夢のマリアーノ公国史
千間台駅からバイト先のある六本木駅までは、リニア化後のネオ・スカイツリー線で45分ほど。
指定席にくつろぐ僕は、こんな時には、と、学院の図書館で借りた本を開いた。
本の内容はルネッサンス以降の近世欧州史を、経済史の専門家が綴ってくださったもの。圧縮学習の選択科目では、僕はまだ日本経済史しか学んでいない。圧縮学習後の倦怠感もありふだんは学校でも家でもあまり本を開かない僕だったけれども、内容が頭にすらすらと入ってくるのは、日頃の圧縮学習を通じ脳が埋め込み慣れしてためだけではない。僕は、近世欧州史のかなりを夢の中で知ってしまっているのだ。
欧州史における近世は、ルネサンス期から絶対王政期に至る14世紀から18世紀頃を指す。僕の夢の一部はキリスト教徒の小国が乱立していた中央ヨーロッパから東ヨーロッパにかけての近世史に関するものだった。当時の中欧・東欧世界は、西のアナトリア半島に帝都を置いた異教の大帝国オスマン朝の強い影響下にある。時期にもよるが、過半数以上の国々がオスマン帝国に従属していた。経済史の立場からは、帝国とその周辺・亜周辺という構図から生じる交易関係や租税法、産業革命が起きる前後の各国の経済成長率などが記されることとなるが、その背景には数多くの戦史もある。
中世ヨーロッパにその名を轟かせた神殿騎士団の末裔などが幾度もオスマン朝に戦を挑んだ。だがキリスト教国の連合軍のほとんどはオスマン朝に屈することとなった。
戦いに敗れた国々は、賠償金の支払いのため、民にさらなる重税を課すこととなる。騎士団にも、民たちの恨み言は聞こえてくる。そして、オスマン朝の新たな属国となった国は、見目麗しい方の姫様や貴族の娘たちを、侍従の女たちと共に皇帝のハーレムに差し出すこととなった。姫様たちをアナトリア半島まで送り届ける任を追うこととなった騎士たちは、姫様たちをお見送りした後に、情けなさに涙した。
近世欧州史のそうした構図が変わり始めるのは、近世史の前半ではオスマン朝に唯一対抗しうる力を誇った、西の絶対王政国スペインの国力が低下した後のこと。衰えたスペインはイベリア半島の南部を再びオスマン朝に明け渡すこととなった。永らくスペインに庇護されてきた教皇たちも、全ヨーロッパがオスマン朝に呑み込まれ、キリスト教が潰えてしまうのではないかと恐れ震えあがったという。
しかし、スペインが弱体化したことは、キリスト教国を利することとなった。事実上、スペインの海となっていた北東大西洋を制したオランダやイギリスなどで自由の気風が高まり、商人たちが資本家となっていく産業革命が起きたのだった。産業革命の結果生みだされた新兵器を手にした騎士団は、オスマン朝配下の精兵たちと拮抗した戦いができるようになり、さらには勝利を納めることができるようになっていた。
幾度もの勝利の後、キリスト教各国は、教皇のとりなしの下、十九世紀はじめにウィーン永世条約を締結する。条約により、騎士団の精鋭たちは永世中立国スイスを建国し、以後、唯一教皇のみに忠義を尽くす。
ここからは、欧州の華々しい近代史が始まる。スイスの軍事的支援の下、各国はオスマン朝からの独立を次々と達成していく。そして、いくつもの立憲君主制国家が誕生し、貴族たちは徐々に資本家となっていく。貴族たちが設立した企業のうちいくつかは、二十一世紀末の今も、名門企業としてその名を轟かせている。
この歴史のほとんどを、僕は小学校のうちに脳裡に刻み込まれていた。数少ない違いは僕の脳に刻まれている歴史においては、精鋭騎士団たちは、永世中立公国マリアーノを建国したことと、教皇がスイスに渡るのではなくローマに渡ったことと、だった。
そして、僕の脳に刻み込まれている欧州の近現代史では、このマリアーノ公国が大きな役割を果たしている。
公国王の下、ローマ教皇に忠誠を誓う聖マリアーノ騎士団は二十世紀に入ってもその名を保つ。二十世紀の半ば、ヨーロッパ中を覆った狂信的なファシストが支配する国々に取り囲まれることとなったマリアーノ公国は、英米と共にファシスト筆頭国に宣戦を布告する。百五十年に及ぶ永世中立の誓いを自ら破棄したのは、ファシスト筆頭国が宣言したユダヤ教徒の強制収容と絶滅政策に対し、強く胸を痛められた公国王だった。北に山を超え出立した聖マリアーノ騎士団は、ファシスト国の戦車大隊と対峙する。
戦端を開いたのはファシスト筆頭国だった。重工業国ドイツで製造された最新鋭の戦車が一斉に火砲を放つ。だが、愛馬に跨った騎士たちのほとんどは、それを軽々と躱す。そして、、手にした機銃を放ち戦車の装甲を貫いていく。緒戦は聖マリアーノ騎士団の大勝だった。その後は、ファシスト筆頭国が繰り出す重爆撃機や長距離ロケット砲などを前に、騎士団は大きな犠牲を出すこととなる。しかし、英米連合の空軍がヨーロッパの制空権を抑えた後、騎士団は、ファシスト国の陸軍を幾度も打ち破っていった。
僕の夢の中で繰り広げられた激戦の果てに、小国ながら英米と共に、世界大戦の勝利国となったマリアーノ公国。しかし、聖マリアーノ騎士団は団員の8割を失うこととなった。ファシスト国の空爆にさらされることとなった公国の領民にも多大な犠牲が出た。領民と騎士たちを弔う日々を送る戦後の公国王は、退位を宣言すると共に公国領を廃するとの布告を行う。公国領は、英米と隣国スイスを中心に設立された国際平和連合の信託統治領となった。
マリアーノ公国の王族一家は、スイスとフランスを介し、モナコ王国を目指す。イタリア北方にあったマリアーノ公国からフランス、スイスを介して行われた王族たちの戦勝パレードは、王族によって行われた最も長距離に渡るパレードとしてギネスブックに登録されることとなった。パレードの資金は、聖マリアーノ騎士団の多大な犠牲を経て収容所から開放されたヨーロッパ中のユダヤ教徒が大部分を拠出している。しかし、その後のユダヤ教徒たちの目覚ましい経済的成功は、僕たちの世界と変わらない。
ヨーロッパを荒らしつくした戦争が終わった高揚感さめやらぬ中、パレードを熱烈に歓迎し沿道を埋め尽くした市民の歓声は、騎士団長にして王位継承権者主席のアニェーゼが手を振った時に一番大きくなった。パレードで王家ご用達の専用車に乗るアニェーゼは、マリアーノ公国の王女に代々引き継がれてきたティアラを鮮やかな赫髪に冠したプリンセス姿だった。
自身の弟と妹を含め団員の8割を失いながらも、なおヨーロッパの未来のために団長として戦い続けたアニェーゼの王女としての気高い姿に人々は歓声を上げて感涙した。
僕の脳の中の、このヨーロッパ史を視る者がいたとしたら、(なんぞ、このZ女チックな戦史は?)などと、思ってしまうことだろう。
僕の脳に、このZ女戦争的ヨーロッパ史が刻みこまれていったのは、圧縮学習をはじめてからのしばらくの後。この数年間、僕はこの手の夢を幾度も見てしまっている。
夢の中の、愛馬に跨った騎士がドイツ製の戦車を打ち破ることができる世界。
もちろん、既に僕らの世界にだってなかなかの肉体改造技術は多数ある。戦闘サイボーグと本当に仕合うつもりなのかは別にして、咲花は、永続強化系のマイクロマシンがいくつも身体に埋め込んでいるのだという(割り切りの早い咲花は、その手のチートにためらわないのだろう)。演舞会を結構楽しんでいるお嬢様3人組の方も、怪我の予防も兼ねて、即効型の身体強化を行っていると博士が言っていた(博士も、分けてもらったらしい)。だけれども、生身の身体が戦車の砲弾に耐えるようなことは、僕らの世界では不可能だ。
夢の中でメリーゴーランド化した高速回転脳は、僕らの世界を模倣して極端化して遊んでいるのかもしれない。夢のストーリーと並行して、そのストーリーが可能になるのはどのような条件の下でかを、別人格脳が列挙し始めるところを、僕は聞いている。
例えば、もし...だったら....、いや、もし...だったら....、逆に、もし...だったら....夢の中の幻想には、そうしたIFの連鎖もついて回っている。