スチールブルー
足は普段の二倍重たかった。実際は二倍よりも遥かに少ないのだけれど、これは命の重さだろう。
僕は人混みの間をただただ真っ直ぐに歩いた。時々、冷えた目をした人が視界に映り込む。でも自分だけがびしょ濡れなことも、時々ぶつかる肩も、もうどうでもいい。僕の中にはもう君しか残っていなかった。
微笑む君、怒った君、拗ねた君、泣きじゃくる君、頭の中で色々な君が浮かんでは大きくなってゆく。そのどれもが僕には苦しかった。
鼓動の音とは別の、でも鼓動のように規則正しく伝わってくる音。僕の命はこの二つの音で生かされ、殺される。優しく感じた雨の音も、靴の音も、傘を震わせる音も掻き消されて、全てが小さく聴こえる。
僕はただ、君に会いたくて仕方がないんだ…。
爪先の向きを変えることも出来る。後ろを振り返ることも出来る。手を挙げてタクシーを呼ぶことだって出来る。でも僕がそれをしないのは君を守るためだってこと、きっと君には伝わらないだろう。
僕は、君と初めて手を繋いだ、あの港に向かって歩いている。コンクリートの端に座って、向こう側を眺めたあの日、遠くで輝く街明かりが眩し過ぎて思わず目を瞑ってしまった。今、僕の目の前にはあの時の残像が映ってる。そして、それが時々ぼやけて揺れている。
君の目にも僕は残像として残っているだろうか。ふと目を閉じたとき、瞼に映る僕の残像が笑顔であるなら、それ以上に嬉しいことなんてない。
いつもならイライラする信号機の赤色さえも愛おしく感じる。永遠に続けばいいのに、とさえ思う。この瞬間、君がどこかで刻んでいる鼓動の振動が、僕の冷たい指先を温めてくれているから。
道端に咲いた草花が雨の雫に合わせて上下していた。もう、何も怖くない。
港は、あの日のように綺麗では無かった。3日前にあった祭りのせいで、地面にはゴミが散らばっている。その向こう側に透けて見える笑顔が、時の無情さを伝えていた。
あと数分で、この海から白い水飛沫が上がるだろう。僕はその一粒になる。だからその前に、君に送りたい。「さようなら」なんて、僕には勿体なさ過ぎるから、代わりに「ありがとう」を。かじかんだ指先で、携帯のボタンを押した。
僕は画面に表示された「送信完了」の文字を確認してから、携帯を遠くへ投げた。どこかで壊れた音が小さく聞こえて、また君のことを思い浮かべた。
彼女は、いつものように夕食を作って待っているだろう。そして僕がもう帰ってこない事を知るだろう。僕は君が泣く事なんて望んでいない。「せいせいした」と言って背伸びをして欲しい。もう君は自由なんだから。
僕を巡る血液達は、そろそろ異変に気付き始めたようで、僕を生かそうと波打つ。どくん、どくんと、僕の中から音がだんだん大きくなって聞こえてくる。僕はその音を振り払うように、冷たい水の中へ飛んだ。
眼を開けると、泡の隙間に暗い世界が広がっていた。これからはここで過ごすことになるのだろうか。コンクリートの周りで優雅に泳いでいた魚達は、新入りを受け入れる気は無いようだった。僕はもっと先へと泳ぎ出した。
景色はどこまで行っても変わらない。時々、死んだように動かない大きな生き物を見た。彼らとは友達になれる気がした。
僕は水面に上がって自分の位置を確認した。あの日見た街並みと、煤けた港の真ん中に、僕はいた。橋を渡る車からは、小さな僕は見えない。僕が飛沫に変わっても、誰も気付かないかもしれない。でも、それでいい。
Tシャツをまくった。タイマーに表示されているのは00:57。僕の人生が時間単位に変わってしまったことが、酷く、寂しかった。
見上げると、相変わらずの雨が僕の鼻先を濡らした。晴れを望む気はもう無い。左手を伸ばして、冷たい雨に触れた。
指にはシルバーリングが光っている。水に濡れて、いつもよりも輝いている。この指輪の形が変わることなく、海の底へ沈んでいって欲しい。それが、僕の最期の願い。
そして音と光が、消えた。