第22話:ある少年の回想〜美也
読者の皆様いつもご愛読ありがとうございます。今回のお話は視点をかえて、一人の登場人物のある日のお話です。
ポロロ‥ン ポロロロ‥ン…
僕は流れるようなピアノの音で目が覚めた。
壁の時計を見る。
短い針が9の文字を差す5分前だった。
「こんな早くから?」
僕はベットから起きると、洋服ダンスを開いて簡単に身支度を済ませた。
その間もピアノの音は続いていた。
「熱心だな」
僕は鏡台の前で髪の毛を梳かしながら、流れてくる旋律を口ずさんだ。
「この曲はドビュッシーの《亜麻色の髪の乙女》かな」
僕は凝った細工が散りばめられている木製の背丈程もある本棚から、楽譜と茶色い表紙の帳面を抜きとると、急いでピアノが置いてある音楽部屋へと向かった。
◇◇◇
音楽部屋へ着くと彼女は黒い大きなピアノの椅子に座り、夢中になって鍵盤を叩いていた。
「今日は体の具合がいいのかい?」
僕の声に気付くと彼女は鍵盤を叩く手を止めて振り返る。
「お兄様!あっ、」
彼女は驚いた顔を僕に向けると、譜面台に置いてあった帳面をそそくさと片付けだした。
まるで僕に見られてはいけないものを隠すように。
「どうしたんだい?美也」
僕が不思議そうに訪ねると、彼女は取り繕うように話を切り出す。
「お早うございます お兄様。何でもありませんの。今日私とっても気分が良いので、少し早くから練習していたんです」
そして弾けるような笑顔を僕に向けた彼女は、確かにいつも見るより血色が優れ、今日は体調が良さそうで安心する。
美也子は十歳も年が離れている僕の妹だ。
生まれつき持病を抱え、身体が弱く侍医からは僅か5年から8年の命だろうと言われていた。
姉・兄・僕・美也と4人の兄弟の末っ子であった美也を、チョコレートを何重にもコーティングしたかのように大変可愛がっていた両親は、少しでも彼女が体調を崩してしまうと直ぐに寝室に閉じ込めてしまい、兄である僕さえも立ち入り禁止にされてしまった。
自由のない不憫な生活を送っていた彼女は、外出する事さえも許されず、日がな1日屋敷の中で過ごすしかなく、まるで翼を持たない籠の中の鳥であった。
そんな彼女の唯一の楽しみはピアノ。
具合が良くなると、彼女は女中の目を盗んでは僕の部屋へやってきて音楽部屋まで僕を引っ張って行く。兄妹の中で一番年が近かった僕を彼女はとても慕ってくれていて、よく家族の前で「美也は大きくなったらお兄様のお嫁様になるの」と宣言している程だった。僕もそういう美也を愛しく思い、良き遊び相手として進んで美也の遊び相手となった。
「ねぇお兄様、私この前の続きを少し考えましたの」
彼女はそう言うと、何冊かピアノの上に重ねてあった楽譜の間から、先程のものとは違う青い表紙の帳面を抜き出して開いた。
それを譜面台に置く。
「ここからちょっと変調させて、こういう感じにしてみたのですが、聞いて頂けますか?」
彼女は両手を鍵盤にかけると、鮮やかな手つきで旋律を奏でる。
その旋律は穏やかに流れたかと思うと、途中から突然フォルテが続き曲調にめりはりが生まれた。
「素敵だよ美也。良くこんな旋律考えついたね」
僕はよしよし、と彼女の頭を撫でてあげる。
美也は嬉しそうに目を細めてされるがままになっていた。
僕は美也のこの仕草が大好きだった。
最近彼女はただピアノを弾くだけでは物足りなくなり、今ではショパンやベートーベン等の有名な作曲家の楽譜を元に、それに少し手を加えながら独自で曲も作っていた。
「美也」
僕は先程から頭の中に浮かんでいた素朴な疑問を彼女に投げかける。
「さっき片付けた帳面は何だい?あれも新しい曲なのかい?」
その言葉に一瞬彼女は息をのんだが、何事もなかったかのように言葉を口にした。
「まだお兄様には秘密です」
そう言うと彼女は悪戯っぽく微笑み、別の曲を弾きだした。
「お兄様この曲はご存知ですか?」
シンプルな変奏曲でありながら、3つしかない和音の上を駆け上がっていく優美な旋律。一度聞いたら誰もが忘れられないような印象を残すこの曲は…
「《乙女の祈り》だね。弾けるようになったんだ」
「はい、やっと」
彼女は嬉しそうに笑った。
この曲は僕が初めて美也の前で演奏した曲だった。
自分の目の前でピアノを器用に弾く僕を見て、小さかった美也は目を真ん丸くして驚いていた。
それからだ 美也がピアノに興味を示したのは。
可愛い外見とは反対に父の頑固さを受け継いだ彼女は、僕よりもこの曲を上手く弾けるようになりたいと時間がある限り練習を重ねていた。
今では遥かに美也の方がピアノの腕は上になり、僕は専らヴァイオリンが専門となったが、不思議な事にこの《乙女の祈り》だけはどうしても上手く弾く事が出来ず、いつも悔しがっていた。
「じゃあご褒美だよ」
そう言うと僕は彼女の隣へ立ち、彼女の奏でる旋律に合わせて連弾を始めた。
ピアノを教えた兄としての意地だ。
「すごいですわ、お兄様」
彼女は自分の旋律とは全く異なった主旋律でありながら、綺麗に調和する僕のメロディーに、初めてピアノを聴いたあの時みたいな真ん丸い目をしていた。
「次はこっちを覚えなくてはね」
僕は軽く片目をつぶる。
「まあ、お兄様ったら意地の悪いっ」
「はははは」
「くすくすっ」
僕達の弾けるような笑い声が、軟らかな朝日が差し込む音楽部屋に響き渡った。
◇◇◇
空に鱗雲が漂いはじめ、夜風が冷たく感じられる頃になると、毎年僕と美也は胸を躍らせていた。
造船業や鉄鋼業で財をなした祖父は、今では新事業として貿易を始めてその事業を父に任せていたので、父は外国へ出掛けることがしばしばあった。音楽好きな父はその度に色々な国の楽器や楽譜を手に入れて来ては音楽部屋にコレクションしていたので、僕の家族は自然と音楽に興味を持つようになっていった。
家族にはそれぞれお気に入りの楽器があった。
父はフルート、兄はチェロ、僕はバイオリンで勿論美也はピアノだ。
楽器はあまり得意ではない母も歌が好きだった。
いつもは仕事が忙しく、屋敷にいないことが多い父や年が離れた兄も年に1日だけ必ず屋敷で一同に集まる日がある。
それが《秋の演奏会》
我が家で一番のお祭りだ。
この日に向けて僕達は各々に練習を行い、当日縁者や来客の前で披露する。
発表会の日は美也も部屋から出る事が許されていたので、綺麗な洋服に身を包み招待客との会話を楽しんだ。体調が良い時は僕達と一緒に発表会に参加することも許可されていた。
いつも少しの事で体を壊してしまう彼女だったが、僕達の心配をよそに、発表会当日だけは具合が悪くなることが無かった。
おそらく発表会を家族の誰よりも楽しみにしていた彼女は無意識に体の調子をコントロールしていたのかもしれない。
「お兄様。今日のお洋服は似合うかしら?」
美也は部屋へ入ってくると、僕の前でくるりと一回転した。
「可愛いよ、凄く似合ってる」
「本当ですか?ありがとうございます」
そう微笑みながら優雅にお辞儀をする美也は、カスミソウのように儚げでそれでいて華やかな空気を纏っていた。
「いよいよだね、美也先生」
僕は美也に冗談めかして言った。
「ふざけないで下さい、お兄様」
美也は頬をぷぅ、と膨らませて僕を睨む。
その顔を見て僕はいつも笑ってしまう。
「お兄様っ!」
「御免よ。だって本当の事じゃないか。今日は美也が作曲家としてデビューする初めての日なんだから」
美也の頭を撫でる。
いつものように美也は目を細めた。
「でも、作曲家だなんて…美也は恥ずかしいです」
「そんな事はないよ。モーツァルトだって、もう美也くらいの年には立派な作曲家だったんだからさ」
僕は机に置いてあったバイオリンを手に取る。
「美也の作る曲は素晴らしいよ。今日弾く曲だって絶対皆凄いって言ってくれる」
美也の頭を撫でる。
「でも…」
「あれだけ頑張って作ったんだもの、皆びっくりするよ」
「美也が頑張れたのはお兄様のお陰です」
「そう言って貰えると僕も付き合わされたかいがあるな」
僕は美也を見つめて悪戯っぽく舌を出した。
「まあ お兄様ったら。付き合わされたかいがあるなんて意地の悪い言い方」
美也は金魚のような赤い顔をして僕を睨んだ。
そんな仕草でさえ美也は可愛い。
(ちょっと兄馬鹿かな)
僕は心の中でほくそ笑んだ。
「高宣様 美也子様 奥様がお呼びでございます」
ドアをノックして質素な着物を着た女中が部屋へ入ってきた。
どうやらもう時間らしい。
「わかりました。今行きます」
僕は女中に返事をすると、美也の右手をとった。
「お兄様?」
美也は不思議そうだ。
「今から美也におまじないをしてあげるよ」
僕は美也の掌を上に向けると、《人》という漢字を何回か書く。
「なんですの?」
首を傾げる美也。
「これは《人をのむ》おまじないなんだよ。この文字を口に当てて飲み込むと、演奏会で絶対に緊張しないんだ。だから はい、飲み込んで」
美也は文字の書かれた右手を暫くの間見つめていたが、思い切ったように大きな口を開けてそれを飲み込んだ。
「うまいうまい」
僕が拍手をして上手におまじないができた美也を褒めてあげると、今度は美也が僕の右手をとって同じ様に文字を書きだした。
「美也?」
「お兄様ばかりずるいですわ。美也もお兄様にちゃんとおまじないをして差し上げます」
美也は書き終わると、はい と言って右手を僕の方へ差し出した。
「ありがとう、美也」
僕も飲み込む。
僕と美也は又お互いの顔を見つめて笑った。
「本当に仲がおよろしいのですね」
そんな僕達をドアの傍に立って微笑ましく見ていた女中に言われ、僕は恥ずかしさで赤く染まった顔を見られないように美也の腕を引っ張って足早に階下で待つ母の元へと向かった。
諸事情の為更新に時間がかかっております。これからも出来る限り頑張って書いていきますので、是非又読みに来て下さい。(礼)