第21話:真夜中の演奏会
「暑いっ!」
私はあまりもの蒸し暑さに布団から飛び起きた。
まだ外は暗い。
《モダリスタ》の夜の営業が終わって後片付けが済んだ私は、今日のお客が日頃より少なかったせいか、いつもよりも早く床に就く事が出来た。
しかし私は、突然沸って湧いたこの自由な時間をすぐに眠ってしまう事に勿体なさを感じ、読書タイムに利用しようと考えて、先日買ったばかりの小説を少しの間読む事にした。
だが、やっぱり身体は正直なもので、ほんの数ページ迄読んだ所で睡魔が襲ってきて、敢えなく就寝となっってしまった。
それからどの位の時間が経ったのか解らないが、私は寝苦しさに飛び起きてしまった。
「あ〜あ、こう暑いと眠れないや。下に行って何か飲んでくるかな」
私は枕元にある本を踏まないように寝所から出ると、目を擦りながら階段を下りていった。
ポロン‥ポロン…
?
階段を下りて行く途中で階下から微かな音が聞こえてきた。
(何の音?)
その音は階段を下りていく程大きくなる。
「あれ?」
階下に下りると、誰もいないはずの店の明かりがついていた。
「こんな時間に…まだ誰かいるのかな?」
私は不思議に思いながらも静かに店の扉を開けた。
扉を開けると、階段では微かにしか聞こえていなかった音をはっきりと耳にする事が出来て、それがピアノの鍵盤を叩く音だという事が解ってきた。
(ピアノ?)
私は成るべく音を発てないように店の中に入ると、ピアノの音のする方へ歩いて行った。
音は滑らかに流れるようなリズムを奏でたかと思えば突然ピタリと止み、今度は階段で聞いた時のようにポロン、ポロンと片手の指で音を確かめるようなリズムに変わった。
その音は、店の奥の振り子時計がある方から聞こえてくるようだ。
カウンターを通り過ぎダンスフロアの手前まで来ると、木製の黒いピアノが目に入ってきた。
そして私は、そのピアノの前でノートを開いて座っている人物を見つけた。
そこには銀縁眼鏡の男性が座っていた。
「高さん?」
高さんは自分の名前を呼ばれた方へ振り向く。
驚いた彼の顔が私に向けられた。
「あ、マヤちゃん。起こしちゃったかな」
彼は私の顔を見るとバツが悪そうに頭を掻いた。
「ごめんね、音が五月蝿くて起きちゃった?」
彼はピアノの蓋を閉じようとする。
私はそんな高さんに慌てて答えた。
「あ、どうぞ続けて下さい。私別に音で起きた訳じゃないし、ちょっと寝苦しかったから何か飲もうかなって思って下りて来ただけですから」
じゃ、と言ってカウンターへ戻ろうと高さんに背中を向けた私を彼は呼び止めた。
「あ、マヤちゃん。ちょうど僕も休憩しようと思ってたから、僕が何か作って来るよ。その辺に座って待っててくれるかい?」
高さんはピアノの蓋を閉めると、手に持っていたノートをその上に置いて、私の方へと歩いてきた。
「でも、お仕事中だったんじゃないんですか?」
「いいんだよ。こういうことは本職に任せなさい」
そう言うと、高さんは私を近くの椅子に座らせ爽やかな笑顔を残してカウンターへと去って行った。
「逆に気を付かわせちゃったかな」
私は高さんの後ろ姿を見送りながら心の中で反省すると、大人しく座って待つ事にした。
真夜中の店内は、静まりかえっていて、昼や夜とは又違った《モダリスタ》の景色を映し出していた。
私はぐるりと店内を見渡してみた。
ふとピアノの上に置かれたノートに目が止まる。
「あのノート…」
さっき高さんがピアノを弾いていた時に持っていたノートだ。上には鉛筆が無造作に乗っている。
「何してたんだろう」
興味をそそられる。
(気になるなぁ)
私は椅子から立ち上がると、ノートのある方へ歩いて行こうとした。
だがすぐに頭を左右に振って再び椅子に座る。
(だめ!だめ!やっぱり勝手に見たら良くないよ)
私は考え直して、ノートから目を逸らした。
(目に入らなきゃ、気にならないよね)
ピアノの方に意識が行かないようにカウンターの方へ目を移す。
まだ高さんの姿は見えない。
「何を作ってくれてるんだろう。楽しみだな」
高さんの作ったものは食べ物飲み物を問わず、何でも魔法をかけた様に美味しくなってしまう。
この店に初めて来た時に飲んだクリームソーダも然りだ。
あの日はとても暑くて、その中をたまちゃんの手に強引に引っ張られて店まで連れて来られた私はかなりバテていた。
そんな私にとって、高さんの作ってくれたクリームソーダはとっても冷たくて、美味しくて、幸せを感じた私は正に天にも昇る気分になった。
あの後私も高さんの味をマスターしようと頑張ったが、未だに成功してない。
恐らく何らかの高さん秘伝の隠し味が含まれているのだろう。
又別の日に淹れてもらったコーヒーも、アイスティーも全て舌がとろける程美味しく、何故これほど迄に上手く作れるのかと感心してしまった程だ。
きっと今回も絶品に決まっている。
「早く出来ないかなぁ」
テーブルに頬杖をついて、組んだ足を揺らしながら高さんを待つ。
と、目線があのノートを再び捕らえる。
………ははは(汗)
どうしてもあのノートは私を誘惑せずにはいられないらしい。
あの計算尽くされた四つの辺の美しいフォルム。その上に無防備に転がる六角の鉛筆。
そしてその内側に広がる未知なる世界。
その全てが私を魅了する。
そう、あれはまるで、アリスが不思議の国で出会った瓶の中の液体と一緒じゃないか。
私には《read me》と言う言葉すら見えるようだよ…
………見たい。
私は再びカウンターへ目を向ける。
高さんはまだ来ない。
(……ちょっとくらいなら大丈夫だよね。でも何処までがちょっとか私には判らないけど…高さんが来たら〈ノートがピアノから落ちたから拾ったの〉とか何とか可愛いく言ったらバレないかもしれないし)
私はとうとう悪魔バージョンのマヤに負けて、秘密の果実を食すべく、ピアノへと足を進めた。
(ダメだな。普通はこんなプライパシーを侵害するような事絶対しないのに。体が小さくなったせいで、性格迄子供っぽく変わっちゃったのかな?)
ピアノの前迄やってくると、それでもやはり良心に振れるのか今一度立ち止まった。
(でも…)
私は思いっきり首を振る。
「しょうがないか。やっぱり子供は好奇心で成長するもんだからね。今の私は子供だしっ」
そんな勝手な解釈で自分に納得させると、思いきってノートを取り上げて中を開いた。
「すごい…」
私は他のページを確認するように、ノートをパラパラと巡る。
ノートにはギッシリと音符が詰まっている。
「これって楽譜?」
パッと見ただけだが、中には覚え易いメロディーながらしっかりとピアノならではの高音を生かした旋律のものも見てとれた。
「この曲素敵」
気が付くと私はおもむろにピアノの蓋を開き、ゆっくりと鍵盤を押さえていた。
手書きの楽譜を見ながら、一つ一つ丁寧に音を拾う。
流れるような主旋律が美しい。
ゆっくりな調子だが、なだらかで優しい詩情的なリズムが漂う。
「素敵な音…」
私は音の美しさに惹かれ、夢中になってノートのページを捲り次の音を拾おうとした。
「上手いね」
「!!」
突然声を掛けられて、鍵盤から手を離す。
声がした方を見ると、そこにはグラスを2つ持ちながら、笑顔で私のピアノを聞いている高さんが立っていた。
「あっ、」
「はい。どうぞ」
高さんは笑顔のまま私にその片方を渡す。
「あ、すいません」
私は恐縮しながらグラスを受け取った。
中には薄い黄い色をした液体に氷が数個浮かんでいた。
急な高さんの出現に、どう弁解したら良いのか思いつかず、取り敢えず頭を深く下げる。
「ごめんなさいっ!私勝手にノート見たりして!」
高さんは何も言わず私の隣まで来ると、自分も右手の人差し指で鍵盤を押さえた。
そして静かな声で話しかけてきた。
「マヤちゃんはピアノが弾けるんだね」
「あ、少しですけど」
「そうなんだ」
そしてもう一つ鍵盤を押さえる。
「あ、でも私あまり上手くないですよ。〈ハノン〉とか〈ソナチネ〉とか手習い程度ですから」
「〈はのん〉?〈そなちね〉?」
高さんは不思議な顔をする。
(あっそうか、今の時代はピアノなんて珍しくて、レッスン用の楽譜なんて無いんだきっと)
「あ、いいえ、何でもないです。ははははっ」
私は高さんが不思議な顔をした理由に気付き、笑って誤魔化した。
それから高さんから受け取ったグラスの中身を口にした。
「はぁ、」
思わず息が漏れる。
(何だろう…このホッとする感は…)
薄黄色の液体を喉へ流すと、微かに優しい花の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
そして、心なしか体全体から余計な力が抜けて、身も心も解された気分になった。
高さんも一口飲むと満足そうな私の顔を見て微笑んだ。
「これはカモミールといって、欧州の方から入ってきた飲み物なんだよ。カモミールは白くて小さい可愛らしい花でね、心身共に緊張を和らげて穏やかにさせてくれるんだ」
そしてグラスを自分の整った鼻の前に持ってくると、深く深呼吸した。
白い可憐な花の香りが、高さんの胸の中に広がっていった。
お互い黙ったまま、静かな時間が流れる。
(なんか、こんな落ち着いた気持ちになったの久しぶりだな)
この世界へ来て以来、仕事だ、何だといつもバタバタしていて、年相応な男性と(忘れているかもしれないが、私は30を越えているのだ)こんな穏やかな時間を共有する事なんてなかった。
なんて贅沢な大人の時間。
私はふっ、と溜め息をついた。
「さっきの曲…」
突然高さんが沈黙を破って話しかけてきた。
「えっ?」
「さっきマヤちゃんが弾いていた曲。あれは大切な曲なんだ」
「大切?」
「うん。そう」
そう言うと高さんは鍵盤を指で押さえたまま、何処かもの悲しい、遠い目をしていた。
(大切って、どういう事だろう?)
私は高さんの顔を見つめる。
(でも、だったら何故あんなにも悲しそうな瞳をするのかな?)
高さんは優しく、それでいて何処となく物憂げな瞳をしていた。
「マヤちゃん、さっきの曲もう一度弾いくれるかい?」
突然高さんが私の瞳をじっと見つめて、真剣に尋ねてきた。
「えっ?どうしてですか?」
「いいから、いいから」
そして高さんは先程の曲のページを開いて譜面台に置くと、私をピアノの椅子に促した。
「はあ、」
何だか解らないが、取り敢えず弾いてみる。
(やっぱり素敵だな、この曲)
穏やかに、そして滑らかな旋律に、いつしか私も音楽に陶酔していく。
と、途中から音が膨らんだように感じた。
(ん?)
不思議に感じて隣を見ると、高さんが私の傍らで主旋律に合わせて伴奏を奏でている。
「高さん…」
高さんは私が見つめている事に気付くと、嬉しそうに笑った。
その瞳は温かくて、慈愛に満ちて…いつかカウンターで見たあの時の瞳に良く似ていた。
そう、誰かを心の底から愛しいと想う瞳。
(でもどうして?たまちゃんじゃないのに…?)
彼は零れるほどの笑顔で優雅に旋律を奏でる。
その微笑みからは少しあどけなさも漂ってくる。
(こんな高さんの顔、初めて見るかも)
「楽しい?」
高さんが聞いてくる。
「はい、とっても」
私は笑顔を彼に返す。
「そう」
彼も私に微笑み返した。
でも…
私は気付いてしまった。彼は私を見ながら、他の誰かの事を見つめている。
彼は私の中に誰かを見ている?
(やっぱり たまちゃんかな?)
そんな事わかっているが、やっぱりこんな時くらい私を見て欲しいものだ。
高さんはまだ幸せそうに私を見つめてピアノを弾いていた。
私達二人のそれぞれの思いを乗せて、真夜中の演奏会は続いた。