一切の苦痛のない自殺ができるとして、あなたは自殺しますか?
失恋、成績不良、人間関係、貧困…そういった悩みから誰もが一度は死にたいと思ったことがあるだろう
でもおそらくこの文章を読んでいるということは読者は生きている。つまり死にたいと思っても死ねていない
なぜ人は死にたくても死ねないのだろうか
まあ当然といえば当然だが、その最大の理由は死には大きな苦痛を伴うからだ
ナイフもロープも練炭も、一切の苦痛を与えないわけではない
指先をちょっと切っただけでも痛いのに、それを生命の危機に至るまで活用するだなんて想像を絶する苦痛だろう
しかしもし自殺に一切の苦痛が伴わなくなったのだとしたら、読者は自殺するようになるのだろうか
(もちろん中には自殺する読者もいるだろうが、おそらくそれはマイノリティだ)
少し設定を付けて具体化しよう
今読者(自殺志願者と仮定する)はある部屋の中にいる。そこには1つの椅子と2つのボタンがある。読者は椅子に両手が動かせる程度に拘束されていて、左側のボタンを押すとその拘束は解除され、部屋から出ることができる。一方右側のボタンを押すと10分後に毒ガスが発生して、それから1分ほどすると一切の苦痛なく眠るように死ぬ
読者はまず右のボタンを押したとしよう。その時毒ガスが出るまでの10分の間で一体何が起こるだろうか?
つまりこの残酷な10分の間に読者は左側のボタンを押さないでいられるだろうか、ということだ
おそらくだが私は左側のボタンを押してしまうだろう。その理由を正確に言葉にするのは難しいが、おそらく死への後悔とかそういうもので心が埋め尽くされるからだ
もし毒ガスがすぐに出るのならば、つまり1分程度で死ぬならば10分の猶予期間がある場合に比べて後悔とかそういう気持ちは巨大化しにくいはず、つまり左側のボタンを押さない可能性が高まるだろう
たかだか10分で人間の思考は大きく変わる
冒頭でも書いたとおり、大抵の人間は死を望んだことが一度たりともないわけではない
誰もが他人には見えない苦痛を抱えていて、それによってときに人は本当に自殺してしまう
でももし自殺する前に「10分」があったのならば、どうなっていただろう?救われる命があるのではないだろうか
何もこれは自殺に限ったことではない。何かに怒髪天をついて我を忘れて相手を攻撃したり、インターネットで相手を中傷したりするような言葉を送りつけたり…そういう感情的な言動の前に「10分」があったのならば、きっと結果は変わるのではないだろうか
つまるところ私はこう言いたい
怒ったり、苦しんだり、悩んだり…そういう感情が大きく動いたときは、「10分」を置いてほしい
その「10分」の間理性を働かせて、本当に読者がやりたい行為を見極めてほしい