読書記録:「「心の自由」を手に入れる技術」棚田克彦 「君たちはどう生きるか」吉野源三郎(漫画で)
「「心の自由」を手に入れる技術」 棚田克彦
リミッティングビリーフに興味があったのでざっくり概要が掴めそうなものをと思って購入。
全く本旨からずれるが中でも絶望状態の「二次利得」について、”なぜ”に応える納得できるものがあった。
私は二次利得を求める、もしくは求めようとしているんじゃないかという人に触れることがどうしても難しい。
少しでもその要素を感じた時点で警戒してしまう。
私が反射的に望んだ利得を与えずにはいられないからだ。
彼らはそんな相手をやすやすと見抜き手放そうとはしない。
だから見抜かれることを強く警戒している。
恐れで自覚以上に内側が揺れてしまうことを知っている。
しかし警戒しているためその反応を少しも外に出すことはできない。
そしてまた自身が”二次利得を求める人”に欠片でも似てしまうことを恐れる。
避けてしまうということが引っ掛かりでありむしろフォーカスしてしまう部分なのだろう。
メンタルフォーカス、思考の癖は非常に重要。
現実とは一致しないゆがんだメッセージを自身に送り続ける弊害は大きい。
自覚して論拠ごと潰していったほうが良い。
考えすぎる人はこのフォーカスがずれたまま無駄な方向へ思考を巡らせてしまう。
そしてそのことに気づいたときにまた間違ったゆがんだメッセージを自分に浴びせるのだ。
重要感を満たそうとする人は違いに目を向ける。
違いに目を向けるものは孤立感を深める。
なぜなら人は共通点に目を向けることでつながりや一体感を得ようとするからだ。
という部分はきちんと理解しておきたい部分だ。
自覚的でありたいと考える。
メモ的に。
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「君たちはどう生きるか」吉野源三郎(漫画で)
角川の文庫が家にあるんだけど、子供が手に取りやすいかと思って漫画を購入。
漫画を読んで結局泣くw
こういう子供が葛藤して越えていこうとする展開って一番のツボなんだと思う。
子供って自由で発想が豊かだという人もいるけど、私は子供ほど不自由で保守的で受け身な存在はないと思っている。
確かに子供の感受性のアンテナは大人より鋭い。
それはただ全ての経験が新鮮で真新しいからだろう。
白紙に版画を刷るほうが何度も同じ版を刷ったものの上に刷るより像は鮮明に映る。
だけどそのぶん世界を知らないからどうしても見ることや感じることで精一杯になる。
子供が世界を捉える過程で抱く疑問や危うい触れ方が、大人にはなんの枠組みも持たない自由で豊かなものに見える。
確かにそれは斬新できらめいて思える。
新しい人は私をやすやすと越えていく。
だが当人にしてみればただわからないだけ、掴みたいだけだ。
確認するために発し周囲とすり合わせる。
正解を知りたがりその枠に入り安心したがる。
自らを振り返っても人と一緒でありたい欲求、正解へのこだわりは幼いほど強かったように思う。
教育現場でも幼いほど正しさや先生の言うことなどに厳しく、外れたものに容赦ないと感じた。
基準は先生から帰属したい集団と変化するがその構造は変わらない。
正解と言われると安心で、不正解を恐れて口をつぐみ、周囲を確かめる。
どの生き物もそうして世界を掴み、それから安心の地面を得て自立していく。
これは自然な流れなんだと思う。
本当に自由に自分を世界に投げかけ飛躍できるのは十分に安心を得た後だ。
大人の感覚というのは経験を何度も上塗りした立体感のある版画のようだ。
そこに外的、内的経験、思考の幅、個性や深みが出る。
論拠のある確かな発想力が根付く。
元の版はあやふやになり、癖も現れていびつなものも生まれてしまう。
だからこそ子供の姿に憧れを見るのかもしれないけれど。
時代の流れの速い現代ならなおさら新しい人の発想は新鮮で斬新で、眩しい。
でもそれだからこそ上から見て子供の認識が揺らいでしまうような安易な持ち上げはしたくない。
手放しでもてはやすのではなく、適切に対等に心から敬意を伝えられたら。
大人にとっては社交辞令であった覚えてすらいない言葉が、世界に圧倒されている子供の中で膨らんで拠り所になることだってあるのだから。
そういうまだ世界を掴みかけて間もない年齢の人の前に、この本があって欲しいなって思う。
安心の地面を踏みしめて自分で考え行動することをし始めた最初の最初に。
掲載日2018年 01月24日 19時13分