第23話:ある少年の回想〜儚い夢
BGMはショパンの<ノクターン>と<別れの曲>でお楽しみ下さい。
<秋の演奏会>は盛大に行われる。
お客として招待されるのは、父や兄と交流が深い公爵や伯爵、男爵など爵位を持った上流階級の者達が多く、彼らはこの演奏会へ招待される時には燕尾服にシルクハット、豪奢なドレスや着物等を身に纏ってまるで宮中の舞踏会さながらに着飾ってくる。
その中には明らかに、父や兄の仕事に取り入ろうとするハイエナのような輩もいたので、僕は彼らをあまり好いてはいなかった。
外の世界が漆黒の闇に閉ざされ、天空に蒼く大きな満月が輝く頃になると空気も一層冷え込み、いよいよ演奏会も終盤を迎えるところとなった。
僕のバイオリンの演奏が終わり、いよいよ美也のピアノ。
美也が来客者の前に丁寧に立って挨拶すると、観客席から拍手が贈られた。
照れたように下を向きながらピアノの椅子に座る美也。
少し様子がおかしい。
(美也、どうしたんだ?)
美也は椅子に座ったきり動かない。
不思議に感じた客席からも声が囁かれ始めた。
(美也!?)
観客席で見ていた僕が心配になって席を立とうとしたその時、彼女は膝に置いていた右手をゆっくりと顔の前に持ってきて、僕の部屋でしたように手に書いた文字を飲み込む仕草を見せた。
(美也)
ただ緊張していただけだと気付いて安心する。
観客席からクスクス、と嘲笑が聞こえてきた。
(美也、負けるな!頑張れ!)
僕は美也を嘲笑った奴らを睨みながら、心の中で彼女にエールを送る。
どうやらおまじないの効力があったようで、美也は静かに陶器のように白く美しい指を鍵盤に乗せると、ゆっくりと落ち着いた様子でピアノを弾き始めた。
穏やかで滑らかな優しい旋律が会場に響き渡る。
8分の12拍子。
始終右手は装飾音で飾られている旋律を奏で、左手は同じリズムの旋律が繰り返される。
再現される度に装飾的に変奏されるこのリズムは、フレデリック・ショパンの〈夜想曲第2番 ノクターン〉にも良く似ている。
どこかもの悲しい秋の夜長に似つかわしい協奏曲だ。
美也の素晴らしい演奏に、先程まで嘲笑が聞こえて来ていた客席が静まりかえる。
誰もが彼女の姿に魅入り、音楽に心を奪われていた。
(いつのまに、こんな感情的にピアノを奏でられるようになったのだろう)
僕は流れてくる音色に耳を澄ませながら、彼女の成長に驚きを隠せないでいた。
美也の演奏が終わる。
彼女は安心したように、鍵盤から指を外した。
会場が割れんばかりの拍手の渦に飲み込まれる。
美也が驚いて客席を見ると、そこには席を立ち顔を酒に酔ったかのように紅潮させ
、興奮状態で自分に拍手を贈る紳士淑女の姿が目に写った。
美也は何が起こってしまったのか意味が解らないまま観客に向かって挨拶をした。
すると今以上に盛大な拍手が心地よく美也の細くて小さな体を包む。
音楽部屋の大きく立派な灯り。西洋式の暖炉の中の暖かい光、そして窓から見える蒼く丸い月…
その全てがまるで自分を祝福してくれているかのように感じる。
この心が高揚していく感覚は何だろう…
いつも一人ぼっちで寂しかった自分。大好きな兄の足手纏いになってしまう役立たずな自分。そんな自分を認めて貰えた満たされた気持ち…
‐―私は生きていてもいいんだ―‐
美也の瑠璃のように少し蒼みがかった大きく澄んだ瞳に雫が溜まる。
客席を見渡すと、涼やかで端正な顔立ちをしている大好きな高宣の笑顔をみつけた。
彼の細く長い瞳は美也を温かく見守ってくれていた。
◇◇◇
演奏会が終わり僕が部屋へ戻ってくると、誰かがドアを叩いた。
持っていたバイオリンをケースに片付けてからドアを開けると、突然美也が僕に抱きついてきた。
ドアをノックしないなんて、どんな時にも礼儀作法をしっかりと守る彼女にしては珍しい。
少し顔を赤らめて興奮しているらしい美也は、蒼みがかかった美しい瞳に涙を一杯溜めて僕にこう言った。
「お兄様!美也はいつまでも沢山のお客様の中で光を浴びていたい!」
と。
僕は彼女の心の奥を探ろうとして、涙に潤んだ瞳を見据える。
美也の潤んだ瞳は、今まで見たことがないほど美しい光を放って輝き、強い意志に彩られていた。
‐―美也は自分の居場所を見つけたんだね―‐
僕は直ぐにそう感じた。
彼女の瞳は希望に満ちている…
僕は美也を抱き上げると、力強く抱きしめた。
そして心に誓う。
―‐僕が美也の夢をかなえてあげるよ 必ず―‐
僕は華奢な彼女の背中が折れてしまいそうな程強く、美也を抱きしめていた。
◇◇◇
それから間もない 木枯らしの吹きすさぶ寒い冬の夜、美也は倒れた。
部屋の窓硝子を叩きつけるような風の音で、僕は目が覚めた。
周りはまだ暗い。
もう一度眠りにつこうと目蓋を閉じるが、轟々と吹き荒れる風の音がうるさくて一向に眠れなかった。
僕はベッドから出ると、窓際へ立ってカーテンから外を覗く。
窓から見える庭の禿げた木々が枝が折れんばかりに揺れている。
「凄い風だな」
そして何気なく下へと目を移す。
と、そこには屋敷の入口にある明かりに照らされて、一台の馬車が停まっていた。
薄明かりではっきりと確認することは出来ないが、馬車から人が出てきたようだ。
その人影は、反対側から出てきたもう一つの人影に急かされるように屋敷の中へ連れて行かれた。
「どうしたんだろう?」
僕は不思議に思いながらも、そのまま馬車の停まっている方を見ていた。
(あれ?)
屋敷の門から一台の黒い車が入ってくる。
その車には見覚えがあった。兄の車だった。
「兄様の車?確か今日は仕事で遠出をしていて帰りは明日のはずだと思ったけど…」
兄は車が屋敷の入口に着くや否や、車から飛び出して来て足早に屋敷の中へと入った。
「何で急いでいるんだろう…」
僕は窓辺から離れて椅子に掛かっていた上着を手にとると、様子を見る為階下へ行こうとドアへ向かった。すると
ドンドンドン!ドンドンドン!
壊れそうな程強い力でドアを叩く音と共に、僕を呼ぶ声がした。
「高宣様!高宣様!起きて下さいませ、高宣様!」
僕はドアを開けると怪訝な顔をして声の主を見つめた。
声の主は美也仕えの女中の一人、ハツだった。
「どうしたのハツ?」
僕は青ざめた形相の彼女に尋ねた。
ハツのこんな悲壮感漂う表情は見た事がない。
僕とあまり歳が変わらないハツは美也の世話人という仕事上、いつも心配そうな顔をしているが、こんな恐れ戦く様子は初めてだ。
僕は唯ならない様子に、気持ちを引き締めて彼女にもう一度静かに問うた。
「何かあったんだねハツ?話して」
僕はハツの肩に手を置くと、彼女を落ち着かせた。
一息つくと彼女は僕の目を真っ直ぐ見つめ口を開いた。
「美也様がご就寝されるおり、少し体がだるいとおっしゃったので先程お薬を持ってお部屋に伺ったのですが…そしたら美也様が…美也様が…」
そこ迄言うとハツは口を閉ざしてしまった。
体が震えている。
「ハツ、大丈夫だから。ちゃんと話しておくれ」
僕は肩に置いてあった手に力を込めると、しっかりとハツの瞳を見つめて頷く。
ハツは僕の顔を見ると再び安心して言葉を発した。
「美也様が何もお返事をして下さらなくて…意識を失われてしまったようで。今侍医の伊勢先生が…」
そこ迄聞くと僕はもう美也の部屋へと走り出していた。
部屋の前まで来ると、ドアの前に上着を着たままの兄が立っていた。兄は腕を組んでドアに凭れ掛かっていた。
「兄様!」
僕は兄に駆け寄る。
「美也は?美也は大丈夫なの?」
胸の前で組んでいる兄の腕を掴む。
「大丈夫だよ。今伊勢先生が見てくれているから」
兄は微笑みを僕に向けると、僕の頭を掻き回した。
「うん」
僕は頷くと、兄と共にドアに凭れ掛かって待つ事にした。
それからどれ位の時が過ぎたのだろうか…
固く閉ざされた扉の中から母のすすり泣きが聞こえ、僕は美也がもう戻ってこない事を知った。
僕は兄の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。