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エトワールの平和な日常

私は猫である。

名前はエトワール。


かの有名な猫とは違い、私にはすでに名前がある。

時に「エトチャン」「エトクン」「エッチャン」「エトワールセンパイ」などと呼ばれることもあるが、どれも私の名前には違いない。

人間は何故か複数の名前で私を呼ぶ。

同じ人間でも時によって呼び方を変えるのだから、よほど飽きっぽいのだろう。

その人間たち自身もまた、複数の名前を所持している。


例えば、いま私の腹を撫でている人間のオス。

名前を「ワタライ」「ワタライクン」「ワタライチャン」「リククン」と複数持っている。

どうやら呼ぶ側の人間が個別に名前をつけているらしい。

ちなみに私は「ワタライ」と呼んでいる。

呼ぶと返事をすることが多いので、この呼び名は気に入っているのだと思う。


このワタライ、随分と撫でるのが上手くなった。

初めて会った時には無作法もいいところだったが、これも私の教育の賜物だろう。


『エトワール、また太った?』


褒めた途端、これだ。

ワタライもまだまだ猫界ではやっていけないようだ。

腹を撫でてくる手を軽く蹴ってやると、『ごめんごめん。怒った?』と手を引っ込めた。


「それよりワタライ、今日はマキはどうした」


マキというのは、私が気に入っているエサ場で働いている人間のオスのことだ。

なかなかいい面構えの人間で、上等なエサを運んで来ることから私の中でいい人間として位置づけている。


『さっきササミあげたのにもうお腹空いた?』

「そうじゃない。マキはどうしたと聞いたんだ」

『うーん。猫も肥満になると怖いってマスターが言ってたしなあ』

「聞いているのか?」

『太りすぎると歩けなくなるんだって。猫も大変だね』

「……ああ、猫は苦労が絶えない」


人間との会話は、大抵は徒労に終わる。

私たちはこんなにも彼らの言葉を理解しているのに、人間ときたらまったくいつまで経っても猫語を理解しないのだから怠惰な生き物だ。


私はワタライとの会話を諦め、起こしていた頭をまた地面へとつけた。


『あ、尻尾びたんびたんしてる……ってことは不機嫌?』


時に、言葉よりも尻尾の動きのほうが人間には気持ちが通じやすい。

機微は伝わらないが、まったく勘違いされるよりはまだましというものだ。


『マキサンに早めに休憩入ってくれるよう言っておくから、機嫌直そう?』

「なんだ。マキは来ているのか」

『お、機嫌直った? お前、マキさん好きだな』

「まあそうだな。マキはいい人間だ」

『じゃあ、俺は戻るね』


私の頭をそっと撫でると、ワタライは建物の中に入って行った。

この建物の中は人間のエサ場になっており、ワタライはそこで他の人間たちにエサを配っている。

猫のみならず人間にもエサを与えているなんて、実に献身的な人間だ。


気候も穏やかなのでこのまま昼寝を楽しんでもよかったのだが、先にいつもの日課をこなしてしまおうと腰を上げる。

ワタライが入って行った建物に沿って少し進むと、それはすぐに見えて来た。

建物からよく見えるように作られた空間。

これを人間は庭と呼ぶらしいが、そこにはマキが作った鳥の罠がある。

小さな箱や皿のような形をした場所に、マキは毎日鳥のエサを入れていた。


私はその罠を見回ることを日課にしているが、今日も罠には多くの鳥が集まっている。

中にはまるまると肥えた鳥もいる。

一体いつまでマキはこの鳥たちを肥えさせるつもりなのだろう。

そろそろ狩り時だと思うのだが。


マキが仕掛けた罠であるから、私が手を出すのは無粋というものだ。

仕方なくこうしてパトロールだけに留めているのだが、いつまで経ってもマキが思い切らないのでたまに焦れてしまう。

狩りの仕方がわからないのなら、教えてやるというのに。


今日もあの鳥たちが私の前にエサとして置かれることはなさそうだと判断し、よだれを飲み込んで人間のエサ場が見える場所に飛び乗った。

窓と呼ばれる透明な板越しにこの中を見るのも、私の仕事のひとつだ。


『見て、猫がいる!』

『かわいい〜! こっち見てるよね?』

『お腹空いてるのかな? 猫ちゃ〜ん、こっち見て〜』


窓の近くに座っている人間のメスたちが、私を見て甲高い声を上げた。

このエサ場によく通っている人間は私を見ても驚かないが、新参者はこうして騒ぐことが多い。

そういった新参者の多くは四角いものを私に向けるのだが、たまに強い光を当てられることがあった。

これをやられるとたまらない。

私たちの目は暗い夜でも辺りを見渡せるほど精度が高い。

その光を集めることに長けた目に強い光を当てたらどうなるかくらい、人間も考えてほしいものだ。

猫の中にはその光のせいで、痙攣発作を起こした奴もいた。

今もまさにメスの一匹が四角い箱を手にしたので、私は慌ててそっぽを向く。


『あ、そっぽ向いちゃった〜』

『猫ちゃ〜ん、こっちだよ〜。写真撮らせて〜』


冗談ではない。

どうして私が人間のワガママに付き合うと思っているのか。


新参者のことは無視して、中の様子を見回した。

ちょうどワタライが人間のメスを誘導している。

ワタライの影になって見えなかった人間の顔が見え、思わず息を詰めた。


「来たか……」


サヨ。


その名前で呼ばれる人間のメス。

この人間は──かなりできる。(地域猫調べ)


このエサ場には最近顔を見せるようになっていた。

以前から少し足を延ばした場所で見かけることはあったのだが、ついにここまで。


どう「できる」のかと言うと、サヨは猫を駄目にする手の持主なのだ。


あの手に撫でられると、どんなに凶暴なボス猫だろうと仔猫のように転がされてしまう。

私もその現場を見たことがあるが、あれはひどい。

威厳も何もあったものではない。

私が見ていることに気づいてから慌てて毛繕いをしていたが、いくら毛並みを整えたところで失った威厳はそう簡単には戻ってこなかった。


幸い、私はまだサヨの手に落ちたことはない。

だがそれも時間の問題だという気がしていた。

何故なら、あのワタライもまた、サヨに手懐けられているからだ。


窓の向こうでは、ワタライがサヨにエサを提供しているところだった。

日頃、ワタライは人間相手に警戒を緩めることはない。

リラックスしているのは私やマスターという人間の前くらいなものだった。

そのくらい警戒心の強いワタライが、サヨの前では違う顔を見せる。

まだいくらか防御本能は機能しているようだが、日に日にその本能が薄れていくのが私にはわかった。


ワタライがあのボス猫のように骨抜きにされる日も、きっと遠くないだろう。

恐るべし、サヨ。


窓越しにワタライと目が合う。

あ、と思う間もなく、ワタライはサヨを促した。

二匹は、私を見て同時に笑う。


本能を失っていくワタライを見て、大丈夫だろうかと一時期は心配した。

だが、どうやらこれは私の思い違いだったようだ。


この二匹はきっと、近いうちにつがいになる。

そう。猫の勘はよく当たるのだ。


私は二匹に笑いかけてやってから、今日のパトロールを終了した。

あとは人間のオスとメスで上手くやるといい。



『見た? 今エトワール、笑ったよね』

『笑った、かなあ。ゆっくり瞬きしただけに見えたけど』

『あ、さてはワタライクンは知らないな? 猫がゆっくり瞬きをする時はね、相手に好きだよーって伝えてるんだって』

『へえ。じゃあ僕もサヨサンにゆっくり瞬きすればいい?』

『え?』

『はい。伝わった?』

『っ! ワタライクン、ここお店だよ?』

『言ったでしょう? 手加減はしないって』

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