第24話:ある少年の回想〜紅花想歌
葬儀も滞りなく終わり屋敷がいつもの装いを取り戻したある日、僕は主のいなくなった部屋へと足を踏み入れた。
美也の部屋は静まりかえっていた。
美也が亡くなった後、何人かの女中の手を借りて部屋は片付けられさっぱりしてしまった。しかし母の願いでベッドやタンスや本棚など、美也の思い出が残る場所だけはまだそのままの状態で残っていた。
そっとベッドに座る。
ギギ…というスプリングの音を立ててマットが沈んだ。
僕はそこから部屋全体を見渡した。
大輪の薔薇の模様がいくつも施された華かな鏡台。その前に置かれたオルゴール式の小物入れ…
「あれは確か、僕が去年の美也の誕生日の時に贈った小物入れだ」
中には昨年の夏、美也と一緒に行った鎌倉の海で拾った貝殻が入っている。
美也が生まれてから最初で最後の家族旅行だった…
磨かれた瑠璃のように眩いばかりの紺青色に輝く海。
暑夏の鋭い日差しに照り返される白い砂浜。その砂浜にレースのついた日傘と花柄のワンピースを着て佇む美也。
彼女は海を見つめていると、突然何かを見つけたらしく僕の制止も聞かずに走りだした。
「美也危ないよ」
僕も慌てて美也の後を追う。すると彼女は波打ち際ではたと止まりしゃがみこんだ。
「お兄様、これは何ですの」
近づく僕に美也は桜色の欠片を差し出す。
「多分これは貝殻だよ」
僕はその桜色の破片を美也から受け取ると裏返して調べてみた。波に砕かれ形は崩れてしまっていたが、破線のような虹色の模様は、それが貝殻である事を物語っていた。
「貝殻って何ですの?」
美也が不思議そうに僕の顔を覗きこんできた。
そうだ。美也は知らない。貝殻という物を。
いつも屋敷に閉じ込められ、外出もしたことのない可愛そうな美也は屋敷以外の情報を何も知らない。それでも真面目で好奇心旺盛な彼女は、父や兄に本を強請ったり、僕に外界の話を聞くなりして、自分自身でもいろいろな情報を得ようとする。しかし実際にそれを見たりする事は皆無なのでそれがどういうものなのか解らない。
「貝殻っていうのは、貝の外側を覆っている固いものなんだよ」
美也に貝殻を返すと、僕は丁寧に説明する。
彼女は表にしたり裏に返したりして桜色の貝殻の破片を興味深そうに眺める。そして大方見つめ尽くすと、今度は太陽に翳した。
「わぁ…」
桜色の貝殻は、破線に入った模様の色も相まって万華鏡のように色々な輝きを放った。
「きれ‥い」
美也は嬉しそうに微笑むと貝殻を大切そうにポケットにしまう。
そして貝殻のおさまったポケットを見つめると再び破顔した。その様子を見て僕は思った。もっと美也を喜ばせたい、と。
「もっと立派な貝殻を探してきてあげるよ」
僕はそう言って波打ち際を歩き回った。
しかし見つかるものは欠けてしまった貝殻ばかり。
「御免よ。ちゃんとしたのを上げたかったんだけど」
残念そうに肩を落として美也の元へ戻る僕を見ると、彼女はもう一度洋服のポケットから貝殻を取り出した。
「一つで十分ですわ、お兄様」
美也は取り出した貝殻を僕にそおっと握らせる。
「一つしかないから、これは美也とお兄様二人の宝物です」
彼女は僕の瞳を真っ直ぐに見つめ微笑みながら言った。その彼女の優しい心に触れ、僕は美也に一つの事を約束した。
「じゃあ今度 僕がその宝物にふさわしい素敵な宝箱を贈ってあげるよ」
「本当ですか?」
美也は大きな瞳を貝殻と同じくらいにきらきらと輝かせ、僕の両手をしっかりと握りしめた…
「宝物‥か」
そっとベッドから立って鏡台まで行くと、僕は小さくて可愛らしい小物入を手に取った。
小物入れの蓋を開けると、オルゴールの優しい音色と共に小さな桜色の貝殻の破片が目に入った。
「やっぱりまだあったんだ…あれっ?」
貝殻の傍らにマッチ棒大の銀色に光るものを見つけた。どうやら何処かの鍵らしい。
「鍵?いったい何処の」
僕は鍵を手に取ると部屋中を見回す。
勝手に女の子の部屋を探索するのは日本男児として許されざる行為だ。しかし宝箱である小物入れの中に宝物の貝殻と一緒に入っていた鍵だ、恐らく余程大切な物を仕舞ってあるのに違いない。不謹慎ながら僕は美也が一体どんなものを大切にしていたのか知りたくなってしまった。
「多分この大きさだと引き出しか戸棚かな?」
僕は机の引き出しと戸棚を調べる。が鍵穴らしき場所はみつからない。
「おかしいなぁ、何処だろう」
嘆息した僕は諦めて小物入れに鍵を戻そうと鏡台まで戻ることにした。小物入れを取り上げながら何気なく鏡に目を移すと、中に映る本棚に目が留まった。
「まさか」
僕は本棚まで行くと、片っ端から調べてみた。
グリム童話やアンデルセン、花百科や絵画集、文芸書等色々な種類の本が整然と並べてある。美也の向学心には感服してしまう。
「あれ?」
海外の音楽家の楽譜が並べられている場所まで調べると、僕はある一点に目が留まった。そこにはやけにぶ厚い作曲家の名前が書かれていない楽譜が仕舞われていた。
「初めて見る楽譜だな?作曲家の名前も書いてないし」
不思議に思い楽譜を手に取る。その楽譜は見た目に比べて軽かった。
「?!」
手に取ったそれを見て、僕は唖然としてしまった。
見た目に比べ軽いのもその筈、それは楽譜ではなく本の形をした小物入れだったのだ。表紙に小さな鍵穴がついてる。鍵穴の大きさから見て、宝箱で見つけた銀の鍵の相棒はどうやらこの小物入れらしい。
僕は慎重に鍵を差し込むとゆっくりと回した。カチャリ、と静かに鍵が開く音がする。
蓋を持ち上げると、中には青い帳面が入っていた。
「これ…」
その帳面には見覚えがあった。以前美也がピアノを練習している時、突然現れた僕に驚いて急いで隠していたあの帳面だ。一瞬だったけど、見たことのない色をした帳面だったのではっきりと印象に残っている。
「どうしてこれが此処に?」
僕は帳面を取り出すと中を開いた。いったい何が書かれているのだろう…。
後ろの方からパラパラと帳面を捲る。帳面の中には沢山の音符が踊っていた。
「楽譜か…あっ!」
楽譜の一頁目を見て驚愕の声をあげる。
そこにはこの曲の題名と一つの歌が…
<紅花想歌>
紅のはつ花ぞめの 色深く 思いし心忘れめや
紅の初花染めの深い色のように
どんなに時が経っても 愛しい貴方を深く思ったこの心を
私は決して忘れはしない
この和歌は古の歌人が、想いの叶わぬ相手を一途に思い続け密かに詠んだ歌…
(美也は僕を…?)
突然胸が、今にも物凄い力で押しつぶされそうなくらいに苦しく痛くなって、顔が歪む。
息が出来なくなる。この切なくて心を締め付ける思いは何なのだろうか…?
じん、と目頭が熱くなり後から後から止め処も無く大粒の涙が溢れだして美也の楽譜に淡い染みを作っていく。
(美也…)
優しく微笑みかける美也
演奏会で見せた凛とした姿の美也
夢を語った強い意志を持った瞳の美也
美也…美也…美也…
頭の中に幾つもの美也が姿を現しては消えていく。
いつまでも傍にいて欲しいと願った。そしていつまでも僕が守ると誓った…。
たった一人の大切な妹。
僕は美也の楽譜を両手で力の限りに抱きしめた。まるでそこに愛しい美也がいるかのように。
紅花想歌
僕はこの歌をいつまでも大切にするよ。愛しい美也が僕に贈った最初で最後のこの歌を…