第二話 やだな、知ってるよ
三日後、面会が可能になったと連絡をもらい、病院へと足を運んだ。
鞄には、小夜の宝箱を入れてある。
すべての質問を終えた時、きちんとさよならをするために。
術後すぐということもあり、きっと小夜の両親同伴の元、面会になると思っていた。
けれど流空が着いた時に小夜の両親はふたりともおらず、看護師にすぐ病室へと案内されてしまった。
意識はその日のうちに戻っていて、とても元気ですよ。
リハビリにももう挑戦してますし、がんばり屋な彼女さんですね。
看護師は、小夜の術後の後遺症についてどこまで知っているのだろう。
流空が、これから自分を忘れてしまったかもしれない恋人に会うことを、知っているのだろうか。
おそらく、知らないのだろう。
知っていたら、こんな声のかけ方をしないだろうから。
よくないなと思う。
小夜の会う前から、誰彼構わず攻撃してしまいたいほど、ピリピリしている。
大丈夫ではないけれど、大丈夫にしなければ。
一度大きく深呼吸してから、ノックをした。
「はい」
病室の中から聞こえた小夜の声に、いやだなと思う。
これから、彼女を試さなければいけない。
ここにいる彼女は何も知らないかもしれないのに。
流空が病室に入った時、小夜はビデオカメラで何かの映像を見ているところだった。
術後の傷を隠すためだろう。
夏だというのにニット帽をかぶっている。
それが痛々しくて、視線を逸らしそうになったが堪えた。
小夜が戦って勝利した、名誉の勲章だ。
小夜がビデオカメラから目を上げた。
あとどのくらいだろう。
あと何分、小夜と一緒にいられる?
前に進むためにここに来たはずなのに、いいことなんて何ひとつ思い浮かばない。
どうしよう、小夜さん。
怖くてたまらない。
小夜の目が、流空を見つめて申し訳なさそうに伏せられた。
さよならの、時がきた。
覚悟はしていた。
していたつもりだったのに、情けなく足が震えそうになる。
ここにいる小夜は、流空を知らない。
小夜の中にもう、自分はいない。
それでは流空が知っている小夜は?
どこに行ってしまったのか。
いつか話した夢の城。
そこにいるというのなら、流空もそこに行ってしまいたい。
自分から入ってきたくせにひと言も話さない流空は、気味が悪かっただろう。
それなのに小夜は迷惑そうな顔はせず、手の中のメモ帳のようなものを見つめて、流空に声をかけた。
「渡会流空くん……で合ってる?」
はっとした。
ぎこちないその呼び方から、覚えていたわけではないのだとわかっても、期待してしまう。
それは何?
と小夜の手にしていたメモを見せてもらった。
そこには、流空の名前が書いてあった。
わかっていた。
わかっていたのに、何度でも期待してしまう。
きみの中にまだ、自分はいるのだと。
小夜はやはり、小夜のままなのだと。
「手術前の私が書いたものみたいなの。手術のあとに、きみがここに来てテストをするからそれに答えるようにって」
本当に、小夜はよく考えている。
流空がこのまま逃げ出してしまわないように、きちんと網を仕掛けていた。
まだどこかで逃げられると思っていた意気地なしな流空を捕まえて、前を向かせようとする。
小夜さん。
きみはどんな気持ちで、自分への手紙を書いたの?
「前期の授業でお世話になった人だって説明だけど、お友だちでいいのかな? えっと……ごめんね、私こんなで……」
忘れたことを謝らせてしまったことに、激しい罪悪感を覚える。
小夜は何ひとつ悪いことなどしていない。
今も、以前も。
「立ちっぱなしもあれだし、座って?」
椅子を勧められ、これはもう逃げられないなと腰を下ろした。
始めよう、さよならのためのテストを。
「渡会、流空と言います。流空でいいよ。自分の名前、好きなんだ」
改めて名乗ると、小夜は口の中で確認するように「流空くん」と呟く。
戸惑うような、はにかむような表情は、流空にも見覚えのあるもので、また期待してしまいそうになる。
小夜が、この名前を好きにさせてくれたのだと伝えたかった。
伝えたら、「やだな、知ってるよ」と笑ってくれる。
そんな夢を思い描いてしまう。
「さっき見てたの、大学のビデオ?」
小夜を困らせるだろう質問は、なかなか出てこない。
質問の内容どころか、小夜の所作のひとつひとつ覚えるほど繰り返し観たのに、いざという時に、出てこない。
「うん、そういうのとか。大学のは入学式の物から見てるんだけど、びっくりするぐらい何も覚えてなくて。ここ三、四年の記憶が失くなってるみたい」
流空の手前、明るい口調を装ってはいるが、大学で過ごした三年という月日を失ったことにショックを感じないはずはない。
それでも、小夜が笑うから。
二度と思い出せないかもしれないと知っていてもなお、歩いていこうとするから。
流空が立ち止まるわけにはいかなかった。
「……小夜さん」
声のトーンで気づいたのか、小夜がいくらか姿勢を正す。
まっすぐな視線はやはり流空の知っている小夜のそれで、よかったと思う。
小夜は生きている。
生きて、笑っていてくれる。
それで十分だ。
「これから五つ、質問をするから答えてもらってもいい? なんのことかわからないだろうけど、僕と小夜さんがしてた約束のためなんだ」
約束とはなんのことなのか、聞かれたらどうしよう。
言ってしまったあとで気づいたけれど、小夜がそこを指摘することはなかった。
わからなくても、質問しないこと。
それも、メモに書かれていたのかもしれない。
手術前の自分から託された手紙を、彼女はどんな気持ちで読んだのだろう。
「まずひとつめの質問……。エトワールのお腹には、何がある?」
エトワールという名前の黒猫を知らなければ、お腹という意味すらわからない質問に、小夜は小首を傾げて「エトワール?」と呟く。
いっそ、流空も忘れられたらいいのにと思う。
小夜と過ごした日々を、こうして小夜に問いかけるうちにひとつずつ、忘れていけたら。
そんなことができたら、少しは楽になれるだろうか。
でもきっと、できない。
思い出になんてしたくないから、忘れることはきっとできない。
「次の質問にしようか」
はい、と小夜が申し訳なさそうに頷いた。
正解を聞こうとしないのもまた、以前の自分からの手紙に何か書かれていたのかもしれない。
「二問目。……人はどうして、眠らなければいけないの?」
細谷教授の映画を小夜が初めて観たのは、一体いつなのだろう。
この質問は流空と出会うよりもずっと前の小夜の記憶にも、きっと関係している。
この質問ならば答えられるのではないかと、希望を感じていた。
「それ……映画の……?」
思った通り、小夜がぽつりと呟く。
いける、と腰を浮かしかけたが、返事は予想外なものだった。
「映画の中でもはっきり描かれてないよね。私も……まだ、自分の中でしっかり言語化できてないの」
だから答えられない。
期待した分だけ、気持ちが落ちる。
小夜の中でこの答えが出たのは、大学生になってからのことなのだろう。
それはそうだ。
あの小夜が、フェアではない質問を入れるはずがなかった。
「三問目。……『夜空天文台』は、どこにある?」
聞いた自分の声が、他人のもののように聞こえる。
頼りなげで、迷子にでもなったようだ。
「夜空? うーん、聞いたことないなあ。わかりません」
質問の数だけ不正解が積み上がっていく。
まるで、さよならの階段をふたりでゆっくりと昇っていっているかのようだ。
「四問目。…………スキキライゲームで、きみが絶賛したジュースは何味だった?」
頭の中で、記憶の中の小夜が笑う。
声を上げて、楽しそうに笑う。
絶賛したなんて大嘘だ。
きみは僕に飲ませようと演技して、最高にマズイジュースを飲んで見せた。
忘れようったって、あの味は忘れられない。
けれど目の前の小夜は、首を横に振る。
「ごめんなさい。そのゲームのことも、覚えてなくて」
謝らなくていいんだ、と言おうとした唇が、震えて上手く動かなかった。
一瞬の間に視界がぼやけて、俯く。
拳にした手の甲に、水滴がぽつりと落ちた。
「あの……」
心配気に声をかけようとしてくれた小夜に、手のひらを「待った」の形で向ける。
やってしまってから、これは小夜がよくしていた動作だと気づいた。
知らないうちに、移ってしまっていた。
大丈夫と言おうと思ったのに、涙は余計に止まらなくなって、嗚咽が漏れる。
次で、最後の質問なのに。
何度も、何度も繰り返し観たから、質問の内容だって完璧に頭に入っている。
それなのに、言葉の代わりに出てくるのは涙ばかりだ。
この質問が終わったら、小夜と別れなければいけなくなる。
小夜のために、自分のために。
でもさよならなんて、できるのかな。
こんなにも辛いのに、小夜なしで前を向ける日なんて、来るのかな。
流空と小夜の道が分かれても、時は過ぎていく。
残酷なまでに、いままで通りに。
同じ教室に小夜がいても、話しかけない。
中庭で擦れ違っても、振り返らない。
カフェテラスで肩がぶつかっても、他人みたいにひと言謝るだけ。
一緒に笑い、姿を見かける度に振り返り、目を見つめ合っていた日々はすべて夢で、シャボン玉のように割れてしまった。
流空くん、と甘えたような声で呼ばれることも、なくなる。
拗ねて、怒って、照れて、笑った。
当たり前だった。
小夜が隣にいること。
それが当たり前なんだと、いつの間にか思っていた。
二度と、小夜を腕の中に抱くことがないなんて、どうしたら気づけていただろう。
あの日がもう、最後だったなんて。
知らないままに、気づけないままに。
もう二度と会えないなんて思いもせずに、毎日を過ごしていた。
僕は何回、きみに好きだと告げただろう。
もっと前にわかっていたら──。
わかっていたら?
わかっていても、きっといまは変わらない。
何も、変わらない。
止まらない涙を、手のひらで乱暴に拭った。
もう顔がぐしゃぐしゃだ。
それでも、最後の質問をしないといけない。
小夜が待っている。
さようなら。
ありがとう。
きみのことが、大好きです。
だから笑って。
みっともなく、鼻をすすった。
小夜くらい、格好良くできたらいいのに。
「ごめんね。最後は……」
ようやく踏み出した流空の顔の前に、さっとティッシュの箱が差し出された。
目を丸くしていると、小夜が慌てたように一、二枚取って流空の手に握らせる。
「大丈夫だよ! 大丈夫だから、これ使って!」
まるで小さい子を宥めるような口調に、笑ってしまった。
それにほっとしたように、小夜も笑みを浮かべる。
「高級ティッシュだから、鼻の皮もむけないよ。感動するくらい柔らかいの」
──鼻に優しい高級ティッシュだよ。柔らかくて感動するよ。
頭の中で、かつて聞いた声が重なった。
自然と、唇が笑みを描く。
やっぱり小夜は、何も変わらない。
それがわかっただけでも、満足しなければ。
「……ありがとう」
もらったティッシュで、盛大に鼻をかんだ。
涙目ばかりはどうしようもなかったけれど、声は出る。
「五問目。……来年の八月二十二日は、何をしてる?」
続けられた質問に、小夜が驚いたように瞬きを繰り返した。
けれど、流空の覚悟を受け取ったように、表情を引き締める。
「来年は……まだ、決めてません」
これで、さよならだ。
静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐きだした。
すべての質問を終えた。
そしてそのすべての質問に、小夜は答えられなかった。
それは、いま流空の目の前にいる小夜は、かつての小夜とは別人だという結論を出したことになる。
未練はある。
山ほど、ある。
納得だって、正直していない。
でも、約束したから。
小夜とあの日した約束は、とても大切なものだ。
小指を結んだ感触だって、まだ覚えている。
あの時の小夜の願いを叶えてあげられるのは、流空だけだから。
その流空が、裏切るわけにはいかない。
「……おかしなことに付き合わせて、ごめんね。ありがとう」
長居をすると、その決意も鈍ってしまいそうだ。
また泣き出してしまう前にと腰を浮かせた流空を、小夜が慌てて引き留めた。
「あ、待って待って!」
棚から取ったらしい鞄が、膝の上に載せられている。
そしてその鞄には、ピンク色のぬいぐるみがつけられていた。
あげたものなのだからつけていてもちっともおかしくないのに、心がぐらりと揺れる。
「これ、あげる」
エトと小夜が名付けたぬいぐるみから目を離せずにいると、目の前に手のひらを差し出された。
「鞄の中に入ってたから、賞味期限も大丈夫だと思う」
購買で一番高い、ミルクチョコレート。
流空の鞄の中にも、同じものが入っている。
手術を終わったあとに、がんばった小夜にあげると言っていたものだ。
小夜も、用意していた。
きっと流空にくれるために。
けれど、あげようと思ったことも、あげる相手のことも忘れてしまって、チョコレートだけが鞄の中で待っていた。
「よくわからないけど、たぶんきみはたくさんがんばる人みたいだから、あげる。がんばってるご褒美だよ」
どうして、と声が漏れていた。
流空のことも、流空と過ごした時間もすべて失くなってしまったはずなのに、どうして同じ笑顔で同じことをするの。
諦めようと、約束を守ろうとしている僕を、試そうとするの。
「がんばったのは、小夜さんでしょ……」
チョコレートをひとつ手に取ると、小夜も箱の中からひとつ取った。
「じゃあ、私にはきみが渡してくれる?」
取ったばかりのチョコレートを渡されて、くださいと手を広げられる。
小夜の手にチョコレートを載せようと思うのに、視界がぼやけて上手くいかなかった。
流空の質問には正解してくれないくせに、諦めさせてもくれない。
なかなかチョコを渡せずにいる流空の手に、小夜のほうから手のひらを寄せてくれた。
その小さな手のひらの上に、チョコを置く。
「ありがとう」
小夜は手の中にしっかりとチョコを握り締めてから、居住まいを正した。
それは、戦場に出向く前の武士みたいな固い所作で、流空は滲んだ視界を凝らすように小夜を見る。
「帰る前に、これを見てもらえる?」
さっきまでチョコを握っていた手を、ゆっくりと開く。
「え……」
その手の中にあったのは、すでに見慣れてしまったメモリーカード。
けれどそこに書かれているのは『Dear Riku』でもなければ、日付でもなかった。
──Dear myself.
どういうことだと、眉根が寄る。
「これは、手術をする前の私が、私に宛てて撮ったビデオレターなの」
「小夜さんが、小夜さんに向けて……どうして?」
「私にばかり質問を受けさせるのはフェアじゃないからって……この中の私は、そう言ってた」
フェアじゃない。
いかにも、小夜が言いそうなことだ。
「じゃあ、中身はもしかして……」
いくらフェアではないと言っても、過去の小夜に質問をすることはできない。
となると、質問に答える人物は……流空しかいなかった。
「質問はひとつ。……流空くんに会ってから、この質問をするかどうかは自分で決めるようにって、ビデオレターでは言われてたのね?」
「うん……」
「ずっと、迷ってたんだけど……決めました」
どっちに、と聞き返す必要はなかった。
小夜はピンと背筋を伸ばして、流空の顔をまっすぐに見つめている。
流空が大好きな澄んだ瞳で。
「流空くん」
「……はい」
小夜さん、きみは僕のために上手なさよならの仕方を教えてくれた。
この質問も、その一環なの?
それとも……。
「あなたは──……」




