苦手だ。
私は無理矢理、意識をキャンバスに戻した。
窓辺に置いた観葉植物の絵だ。主役は、窓の外に広がる夜空のつもりだが、その部分は描きあぐねてまだ下地の赤を塗っただけだった。パレットに出したところだった、コバルトブルーと紫の絵具を合わせる。植木鉢の一番暗くなる部分に置いてみる。だめだ、まだ、明るすぎる。
「いいね。諸富らしい」
先輩はお世辞でもなく気負った様子もなく、すとんとそう言って、重そうなバッグを床に下ろした。
私らしいって何だろう。先輩に見える私ってどんなんだろう。
反射的に浮かんだ疑問に、落ち着かない気分になった。その問いを言葉にする代わりに、私はパレットにプルシャンブルーの絵具を絞りだした。
「伊藤や浅野は?」
「あの子たち、野球部のファンなんです」
私は、すぐそこに見えている渡り廊下の向こう、南校舎を指さした。
進学校のここで、甲子園を本気で目指している野球部だけは特別な存在だ。推薦もあって、受験のことはあまり気にせず練習に打ち込める環境が整っている。
「もうすぐ、県大会の準決勝ですよね。練習を一回たりとも見逃したくないって、グラウンドの見える廊下で描いてるはずです」
「諸富は行かないの」
「私は興味ありませんから。正直、ボールを打った後どちらの塁に向かって走るのが正解かすらわからない人間が見ていても、野球部に失礼ですし」
「失礼って、大袈裟だなあ」
先輩は妙に嬉しそうにくすくす笑った。
何か腹立つ。
こういうところだ。よくわからないところで笑ったり、嬉しそうだったり。
私はパレットの穴に絵筆を引っかけると、先輩に向き直った。
「だいたい、三年生が引退したのって、受験準備のためじゃないんですか」
「だよねー」
先輩は他人事のように言って、目にかかりそうな自分の前髪をつまむ。
まっすぐで、少し伸ばした前髪を、軽く分けているのがいつもの先輩のスタイルだ。男子の制服は今時珍しく、冬は学ラン、夏は白いカッターシャツに真っ黒のスラックス。戦前の男子校時代から変わっていないのではないかと噂されている。いつもかけているシンプルな銀縁眼鏡と相まって、先輩は、文豪の小説から抜け出してきたエリート学生さんのような知的なたたずまいだった。黙っていれば、だが。
私を楽しそうに構っているときの先輩は、正直、おちゃらけていて、意地悪で、何を考えているのかわからない。何を考えているかわからないけれど、とにかく、私の中に何かを放り込んでくる。心の奥底で、普段は意識しないもやもやが水底の泥みたいに沸き立ってざわざわして、収まるのに時間がかかる。だから、苦手だ。
困っているときはさりげなく助けてくれたりもするから、よけいわからない。
「なら、こんなところで油を売っていないで、冷房の効いている塾にでも行ったらどうですか。自習室あるでしょう」
「塾なんか行ってないよ。辞めた」
「マジですか。去年は行ってましたよね?」
愕然として私は問い返した。高三で進学塾を辞めたって、どういうことだ。
「行き帰りの時間が無駄だから。うちと方向が反対なんだ」
惰性で行っていたけれど、去年の終わりで切った、と、軽い調子で言う。
「受験生が、高校二年まで行ってた塾をそんな理由で?」
「悪いか」
言われて、ふと考え込んだ。
「いえ。先輩は成績を落としていないんだから、正解ですかね」
確かに、先輩の通っていた塾は少し遠い。高校の最寄り駅を起点にざっくり見積もっても、タイムロスは行き帰りで一時間半。その時間と体力を自学自習で有効活用できて結果につなげられるなら、塾は辞めた方が合理的か。
「オレの成績、知ってんの」
思わず、という感じで、頬が緩んだ先輩のちょっといたずらっぽい笑顔にどきっとする。
だから、この人、苦手なんだ。
不意打ちで笑うな。
「うちの教室、進路指導室の前を通らないと昇降口に行けないんです。去年は先輩が使ってたんだから、ご存じでしょう」
定期テストの後、進路指導室前の掲示板に、各学年総合三十位までの氏名が貼りだされる。
先輩は私が入学してからの一年余り、一度も、リストから落ちたことがない。ここ半年は、ずっと十五位以内だ。
貼りだされるたびに、『小木曽一』の四文字はいつも向こうから私の目に飛び込んでくる。だから知っている。本当にそれだけ。
「何にせよ、勉強はしないといけないんでしょう」
「うん、だから、環境のいいところを求めて。家は交差点が近いからうるさいんだ」
先輩は足元のバッグをちょいとつま先で小突いてみせた。
「それでなんで、ここでバッグ下ろすんですか。図書室でも三年の特進科教室でもいいでしょうに」
「今日はやけに混んでてさ。それに、諸富が一番、校内で居心地のいい場所を知ってるんだもん。去年気がついたんだけどね。この廊下、穴場だね」
「エアコンどころか、机もいすもないですよ」
「諸富が使っているそれは?」
「さっき通りかかった茶道部顧問の桑原先生が、十月に廃棄予定ですぐ先のピロティに積んであったものを、毎日ちゃんと元の場所に戻すんなら、夏休みの間中使っていい、と言ってくれたんです」
道具は床に置いて、立って描くつもりだったのだが、確かに、机といすはあればありがたい。先生のご厚意に甘えて、早速借りてきたものだ。
「あ、じゃあ、オレもそこから借りてこよう」
しまった。敵に塩を送ってしまった。
私の顔にそんな表情が露骨に出てしまったのか、小木曽先輩は、また、実に楽しそうに笑った。