1-8:転職
平塚英人は、ごく最近 30 歳になった、しがない派遣 IT エンジニアだった。
その日の早朝は、遅れに遅れていたシステム開発が、納期にぎりぎり間に合ったところだった。始発で一度自宅に帰って、風呂にでも入りたいなあ、少しは寝てる時間があるかなあ、などと考えつつ、オフィス最寄りのコンビニ「サンクS」に立ち寄った。
「あぁ、いい加減転職したいな。」
彼の会社は、絵にかいたようなブラック企業だった。最近は IT 企業もホワイト化が進んでいると聞く。しかし、彼の会社は少しもホワイトになる気配がなかった。
20歳台前半のころは、体力にまかせて徹夜の仕事も乗り越えることができた。しかし、30歳に近づくにつれ、体の無理がきかなくなっていることを痛感している。このまま激務を続けていたら、いつか倒れる日が来るだろう。
倒れても、会社は助けてくれない。むしろ、すぐクビになるに違いない。実際、会社からいつのまにか姿が見えなくなった、30歳代、40歳代の社員が何人もいた。
会社に期待できなければ、転職するしかない。
「でもなあ・・・。」
彼は、転職活動をすることに躊躇いがあった。
昔から、彼は口をひらくと、何故か周囲に引かれることが多かったからだ。
親に言わせると、英人は、
「ズレてる」
「滑り魔」
「空気読まない奴」
なのだそうだ。
英人は、自分では自覚がないのだが、どうやら自分の考えや価値観は、周囲とずれがあるらしい。
正直に自分の考えていることを素直に口にするたびに、周囲に引かれたり、冷笑されたり、無視されることを繰り返してきた。
そうした経験を繰り返した結果、いつしか
「自分は周囲とずれている」
「口を開くと笑われるから、何も言わない」
「自分の考えは、できるだけ隠すべき」
という考えが、心の奥底にまで沁みついてしまっていた。
そんな英人は、面接が大の苦手だ。なにせ、自分のことを話さなければいけないのだから。
今の会社に入れたのも、奇跡のようなものだ。非常に人手不足だった時に、学校の先輩だった社員に強引に引っ張り込まれたので、面接らしい面接もなく入ることができた。そんな事でもなければ、彼は会社に入ることもできなかっただろう。
今の会社でも、事務的な会話以外は極力しないようにしている。少しでも個人的なことを話せば、笑われるかもしれないとい恐れがいつもあったからだ。幸い、彼の会社は飲み会の類もなく、社員の入れ替わりも早かったため、人とプライベートな会話をする機会はほとんどなかった。
「あー、面接なしで転職できないかなあ。」
英人は、眠い目をこすりながら、そんな都合の良いことを考えつつ、コンビニ「サンクS」を出た。
その時だった。
・・・お願いです。勇者様。
耳元で若い女性の声がした、ような気がした。
「え?」
おどろいて、英人は目をあけ、周囲を見回す。
誰の人影もない。
・・・気のせいか?
「勇者様、お願いです。わたくしたちの世界に来て、魔王を倒してください。」
今度は、声がはっきりと聞こえた。まるでヘッドフォンでもしているかのように、英人の頭に中に声が直接響く。
それは、若い女性の声だった。おそらくは、少女といってもいいほどには、若い女性だ。
「勇者召喚・・・だと!?」
英人の心がざわつく。
異世界への勇者召喚といえば、アニメでもメジャーな題材のひとつだ。英人も10代のころは異世界召喚の漫画やアニメに夢中になったことがある。
中でも、二ホンから召喚された勇者が、二ホンと根本的に価値観が異なる召喚主の美少女とぶつかり合いながらも、次第に仲良くなっていくという話に心惹かれた覚えがある。タイトルは確か「ゼロの勇者」だったかな・・・?
しかし、唐突に英人は思考をやめた。
好きなアニメの話をすると、決まって周囲に冷笑されたことを思い出したからだ。
彼の地方では、アニメは子供かオタクの見るものとされていた。そして、その地方ではオタクとはすなわち「人間のクズ」だった。アニメが好きだと公言するなど、自分から恥をさらすようなものだったのだ。
彼は長年、それに気が付かなかった。彼が、自分から恥をさらすこと自体を、周囲が面白がって、黙っていたからだ。それに気が付いたとき、彼は自分の考えを口に出すことを辞めた。
・・・どうせまた、誰かが俺を笑うために、悪戯してるんだろ?
英人は昔のことを思い出し、何もかも忘れようとして頭を振った。
「勇者様!お願いします!」
しかし、少女の声で、英人は追憶から現実に引き戻された。
「え、マジなのか?」
トラウマを抱える英人ではあったが、切実な少女の声を聞いて、つい声を出してしまった。
「はい、あなたが必要なのです。」
即答された。
まさか返事が来るとは思っておらず、英人は一気に目が覚めた。
「からかわれてるんじゃ、ないよな?」
「からかってなど、おりません!」
少女の声は、本当に切羽詰まっているように感じられた。
英人は周囲を見回す。
相変わらず、早朝の都心のコンビニの周囲には誰もいない。やはり、声は頭の中に直接響いているようだ。
・・・勇者召喚、いいじゃないか。
その時、英人は、ふと思ってしまった。
ちょうど転職したいと思っていたところだ。どんなに腕のいい転職エージェントでも、勇者への転職は斡旋してくれないだろう。こんなヘッドハンティング、二度とないに違いない。
英人は、これまで心の内側に押し込めてきた何かが、唐突に込み上げてくるのを感じていた。
「ええと、どうすればいいんだ?」
「・・・っ!、勇者様、お願いを聞いていただけるのですか!?」
英人は繰り返す。
「はい。どうしたら良いか、教えてもらえますかね。」
「ありがとうございます!!」
少女の声は、感激に震えているようだった。
「それでは、勇者召喚に応じる旨を、声に出しておっしゃっていただけますか。」
少女の声が弾む。喜んでいることが、ありありと伺える。
・・・もしかして俺、本当に必要とされているのかもしれないな。
英人は、そう思い始めてしまっていた。
「それで、我が国と勇者様との召喚契約が成立します。」
少女の声が続く。
いつもの英人なら「では契約書を確認させて頂きまして、後日、不明点などについて担当からご連絡を・・・」とか言い出すところだ。
しかし、この時はすでに頭からネジが一本も二本も飛んでしまっていた。心のどこかで、これは現実ではない、過度の眠気と疲れが生んだ幻聴だと、油断していたのかもしれない。
英人は即答した。
「承知しました。勇者への転職、お願いします。」
「契約は成立しました!!」
少女の声が響く。
そうして、英人の姿はコンビニ「サンクS」の前から、音もなく消えたのだった。