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読書記録:「霊応ゲーム」

ネタバレ有りのメモです

「霊応ゲーム」


しばらくジムのお供だった文庫。

同作者の「復讐の子」より前に書かれた作品。


「復讐の子」でも描かれたように、こちらでも純粋で内側に強烈な怒りを内包している男の子が、能力に優れ魅力あふれる存在として登場します。

どこか世慣れた人当たりのよい仮面をかぶっていた「復讐の子」のロニーに比べ、「霊応ゲーム」のリチャードはストレート。

怖いもの知らずで有能さを武器に「当人にとってはあからさまな攻撃に思えるが客観的には問題がないライン」をついて、反抗心を示します。

有能で力があり、自分をしっかり主張できる強い存在として周囲を魅了、畏怖させるのです。


この本を読みながら考えたのは怒りについてでした。

それからなぜ作者は怒りを内包し暴走する存在をすくなくとも二度、なぞるように描いたのか。




「復讐の子」では魅力あふれる男の子ロニーが胎児の頃からどのようにして育っていったかが詳細に描かれます。

ロニーはハリーポッターのハリーの家のような環境で育ちます。

離れてくらす母親はロニーを愛している。

素敵な人だと語られる父親は母親がロニーを宿してこの方、一度も姿を見せたことはない。


私が精神的危機を感じていたのは、もう片方の語り手スーザンの環境の方。

母親からいつも一番に愛されていたロニーではありませんでした。


けれどロニーは静かに思い込みを形成し周囲を憎み、歪んでいきます。

優秀で人当たりがよく問題を表出しないので歪みに気づかれず、修正されることなく成長していく。

おやっという影を母親がまったく感じなかったわけじゃない。

信じたい。

という思いが見誤らせ、見逃されていきます。



私が鈍い人間だからなのかも知れないけれど、ロニーにおこる程度の理不尽さはありふれていて、どれも他者信頼さえあればシェア可能なものに思えます。

個人的にはもちろん大きな失望があり大問題なのだが、スーザンのように「今現に私自身の存在が脅かされる」というようなものではないし、決定的な精神的断絶があるとは思えない。

思い込みによって憎しみを自分で膨らませ、自分で自分を育てているだけだ。


彼の環境は良くはなくとも正常な他者信頼が形成されないほど劣悪なものだとも感じなかったように思う。

差し伸べられた手だってあったはずだ。


一体なぜ。

我々はロニーの変貌をどうすることもできないのか?



共通する危うさといえばロニーもスーザンも親子が逆転していた。

親のために子が犠牲になってきた。

でも精一杯やってもそういうことはときに起こりうる。

親は完璧ではないから。


そのエピソードが鍵なのだろうか。

だとしたらどうしようもない。



「なぜ、ロニーは強烈な執着心を持つ残虐な存在となってしまったのか。どうすればよかったのか」に対する答えが私には見つけられない。

ぞれは私が怒りや憎しみについて触れたがらないからかもしれない。




リチャードの環境も同様に、「少し複雑ではあるかも知れないけれど、本人さえ見ようとすれば向き合うことができた家族」だったように思う。

現に手を差し伸べるものはそこここにいた。


当人の心の持ちようが手をはねつけ、思い込みの修正を阻んでいる。

リチャードは内側で勝手に怒りを増幅させ、世界を憎むのである。


そういうわけでこの二作から私が受け取ったメッセージは明るいものではなかった。

「生まれながらに歪みを約束された存在はいる」という性悪説。

認知の歪みを止められない。

もしくは届かなさ。

というようなものだったから。




なにか犯罪が起きた時、原因を求めたがる。

歪んだ理由を、ストーリーを頭に描いて納得しようとする。

私もそうだろう。

理由がないことは私を脅かすから。

なぞり、納得したいと願う。

特に子供の犯した犯罪に関しては、更生、絡まりをほぐす手が届くのではないかという期待を持ってしまいがちだ。


言われなくスケープゴートとなる人のないように、周囲に自責に潰される人を救うものであるように、彼がどんな道をたどってきたのかなぞり、彼のこの先の未来を思い描きたい。

なぞるときは「彼に何があった」ではなく「彼がどう捉えてきたか」認知を柔軟に置き換えながら根気よく沿うものでありたい。

物語は諦めない思考だから。



だから結果「性悪説だよ」で当人死亡の物語をどう処理していいのか、私には難しい。

著者は彼らを本当に知りたいのだろうか。


我々とは違う存在、そのようなものがあるのだと訴えたいのだろうか。

自分で憎しみを育て上げ社会を憎むのを止められないことを?

絶望感のことを?



彼らはいわゆるサイコパスなのだろうか。(サイコパスについての考えは保留としたい)

私はそうは思わない。


彼らは周囲にカリスマ的な魅力を持ちどこか孤高で美しい者として映る。

だがその本体はまるで食虫植物。

内側へ触れさせた相手を囲み、取り込み外界へ触れさせない自分だけの人形にする。

ブラックホールを抱え自分を持て余した寂しい人間だ。

リチャードは、ロニーは共感性を排した、生まれながらにしてわかりえない存在ではない。




リチャードの執着した人物、ジョナサンは壁を作るリチャードにこう投げかける。

「僕には何もわからない。だけど僕はいつもなんとかわかろうとするから」

でも彼はリチャードが手に負えなくなってこの言葉を覆すことになる。


ジョナサンはまるきりここまで書いてきた私の思考をなぞるような人物。

自信に乏しくやや自分がしっかりとないところを含めて、とても私に似ていると感じた。


彼はリチャードにあこがれ、また添おうとして気づけば境界を失っていた。

自分でいることを侵食され、どこかでおかしさを感じながらおかしいのは自分のほうだろうかと混乱した日常をつま先立ちで溺れて過ごす日々。

危ういリチャードを前に、私にはできないとは言えないのだ。

これは私の範囲ではないあなたの範囲の問題だと線を引けない。


実際取り込んでもよいと返事をしたと思わせた後翻すのは、リチャードのような人間にはいっそう身をもぎ取られるような痛みと憎しみを引き起こすだろう。

激しい攻撃を受けること必至だ。

ジョナサンは懸命に境界を引いて、なおかつリチャードの気づきとレジリエンスを信じて投げかける。

その結果を思うと絶望しか残らない。

この話は私のような頭の中がお花畑の人間に向けた警告、教訓なのだろうか?



いや、そもそもこれはこのように読む物語ではないのかも知れない。




読書の旅はこんなふうに私というフィルターを通してしか私には認識されない。

私は私を読み、フィルターの外に濾し残った問いはこうして空に浮かんだまま。

伝わらないままのこってしまう。


これは作品のせいと言うよりも、私のせいと言うよりも、読書とは、人と人とはそういうものなんだろうということなんだと思う。

どうしても勝手に読んでしまうのを止められない。

このように私は人の話の途中でかんがえがあちこちして、きちんと聞ききれない。

そのことを残念に思う。




私が改めて確認したのは、私はレジリエンスをどこまでも信じている、脳みそお花畑な人間だということ。


つまりどのようなわかりえない人間に対しても、困り果てていたとしても絶望はしていない。

当人の気付きがあればそこから変わると信じている。

それはやっぱりお花畑思考だ。


ジョナサン同様、私は何かがわかっていない。

身を守るという点においては少し危険かもしれない。



焦点が絞られすぎていて読みこぼしがいくつもありつつなメモでした。



掲載日2018年 10月18日 15時01分

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