とある四葉のメイド喫茶の天使の娘のラスト・ホワイトデー。
ともあれ、決して安売りはしない人気メイド喫茶のナンバーワン・ツーとなったことで、僕ら母子の経済状況は一気に好転していった。小学校三年生に進級する時、僕たちは都内のセキュリティ付きのマンションに引っ越した。天使の娘、つまり僕を店外で探し回る旦那様方が増え過ぎたためなのだという。僕の転校先はまもなく創立二百年という、カトリック系の名門お嬢様学校の初等科だった。もちろん、僕が通えるのだから、世間的にはお嬢様学校として知られてはいても、初等科は共学である。余りにも長く都民に御三家のお嬢様学校として親しまれてきたがために、御三家の中で唯一初等科を共学とした後も、御三家のお嬢様学校と呼ばれているのだ。もちろん、初等科に通うのも大多数がお嬢様である上に中等科と高等科は女子校である。ほぼお嬢様学校なのだから、呼び名の間違いは誤差の範囲内だ。
そんな淑女の園に、僕は、すりガラスの高級車で通学することとなった。お店の常連の旦那様方の目に僕の通学姿を入れさせないがためとのことだった。その頃には、きちんとした男の子になろうと考えはじめていた僕だったが、ナチュラルメイクなしでも遠目には女の子に見えてしまっていたらしい。
クラスでは、僕は二人きりの男子だった。9割近くの多数派である女子たちは、僕たちふたりをしばしば小ネタにした。ませた子たちは、既にティーンズ向けの乙女ラノベを何冊も読んでいた。僕たちふたりは、ラノベに登場する誰に似ている彼に似ていると何度も話しかけられた。はじめのうち、女子たちの中で、僕の性別は揺れていた。あのラノベのヒーローにちょっと似ている、このラノベのヒロインに似ているといった風に。
そのうち、某人気ティーンズ向けラノベの主人公である男装騎士姿が似合う姫様ヒロインが一番僕に似ている、というのが定説化してしまった。漫画化された後にアニメ化企画も進んでいたそのラノベは、保育園に通っていた頃から母が何度も読んでくれていたものだ。ヒロインの名セリフを僕が全て記憶していることは、女子たちには絶対に知られてはならない秘密だった。もちろん、製作中のアニメでは、ヒロインのライバルである悪役令嬢一派の一人の声優が母であることも。
そして何より、男装麗人姫様なヒロイン役には、『フォアリーブ・エンジェルス』の男装執事の美少女アヤコさんが一番お似合いなのだ。その時は、まさか、その2年半後に、まさしく男装麗人姫様なヒロインのコスプレ姿のアヤコさんが表紙を飾ったアニメ雑誌が母の元に送り届けられることになるとは思ってはいなかったが。
僕が御三家お嬢様学校の初等科に通ったのは3年半ほど。共学となった後も男女分け隔てなくお嬢様教育を施してくださるその学校を僕は何だかんだ言っても気に入っていたのだけれど、母の経済事情が僕の卒業まで通うことを困難にしたのだった。
僕が小学四年生になった頃、メイド喫茶の経営者である敦子さんの白血病が悪化した。二十一世紀の末となっても、悪性の白血病の治療は時として困難を極める。敦子さんの場合は、造血を行う背骨への腫瘍の骨転移が起きていた。絶え間ない疼痛を止めるための強い痛み止めによって、敦子さんは立って歩くことが困難にになった。敦子さんを慕っていた店のメイドさんたちも、メイド長の母と天使っ娘の僕も何度も敦子さんを見舞ったけれども、敦子さんの病状は好転しなかった。店が閉まった後に、メイドさんたちに作ってもらったカクテルを飲むことを楽しみにしていた敦子さんだったけれども、肝臓への腫瘍の転移が確認されてからは、主治医から飲酒を止められるようになってしまっていた。
そして、その年の終わりに、敦子さんは経営から退くことになった。メイドさんたちは母と僕は、店で、敦子さんを贈る企画を立てた。それは、『破滅フラグだらけの没落貴族令嬢でしたが名経営者になりましてよ。』という、懐かしの乙女ラノベの連続寸劇を店のみんなで演じること。没落貴族の令嬢に生まれ、貿易商を営む商家の主となる主人公役にアヤコさん(原作よりも男装シーン多し)。その商家の番頭役に、母。突っ込みどころが盛りだくさんの失敗を繰り返し、商家の経営を何度も危機に陥れるうっかりさんの役は、母にお似合いだった。店のメイドさんたちは、ふだんの店でのキャラクターになるべく合うように、主人公側と悪役令嬢側とに別けられて配役された。
難しい言い回しの多いラノベであり、セリフを覚え切るのは難しいよ、というメイドさんたちの意見を受けて、寸劇は主人公以外は、無言で演じられることとなった(収録時に言い間違えることが多い声優である母も自己申告によってセリフなしとなった)。代わりに僕が毎回のナレーターとなった。原作のセリフの多くを保育園時代には覚えてしまっていた僕はナレーションにあまり苦労することはなかった。けれども、中世風の数多くセリフが多い主人公役のアヤコさんは大変そうだった。それでも、敦子さんを慕うアヤコさんは必死になって毎回のセリフを覚えていった。
全12回講演一括の抽選制指定席販売となったため、寸劇はほぼ同じ顔触れの旦那様、お嬢様方を前に演じられた。店の毎週土曜夕方の新定番となった寸劇を演じるみんなの姿を、敦子さんは、車椅子姿で見守ってくれた。
春の桜が咲く頃のホワイトデーに寸劇が最終回を迎えた時も、敦子さんは参加してくれた。
最終回、商家の名経営者として慕われるようになっていた主人公を、病が蝕む。それでも商家の経営を養子の跡取りと番頭たちに引き継ぐまで、主人公は働き続ける。どうしても敦子さんと重ねてしまうストーリーである。無言で演じるメイドさんたちのほとんどがこらえきれずに演じている最中に涙を流してしまっていた。そして、それまで一度もセリフを言い間違えたりかんだりすることがなかったアヤコさんが、涙で何度もセリフを詰まらせた。
敦子さんの事情を知らない観客の旦那様、お嬢様方だったけれども、セリフに詰まるたびに温かい拍手を送ってくださった。主人公に感情移入しているためだろうか、目に涙を浮かばせ風の旦那様、お嬢様方も多かった。そんな中、僕は涙をこらえながらナレーションを続けた。
主人公が息を引き取って、寸劇はフィナーレを迎える。天に召される主人公を、皆が讃美歌と共にお見送りする。学校でも歌いなれている讃美歌だったけれども、皆の歌声に混じる涙声につられ僕も涙声になってしまい、思うように歌うことが全くできなかった。
讃美歌が終わり、手に召された主人公は、末席天使として転生する。満面の笑みと共に転生し、天使の微笑みを創造主に向けて浮かべる主人公を演じるのは、僕だ。アヤコさんやメイドさんたちが涙を流しながら、僕に末席天使コスをしてくれる中で、僕は涙を止めた。ラストの末席天使を演じ終えるまでは、けっして涙を流してはいけない。
全身全霊で末席天使となった僕は、ラストの「来世も楽しませていただきますわ」というセリフまでを満面の笑みで演じ終えた。
そして、アヤコさんが押す車椅子に乗った敦子さんが壇上に登場した。子供の目にもすっかり痩せ細ってしまっていた敦子さんは、僕を優しく抱きしめてくれた。僕は、もう一度、涙が止められなくなった。
それから、敦子さんは、「私はこの3月でメイド喫茶『フォアリーブ・エンジェルス』の経営から退くことになりましたが、これからもご贔屓のほどを宜しくお願い申し上げます、旦那様、お嬢様」といった挨拶をし、『このたび、この四葉の天使の娘も、末席天使として天に召されることになりました。まだまだ、若輩者のこの娘は、旦那様、お嬢様のご贔屓があれば、地上に戻ることがあるやもしれません。これからもこの娘を宜しくお願い申し上げます』と続けた。
最後に敦子さんと涙目の僕は、深々と旦那様とお嬢様に御礼を申し上げ、キャストのメイドさんたち全員が再登場すると、大きな拍手のもとで全12回の寸劇はエンディングを迎えた。
その後のお疲れ様会では、乾杯の後に没落令嬢の末席天使転生後の次回作の寸劇化が話題となった。今日だけはすっかり泣き虫だったアヤコさんは、ふだんの執事姿に着替えて登場するや、敦子さんに「次回作の寸劇シリーズも、ぜひともご覧あそばせ。」と没落令嬢風に挨拶をし、一礼をした。
その後のアヤコさんは妹扱いする僕に、次回作の主人公として、次回作のイントロをナレーションなさいとまたも涙目で命じた。その時のアヤコさんの涙目と、横で、涙を寸前で止めているらしい敦子さんの微笑みを、僕はたぶん一生忘れない。
そして、僕は次回作の『破滅フラグだらけの没落貴族令嬢でしたけれども、今は末席天使として世界経済を立て直してみせましてよ。』の冒頭部と第一章とを諳んじてみせた。第一章ではまだ、末席天使は世界恐慌に振り回されてるさなかだったけれども、聞き終えた敦子さんは「あら、まずは一回分くらいお得に聞いちゃったようね」と笑ってくれた。
それが、僕が最後に目にした敦子さんの笑顔だった。