第20話:T.E.S.
「煙草を吸っても宜しいですか?」
紳士は、隣で黙々と本をよんでいる宗嗣さんにそう伺いをたてると懐から煙草の箱を取り出して、そこから一本抜いた。
「どうぞ」
宗嗣さんが静かに応える。
「では失礼して」
紳士はそう言うと、抜き取った煙草を口に加えて火を着けた。
「どうぞ」
束さず、高さんが紳士に灰皿を差し出す。
「有難うございます」
紳士は灰皿を丁寧に受け取ると、一息ついた。
綺麗な口元から白い煙が一筋流れた。
「貴男はよく此方には来られるのですか?」
紳士は本から目を離さない宗嗣さんに尋ねた。
「あまり」
「そうですか。では今日出会ったことは奇跡ですね。余り店に訪れない貴男と、度々訪れる私‥そしてその二人がこうして同じカウンターの席に隣合わせで座っている‥何だか不思議ですね」
紳士は宗嗣さんに微笑む。
「……」
宗嗣さんは少し目だけを上げて紳士を見ると、又本へ戻した。
「貴男は此方の歌姫をご存知ですか?」
紳士が灰皿に煙草の灰を落としながら宗嗣さんに尋ねる。
「えっ?」
「此方の歌姫の歌を聞かれた事は?」
「…ある」
宗嗣さんが下を向いたまま答えた。
「そうですか。貴男はどう思われますか?歌姫の事を」
「どうっ、て?」
「あの素晴らしい声を聞いて何とも思わないのですか?貴男は」
紳士は嘲笑った。
そして手に持っていた煙草を灰皿に置くと、一杯麦酒を飲んだ。
「私は彼女には、とてつもない才能が眠っていると思うんです」
紳士が淡々と語りだす。
高さんは宗嗣さんの空いていたグラスを下げると、次の一杯を置いた。
宗嗣さんは静かにそれを口にする。
「あの洗練された歌声に、あの美貌。紛れもなくまだ磨かれていないダイヤの原石ですよ」
宗嗣さんが本のページを捲る。
「話しによれば、此方で歌われている歌は全てあの歌姫が作り出したものだとか」
紳士はカウンターに両手の掌を合わせて乗せると、そこに自分の顎を置いた。
「私は彼女に惚れました」
紳士が微笑む。
グラスを拭いていた高さんの手が止まると微笑んでいる紳士の顔を見る。
宗嗣さんも本から顔を上げて隣の紳士を見つめた。
「惚れた?」
高さんが静かに口を開く。
「ええ」
紳士は一言そう言うと、高さんの顔を仰ぎ見た。
「実は私、先日歌姫に贈り物をしました」
「ええ、知っていますよ。あれは中々面白い余興でしたね」
高さんは再びグラスを磨く。
「あの大輪の花束、暫くは店中の話題でしたよ。店の子達なんて、貴男の事を《黄薔薇の君》とか呼んでいましたから」
にこやかに微笑む。
《黄薔薇の君》と聞いて、一瞬宗嗣さんがピクンと反応する。
「《黄薔薇の君》ですか…ハハハ、それはたいそうな名前を付けて頂いて恐れいりますね。それならきっと、歌姫にも気に入って貰えたのでしょうね」
紳士は灰皿に置いてあった煙草を口に戻した。
「それはどうでしょう?私は本人では無いので、何とも言えませんが」
高さんは紳士から瞳を逸らす。
その様子に気付き紳士は軽く右の口角を上げた。
「これは手厳しいですね。もしかして、気分を害してしまいましたか?」
紳士はフーッと一息つくと、高さんに向かって挑戦的な目を向けた。
(な、なに?何かさっきよりも、カウンターの辺りにヤバそうな空気が漂っている気がするんだけど…)
カウンターの三人を伺い見ていた私は、只ならぬ雰囲気に気付いた。
(心なしかあの二人の間に火花すら見えるようだ…)
い、いやあの温和な高さんが火花を散らすなんて そんな挑戦的な事する訳無いよ‥ね?
でも、やっぱたまちゃんの事になったら、流石の高さんも熱くなるのかな?
何はともあれ、トラブルは絶対避けなくちゃ!
私は腹を据えた。
◇◇◇
「私、お店の方にある事を聞きましてね」
紳士が話し出す。
「彼女は此方に住んでいるんだとか?」
「はい、この上に住んでます」
「そして貴男も」
「ええ、此処は私の店で自宅ですから」
優しく微笑む高さん。
「身内の方か、何かですか?」
紳士が静かに尋ねる。
すると高さんはクスッと軽く笑った。
「いえいえ、私と彼女は赤の他人ですよ。強いていえば、大家と居住者でしょうか」
そして高さんは紳士の隣で麦酒を飲んでいる宗嗣さんを指す。
「身内というなら、貴男の隣に座っている男‥彼は私の甥っ子で、彼も上に住んでいるんですよ」
紳士は自分を鋭い視線で見上げている宗嗣さんに気付くと、慌てたように彼にも笑顔を見せた。
「そうだったんですか、これは人が悪い。早く教えて頂ければ良かったのに」
紳士は高さんに訴える。
「血が繋がってなくても、一つ屋根の下に住んでいるのなら家族と同類でしょう」
そしてカウンターの上の麦酒が入っている自分のグラスを持ち上げると、宗嗣さんの方へと差し出した。
「何は共あれ、歌姫のご家族にお会い出来るなんて光栄ですよ」
彼は宗嗣さんが手にしていたグラスに自分のそれを軽く当てた。
「別に俺はたまたま上で居候してるだけで、そんなんじゃねぇよ」
宗嗣さんはグラスを置くと本に目を落とした。
「あんた、あいつに花束なんてやったのかよ」
宗嗣さんがぶっきら棒に尋ねる。
「いけませんでしたか?」
紳士はおどける。
「いや、別に‥ただ」
宗嗣さんは紳士の顔を直視する。
「あいつは《花より団子》だぜ」
「えっ?」
紳士が驚く。
その顔を見て、カウンターを拭いていた高さんがクスッと笑った。
「あいつは普通の女とは違うぜ。ああ見えて殴る蹴るの暴行は日常茶飯事だし、大口開けて馬鹿笑いするし、大飯食らいだし、女と言うよりカバだなありゃ」
そう言うと宗嗣さんは読んでいた本に栞を挟んで、パタンと閉じた。
「あいつの飯も食えたもんじゃねぇぞ。魚焼かせれば炭になるし、卵焼き作れば殻は入ってるわ、辛れぇわで、まだ俺かこいつが作った方が長生きできるぜ」
宗嗣さんはカウンターでクスクス笑っている高さんを差した。
「あいつは女に向いてねぇ。歌 歌ってる時はいい女に見えるかも知れねぇが、あんたも長生きしたかったらあんな女止めとけ。あんたの事思って助言してやるぜ」
宗嗣さんは紳士を睨んだ。
フッと笑う紳士。
「そうですか。それはご親切な助言痛みいります」
紳士は新たに煙草を一本取り出すと、火をつけようとした。
「しかし、私は言いましたよね、彼女の才能に惚れたんだと。貴男方のお話しを聞いてますます歌姫に興味が持てました」
高さんと宗嗣さんの顔が陰る。
「私は必ず彼女の心を掴んでみせますよ。そしていずれは、私の元に来て頂きます」
本を握っていた宗嗣さんの指に力が籠もる。
高さんも黙って紳士を見つめていた。
「本当に今晩は貴男方に出会えた事、嬉しく思いますよ」
紳士は口元から白い煙を一筋吐き出す。
「あ、そうだった…」
突然 宗嗣さんが口を開くと、紳士に笑顔で話しかけた。
「やっぱ、煙草止めてくれない?そう言えば俺 ちょっと風邪ぎみだったんだ」
それから、紳士を仰ぎ見るように頬杖をついた。
その姿に紳士は目を細めて、クスッと嘲笑した。
「それは失敬。どうやら私がここにいる事は余り望まれていないようですね」
ゴーン‥ゴーン‥ゴーン…
振り子時計が九時を報せる。
「おや、もうそろそろ歌姫の時間ですね。では私は場所を移らせて貰いましょう」
紳士はグラスと煙草の箱を持つと、席を立った。
と、すぐに手に持った物を又カウンターに置くと、懐から名刺を二枚取り出して二人に渡した。
そして再びカウンターに置いた物を手にすると、
「では」と言ってダンスフロアの方へ去って行った。
二人は名刺に目を落とす。
《早乙女企画株式会社 代表取締役社長
早乙女 竣高〈さおとめ しゅんこう〉》
「早乙女企画…」
高さんは怪訝な顔をする。
「物好きな奴だぜ」
宗嗣さんはそう言うと、紳士の去って行った方向を睨み付けた。
暫くして、ダンスホールに静寂が訪れると、清らかな歌姫の声が響き渡った。
※T.E.S.→The eternal square. 〈四角関係〉の略。