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エピローグ

 八月二十二日、午後六時三十分。


「暑いね」と風の止んだ夜空天文台で小夜が呟いた。


 その声は言っている言葉とは裏腹に涼しげで、風鈴の音が暑さを和らげるように涼やかに耳に響く。


 彼女をここに呼び出してから、すでに十分ほどの時間が過ぎていた。

 緊張のせいか、流空の手のひらには汗が滲んでいる。

 それを誤魔化すようにひらひらと団扇のように振って、顔に風を送った。


「ほんと、暑いね」


 小夜が言っても暑さを感じなかったのに、流空が「暑い」と言ったことで、周りの温度がわずかに上がった気がする。

 同じ言葉なのに変だな、と内心で笑った。


 そのおかげか、少しだけ緊張が解ける。

 小夜にもそれは伝わったらしく、周りの空気が弛緩したのがわかった。


 小夜は、何も変わらない。

 いつだって自分のことよりも人のことばかり。


「あのね……」


 言いかけた流空の顔を、小夜の丸い目が見つめる。

 会話が再び動き出したのと同時に、頬を生温い風が撫でた。

 ふわり、と小夜の白いワンピースの裾と、短い髪が揺れる。

 風に乗って香ったのは、小夜が好きなオレンジのハンドクリームの香りだ。


「野本も、内定取れたって」


 言おうとしていたこととはまるで関係のないことが、口を突いて出た。


「わあ、そうなんだ。おめでとう。やっぱりアニメ会社にしたの?」

「うん、そう。業界的に色々厳しいからいやだって言ってたわりには、内定決まった途端に電話がかかってきたよ」

「野本くん、アニメ大好きだもんね。よかったあ」


 小夜はまるで自分のことのように嬉しそうな顔をしていた。


「それじゃあ、もうみんな就職活動は終わり?」

「そうかな? 水城さんももう決めたんだよね?」

「うん。かなちゃんは春に内定くれたところに決めたって言ってたよ。テレビCMを作る会社さんだなんて、すごいよね」

「ほんと。いつか水城さんが作ったCMがテレビで流れることになるのかな?」

「その時は、ちゃんと録画しないとだね」


 やってくるかもわからない未来が、小夜にはもう見えているかのようだ。


 過去ではなく、未来を。


 小夜の気持ちが前だけを向いていることに、嬉しさとほんの少しのさびしさを感じる。


「……小夜さんは、来年から大学院生だね」

「うん。まだまだ、学生期間を謳歌させていただきます」


 冗談めかして言う彼女に、「いいなあ」と形だけでも羨ましがって見せた。

 けれどそれが本心からでないなんてことは、バレバレだったようだ。

 小夜はほんの少し目を細めてこちらを見つめる。


 早く大人になりたかった。


 それは両親と上手くいっていなかったせいもあるが、母との死別を乗り越えたあともその気持ちは変わらない。

 ただ、子供の頃は大人になれば誰にも寄りかからず、ひとりで生きられるのだと思い込んでいた。


 父にも、母にも頼らず、ひとりで気ままに生きていく。

 そのために大人になりたかった。


 けれどいまは違う。

 大人になるということは、ひとりでは生きられないのだと日々感じながら生きていくようなものだと思う。

 もちろん、人にもよるだろう。


 だが少なくとも流空は、父の庇護下から出ることで、父以外の人間にも頼っていくことになるのだろうと感じている。

 そしていつか、自分が誰かを支えられる、そんな大人になりたい。


 一年前、小夜と出会う前の流空だったなら、思いつきもしない考えだっただろう。

 小夜と出会ってから、流空は変わった。

 大げさに言えば、世界の見え方が小夜に出会う前と出会ったあとではまるで違う。

 当の小夜は、自分がそんなにも流空の世界を変えてしまったことに気づいてもいないだろうけど。


「そうだ。全員進路が決まったなら、打ち上げしない?」


 大学院ではどんなことをするのか、したいのかを熱く語っていた小夜が、ぽんと手を打ち鳴らした。


「いいね。マスターに聞いてみようか?」

「グラスマティネのパフェも捨てがたいんだけど、大学でやるのはどうかな?」


 小夜の大きな瞳が、いたずらを思いついた子供みたいに光る。


「夏休み中だから学食もカフェも開いてないけど、空き教室を使って料理は持ち寄りで」


 ──野本と水城さんも呼んで、大学でやろう。


 ふいに自分の声が小夜の声に重なって聞こえて、視線を伏せた。

 去年の夏も、みんなで集まろうとしていたのだ。

 今日と同じ日に。



 叶わなかった約束。


 小夜が忘れてしまっている思い出。



 それはふとした瞬間に流空の胸を刺す。

 その痛みもすべて受け入れると、あの時に決めたはずなのに──。



* * *


「帰る前に、これを見てもらえる?」


 去年の夏、流空は手術を終えた小夜に会いに行った。

 記憶を失う前の彼女との約束を果たすために。


 小夜が用意した五つのテスト。

 そのすべてに答えられなかった新しい小夜。


 以前の小夜との約束を守るため、流空は小夜の前から消えるつもりでいた。

 それを新しい小夜……いや、記憶を失う前の小夜の置き手紙とも言えるものが呼び止めた。


 見てと言われて覗き込んだ手の中には、一枚のメモリカードが置かれていた。

 それは流空が記憶を失う前の小夜から受け取っていたものと、よく似ている。

 しかしタイトルは「Dear myself.」と書かれていた。


「これは、手術をする前の私が、私に宛てて撮ったビデオレターなの」

「小夜さんが、小夜さんに向けて……どうして?」


 問いかけてしまってから、目の前にいる小夜が知るはずがないことだと気がついた。

 けれど、小夜はその質問がくるとわかっていたように、控えめに微笑む。


「私にばかり質問を受けさせるのはフェアじゃないからって……この中の私は、そう言ってた」


 流空が抱くであろう疑問まで見越していたのか。

 当然のように返された答えに、流空も目の前の小夜と同じように微苦笑を浮かべてしまう。


「じゃあ、中身はもしかして……」


 目の前の小夜に質問をしていたのは流空だが、その質問を考えたのは記憶を失う前の小夜だ。

 フェアじゃないということなら、質問ばかりしていて答えていない流空が一番ずるいだろう。


 窺うように言った流空に、小夜はしっかりと頷いた。

 やはり、メモリカードの中身は流空への質問らしい。


 一体、どんな質問を小夜は残していったのだろう。

 目がどうしても、小夜の手の中のメモリカードを見つめてしまう。

 その視線から守るためでもないだろうが、小夜が手の中のメモリカードをきつく握りしめた。


「質問はひとつ。……流空くんに会ってから、この質問をするかどうかは自分で決めるようにって、ビデオの中の私は言ってた」


 小夜が残してくれたものなら、どんなものでも知っておきたいと思う。

 だがそれはあくまで流空の希望でしかない。

 質問するもしないも、決めるのは目の前にいる小夜ということだ。


「うん……」


 小夜が残した言葉を教えてほしい。


 そのひと言をかろうじて抑え込んで頷いた。


「ずっと、迷ってたんだけど……決めました」


 居住まいを正した小夜の目が、「準備はいい?」と流空の目をまっすぐに捉える。

 その目を見れば、どちらに決めたのかなんて聞かなくてもわかっていた。


「流空くん」

「……はい」


 自然と、背筋が伸びる。

 自分がテストを受けることなんて考えもしなかったから、変な汗が背中を流れた。

 質問をするのも緊張したが、答える側もこんなに緊張するなんて。


 せめて事前にヒントくらい言っておいてほしかったと、泣き言を言いそうになる。

 真剣に流空を見つめていた小夜の表情が、ふっと緩んだ。

 笑うというより照れているようなそれに、首を傾げる。

 小夜が、ゆっくりと質問を口にした。


「……あなたは、これからも私の側にいてくれますか?」




* * *


 小夜が残した、流空へのテスト。


 それは記憶を失った小夜へ、バトンを渡すようなものだったのかもしれない。

 そしてそのバトンは流空にとって、小夜を失わずにいられるチャンスそのものだった。


 そうして季節は巡り、再び夏がやってきた。

 例年以上の暑さで。


 この一年、流空は小夜の隣を友だちとして歩いてきた。

 小夜に、かつて自分たちが恋人だったとは話していない。

 それを言ってしまうのは、フェアじゃない気がして。


 もう一度、小夜の側にいようと決めたあの日、来年の八月二十二日に、二度目の告白をしようと決めた。

 一年間ずっと、その気持ちを忘れずに今日を迎えた。


 ──記憶を失った私は、もう私じゃない。


 そう言って泣いた小夜が残してくれた、チャンス。

 それをふいにするつもりはなかった。


 それでも告白に二の足を踏んでいるのは、小夜とした約束を何ひとつ守れていないせいかもしれない。


 ひとつ、術後の小夜に五つの質問をして答えられなかった場合は小夜を忘れること。

 ふたつ、小夜の記憶が残っていなかった場合、預かったメモリカードはすべて捨てること。


 ひとつめの約束は小夜本人が反故にしたとも言えるが、ふたつめのメモリカードについては捨てていないので、約束を破ったことになる。


 だけど、捨てられるはずがなかった。

 あのビデオは、流空に恋してくれた小夜そのものなのだから。


「流空くん?」

「あっ、ごめん。なんだっけ?」


 ぼんやりして話を聞いていなかった流空に、小夜がわざと怒ったような顔をして見せる。

 本気で怒っているわけではないので、その顔がすぐに笑顔へと変わった。

 ころころとよく表情が変わるのを、かわいいと思う。


 その感情に罪悪感を覚えるのは何故なのだろう。

 目の前にいる小夜も、かつて恋人だった小夜も、同じ小夜だと思っているはずなのに。


「打ち上げ、いつにしようって話」

「ああ、そうだった。その打ち上げなんだけど、もう一つ一緒にお祝いしてもいい?」


 なに、と小夜が首を傾げた。


「小夜さんの、誕生日」


 パッと小夜の顔が明るくなる。


「覚えててくれたんだ?」

「うん」


 まだ何も言っていないのに、小夜は嬉しそうだ。


 さあ、おめでとうはいつ言ってもらえるのかな?


 そんな風に期待して待ち構えている目は、夜空の下でさえもキラキラと輝いて見えた。

 その表情を見ているだけで、胸があたたかく満たされていく。


 この人を好きになってよかった。

 好きなままでいさせてもらえて、よかった。


 小夜は流空と過ごした時間は一年間だと思っている。

 流空は小夜と過ごした二年間を決して忘れない。


 その一年の差は、もしかしたら一生埋まることはないのかもしれない。

 けれど、新しく仕切り直すのか、継続していると思うのか、問題はそこじゃない。


 ──これからも、ずっと隣を歩いていくこと。


 それが一番大切なことだろう。

 小夜がたとえ何も思い出せなくても、未来は続いていくのだから。


「誕生日、おめでとう」


 ようやく口にした流空のおめでとうに、小夜が小さく笑った。


「ありがとう。でも……今日のきみは、なんだか変だね?」

「うん。そうだね。ちょっと、変かも」


 ずっと手に持ったままだったので、ポラロイドカメラを持つ手のひらが少し汗ばんでいた。

 落とさないように持ち直して、そうだと思いつく。


「小夜さん、写真を撮ってもいい? 誕生日の記念に」


 写真と聞いて、小夜がボブの髪を慌てて整え始めた。

 写真嫌いは、もうすっかり治っている。


 写真を撮ろうとして怒られたことを懐かしいなと思うのと同時に、これからはもっとたくさん写真を撮ろうと思う。

 アルバムをいっぱいにしたら、小夜にも見てもらおう。


「あ、ちょっと待って。誕生日の記念なら、これも一緒に撮って」


 鞄を探って、小夜はこれ、とピンク色の物体を取り出した。


「それ……」


 流空が去年、小夜の誕生日プレゼントとしてあげたエトワールに似た、ぬいぐるみ。


 誕生日当日が手術の日になってしまったので、前日に渡したものだ。

 いまも時折、鞄につけてくれているのは知っていたが、今日も持っているとは思わなかった。


 そのぬいぐるみに込められた想いを小夜は知らない。

 そのことをさびしくは思うけれど、大切にしてくれているのは嬉しかった。


 小夜が、エトを印籠のように構える。


「エトも今日で……あ、正確には昨日か。一歳を迎えた記念に」


 ファインダーを覗こうとして、「え?」と顔を上げた。


「それ……いつから持ってるのか、覚えてるの?」

「何言ってるの。流空くんが、手術の前の日にくれたんでしょう?」


 少し照れ臭そうに言いながら、小夜がエトのお腹を指先でポンポンと触る。


「ここにいっぱい、愛を詰めて」


 流空くんが、と当たり前のように言われて、目の前が真昼のように明るくなった。

 瞬きの間に、頭の上の星たちが光の尾を引いて一斉に流れ出す夢を見た気がする。

 目の奥が、どうしようもなく熱い。


 消えてしまったはずの、記憶の欠片。


 どうしてそれをきみが?


 すべてを思い出したわけではないのだと思う。


 何をどう、覚えているのか。

 何がどう、繋がっているのか。


 きっと、本人にだってわかっていない。


 けれどやっぱり、小夜は小夜だった。


「え! 流空くん、泣いてるのっ? どこか痛い?」


 瞬いた拍子に頬を伝った涙に、小夜が駆け寄ろうとした。

 それを、「待って」と手のひらで押し止める。


「これは、嬉し泣きだからいいの」

「えっ、え……そうなの? ほんとに?」

「ほんとに。だから、そこ立って。写真、撮らせて」


 笑顔の、写真を。


 戸惑った顔をしていたけれど、流空が泣きながらも笑うので、小夜も表情を柔らかくする。


「撮るよー。笑ってー……仔猫の鳴き声はー?」

「ええっ!? にゃ、にゃー!」


 慌てた小夜が、エトを腹話術するように持って叫んだ。


「そこは流れ的に、にー、でしょー?」


 流空が笑うと、


「仔猫によるよー」


 小夜も笑う。

 鈴を転がしたような声でころころと、幸せそうに笑う。

 その笑顔に向かって、シャッターを切った。


 古いポラロイドカメラから出てきた写真に、ゆっくりといまが映し出されていく。

 星の瞬く夜空の下で、小夜は見ているこちらが思わず笑顔になるような、とびきりの笑みを浮かべていた。


 この写真を見せるだけでも、たぶんこの気持ちは伝わるだろう。

 でも……照れ臭いからこそ、ちゃんと言葉にしようと思う。


 だって、泣いてしまうくらい誰かを好きになれるなんて、こんなに幸せなことはもう、きっとない。



「──ねえ、小夜さん」



 名前を呼んだだけで、僕の鼓動は早鐘を打ち始めていた。




                               ─ 了 ─



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