読書記録:コミック「フロム・ヘル」
「フロム・ヘル」
ののかさんにお願いして貸していただいた上下巻のコミックです。
長く借りっぱなしにしてしまい申し訳ありません。
ようやく気持ちがまとまりました。
お返しいたします。
未解決の殺人事件「切り裂きジャック」事件の仮説を物語化したもの。
事件そのものの発見、謎の組織の儀式、思想の有りよう、などは私の興味の外でした。
現実とはなんの関わりもない、創作。
単なる物語として読みました。
私の「フロム・ヘル」の読みは多分に感覚的なものを重ねた回想だと思います。
感覚を重ねるようにして読んだのです。
「フロム・ヘル」で四人の女を殺害し臓器を切り取った切り裂きジャックとして描かれたのは医師のガル博士。
ガル博士初出シーンで幼い彼は神にこの世で最も困難な仕事を与えられたいと願います。
そしてそのことを知っているのは神自身と自分だけ。それで十分だと言うのです。
このセリフで何故か私は彼を他人とは思えなくなりました。
人を「わかろうとする」やり方に「相手そのものを解釈せずに見続ける方法」と、「私の感覚を伸ばしその内側に取り込もうとする方法」があって、私は前者が好きですが後者に親しんでいます。
しかし後者、つまり共感は結局相手を見失い自分を見つめていることになるので、どこまでも自分本位だと感じ辟易してしまいます。
私には「人の話を聞くこと」「物語を読むこと」は確かな地面のない難しいもののように感じます。
解釈をせずにはいられないからです。
さてガル博士。
神が与えた仕事を成し遂げるとき、それを誰が知らずとも私と神が知っていれば満足だ。
誰にどう思われようとも、たとえ理解を超えること倫理に反したこと誰を傷つけることになろうともそんなことは問題にならない。
神の与えた仕事なら。
ガルの心は終生子供のようにひたむきで純粋でした。
純粋は恐ろしい。
私はこの恐ろしく尊大な純粋さを自身の内側に持っていてそれを恥じている。
それで彼を他人だと感じなかったのだと思います。
使命を感じたとき、ガルには正解が一つの線にきらめいて浮かび上がって見えました。
天啓。
語ったところで誰にもわかりえないだろうが天啓なのだと高揚し、わからないだろうからこそガルは共犯者となるネトリーに滔々と語り聞かせ、殺人計画を実行します。
ガルはいよいよ時が来た、私は神に選ばれた、神は私に仕事を与えてくださったと感じ、自己を明け渡しました。
世界は美しく、私はその目。その手足。
私は私を超え神と一体となった。
神の手足となり、自己から阻害され、動かされる。
私は見ている。が、乖離している。
非常に尊大で過小、確固としているようで不在な自己。
殺す、というより明確に線を引き解体する。
私の手は神の手だ。
天に従うのが相手のためだとでもいうようにまっすぐ。
遺体を解体する最中、時折感覚が叫び、ガル博士を呼び止めます。
夢から覚めたように感覚する瞬間が訪れる。
振り返る。
湿度。熱。光。
世界が私を見ている。
私が見ているもの、触れているものを、私が見る、感じる。
私はここにいる。
感覚だけがガルをガル自身から離さない。
拡散を許さない。
ガルにとって自己、神、そして他者とはどのようなものだったのでしょうか。
宗教的な背景について全く不勉強なので解釈に歪みがあるかもしれませんが、ガルはこのように神と繋がり、共に、いっそ神そのものと一体となって我が手を神の手のように思い、動かされるようにことを行ったのだと感じました。
やり遂げたという感覚。
いよいよ私は高く登りつめ、神の仲間入りをする!!という高揚感。
最後の殺人のあと自己と重なっていた神の手が離れ、抜け殻となってしまった私が残る。
高揚感のしっぽがあとを引いて……現実は抜け殻の空間。
私の世界ではない。
死の瞬間ガル博士は旅をします。
旅の感覚は夢の中のようです。
浮遊感。
ガルの消滅。
私は十章、十四章、この章を感覚するためにこの本を読んだのだと思いました。
メモ的に。
掲載日2018年 11月23日 18時04分