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きみを殺すための5つのテスト  作者: 狐塚冬里
第一章 始まらないドラマ
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第四話 母さんとは、連絡を取ってるのか

 自宅近くのコンビニに寄ってから帰ると、春の空はもう夜の色になっていた。

 コンビニ弁当の入ったビニール袋をテーブルに置き、リビングのソファに足を投げ出して座る。


 ただいまもおかえりも言わなくなったのは、いつからだろう。


 大学に入り、ひとり暮らしを始めてからではないと思う。

 たぶん、もっとずっと前から。


 学校から帰った時に、家に人がいた記憶を探すには随分遡らないといけなくなる。

 無意識に思い出そうとしている自分に気づき、疲れているなと小さく吐息をついた。

 それなりに長い春休みが明けた、授業初日だ。疲れもする。

 三年にもなって五限まで授業を入れたのは、失敗だったかもしれない。

 けれど、その五限目が細谷教授の授業なのだと思えば、多少の疲れくらい大目に見なければ。

 それに、明日は金曜。

 金曜は授業を入れていないので、金、土、日と三連休だ。


 大学生というのは、気楽な身分なのかもしれない。

 学費を親に出してもらい、仕送りまでもらっている身ならなおさら。

 仕送り、と考えて今月はまだ父に連絡を入れていなかったことを思い出す。

 毎月、仕送りを確認したあとには生存報告の意味も兼ねて電話をしていた。

 強制されているわけではなかったが、養われているという精神的な負荷を少しでも減らすために、流空が勝手に決めたルールだ。

 メールやメッセージアプリで一言送ってしまえれば楽なのだが、生憎、父はそういったものを好まない。

 これも義務だと自分に言い聞かせ、父の番号をスマホで呼び出した。


 電話はなかなか繫がらない。

 電話をかける前に時間を確認したが、定時は過ぎていたはずだ。

 とはいえ、父がこんな時間に仕事を終えているとは思えなかった。

 子供の頃からずっと、父親とは流空が寝ている間に帰ってきて、朝は不機嫌そうな顔で新聞を読んでいる生き物だった。

 平日はそんな調子で、土日になると早朝から接待ゴルフへと出かけていく。

 流空が幼稚園に入るより前は少し違った気もするが……遠い記憶すぎて思い出せない。


 電話が留守番電話に切り替わり、今月はメッセージを残すだけにしようと頭の中で文章を組み立て始めた頃、『もしもし』という乾いた声が聞こえた。


「……父さん、少し時間大丈夫?」

『ああ、問題ない』


 父の声を聞く度に、砂漠の風景を思い描く。

 決して不快な声ではないのだが、水気がなく平坦で、どこまでも乾いている。

 さらさらと指の間を零れ落ちて何も残らない。

 流空は父親似だが、声も人から聞けば似ているのだろうか。

 そうでないといいなと思う。


「今月の仕送り確認したよ。ありがとう」

『そうか』

「それじゃあ」


 いつもならここで切れる電話が、まだ繋がっていた。

 スピーカーの向こう側から、電車のドアが閉まる時に聞こえるベルが聞こえてくる。

 珍しい。

 残業せずに、すでに帰っているところなのだろうか。

 ひとり、あの広い家に帰る父の姿を想像しそうになって、無意識に頭を振った。



 いい加減、間が気になる。

 こちらから声をかけようかと思っていると、ようやく父の声が聞こえた。


『……母さんとは、連絡を取ってるのか』


 ちょうど電車が通り過ぎたのか、雑音がうるさい。

 眉間に、しわが寄った。


「は? ……なんの話」


 流空の声のトーンが低くなったことに、父は気づいただろうか。

 気づいてほしいのか、ほしくないのか自分でもよくわからない。

 だが、好ましい会話だと思っていないことだけは通じたようで、父は溜息と共に「そうか」と言って電話を切った。

 父が挨拶もなしに電話を切るのは珍しくない。

 それはわかっているけれど、せめて会話を成立させてから切ってくれと言いたくなった。


 母さん。


 あの人はまだ、別れた女のことをそう呼んでいるのだろうか。

 連絡を取るも何も、流空は肝心の連絡先を知らない。

 それに、両親が離婚してからどのくらい時間が経ったと思っているのだろう。

 母とは、離婚成立後に一度会ったきりで、今さら話す内容も思いつかないというのに。

 その一回すら、母はすでに母ではなく、限りなく肉親に近い他人だと感じていた。


 ソファの背に頭を乗せ、ぼんやりと天井を見上げた。

 父のことも、ましてや母のことも考えたくないと思うのに、勝手に顔を思い浮かべてしまう。

 けれどそのどちらも輪郭があやふやで、苦いものが胸を満たしていく。

 何か別のことを考えないとずっと両親のことを考えてしまいそうで、なんでもいいからと頭を巡らせた。

 そうして思い浮かんだのは、前の席に座った女の子、鷲尾小夜のことだ。


 授業が始まってから、会話を交わしたからではない。

 まったくその逆だった。

 彼女は、授業中ただの一度も流空を振り返らなかった。

 授業を受けているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、プリントを後ろへ配る時すら、頭を後ろへ向けない。

 それでいて、プリントが落ちないようにと必死に腕を真後ろに向けているものだから、プリントが配られた二度とも、彼女の腕は危うく流空の鼻先を殴打するところだった。

 ああまで必死になられると、さすがに気になる。


 流空の何が、彼女を頑なにしているのだろう。


 顔を合わせたのは今回の授業が初めてだと思っていたが、流空が覚えていないだけでそれ以前に面識があったのだろうか。

 あるいは、一方的に知られていたのか。


 ──鷲尾小夜。わかっているのは名前だけだ。


 他の授業で一緒になったことはないかと去年の様子を思い出そうとしてみたが、徒労に終わった。

 同じ授業の教室にいた学生なんて、ぼんやりとした人の塊ぐらいにしか覚えていない。

 むしろ、はっきりと顔を思い出せる小夜のほうが珍しかった。

 両親の顔より、よほどよく思い出せる。

 両親はしばらく顔を合わせていないせいもあるが、たとえば、今日知り合った隣の席の男、野本よりも小夜のほうがしっかりと思い出せた。

 見た目がころころ変わる女子なんて、いつもなら何度も会話を繰り返さないと覚えられない。

 だからかなり希有な存在のはずなのに、じっと見つめられたり、よろしくを断られるような覚えはどこを探しても見つからなかった。


「……やめた」


 何も、無理に思い出さなくてもいい。

 映像表現実習の授業は週に二コマある。

 そのうちに話す機会もあるだろう。

 もしなくても、喧嘩を売られたりしなければ問題はない。

 それよりも差し迫った問題は、明日からの三連休だ。

 授業は始まったばかりでこれといった課題は出ていない。

 同じ学科の連中の中には就職セミナーに行くと言っていた者もいたが、流空はまだそんな気持ちにはなれなかった。


 三年生になったばかりで就職活動。

 今の就職率を考えれば妥当な判断なのだとは思う。

 だが、社会人になって働く自分が想像できない。

 美術大学という場所がまた、社会人のお堅いイメージから遠いせいもある。

 同期生の中に、本気で写真家を目指している者がどのくらいいるのかは知らない。

 けれど、入学当時はみんなそれなりに夢を持っていたのではないだろうか。

 流空とは違って。


 目立つほど上位の成績を取っているわけでも、賞などを獲っているわけでもないので、本当なら流空もさっさと就職活動に頭を切り換えたほうがいい。

 入りたい会社がなくても、いくつも面接を重ね、自分を欲しいと言ってくれた場所に就職する。

 そうしてそこで、自分のやりたいことを探せばいい。

 と言っていたのは、四年生の春になっても内定がひとつも出ていない先輩だっただろうか。


 そう親しかったわけでもないが、会う度に一回りずつ小さくなっていくような様子は気にかかった。

 就職活動とは、それほど過酷なものだ。

 しかし身近でそういった人物を見ているからこそ余計に、まだ動き出したくはなかった。

 一度走り出してしまえば、次に立ち止まれるのは就職が決まった時だ。

 決まる前に立ち止まってしまった人は、大学院に入って時間稼ぎをしたり、いつの間にか大学から姿を消していたりする。

 だから、きちんと走り切れる心の準備をしてから、一歩目を踏み出したかった。


 などと言うと、将来のことを考えているようで格好いいが、ようは覚悟が足らないだけのことだ。

 まだぬるま湯に浸かるようなこの大学生活に浸っていたい。

 学費を出してもらい、十分な仕送りももらい、親の庇護下にいられる最後の時間を。



 親の庇護下……そんな考えがまだ自分にあることに驚いた。

 あの父に、自分は守られているのか。



 閉じていた目を開き、白い天井を睨みつける。

 余計な時間があるからどうでもいいことを考える。

 大学生は自由でいいが、暇なのがいけない。

 ポケットに入れたままにしていたスマホを取り出し、連絡帳から番号を呼び出した。

 この時間ならまだ、手が空いている人がいるはずだ。

 予想通り、コール音が三回も鳴らないうちに相手が出た。


『はい、カフェ・グラスマティネです』

「お疲れ様です、渡会です。マスターいますか?」

『店長ね、待って』


 笑みを滲ませた声が遠くなる。

 いつも店で流しているクラシック音楽が受話器の向こうから聞こえてくるということは、やはり店はそんなに混んでいないのだろう。

 蓄音機から流されている少しだけ音程の外れたワルツに耳を傾けていると、受話器の持ち上げられる音がした。


『お待たせ、渡会くん』


 電話越しでも微笑んでいるのがわかる柔らかい声。

 流空の通う大学から徒歩五分の場所にある、カフェ・グラスマティネのマスターである湯川とは、知り合ってすでに三年になる。

 立地とマスターの人柄が気に入り、大学に入ってすぐバイトの求人に申し込んだ。

 恋人がいる時期はシフトを少なめに、いない時期は試験期間でなければガッツリ入らせてもらう。

 そんな我侭を聞いてもらえるバイト先なんて、この先たぶん見つからない。

 流空が、他のバイトがいやがる朝番や盆暮れ正月でも、問題なくシフトに入れるせいもあるかもしれないが。


「お疲れ様です。明日から暇になっちゃったんですけど、入れませんか?」


 今月のシフトはすでに組まれており、恋人と別れる予定のなかった流空は、月曜と火曜しか入らない予定だった。

 それなのに急に暇になったということは、その恋人とうまくいっていないということを示している。

 初めてのことでもないので、マスターもそこは慣れっこだ。


『ありゃ、そうなの。ちょっと待ってね』

「はい」


 受話器の向こうから、紙を捲る音が聞こえる。

 電話の横に置いてある丸い木製の椅子に腰を降ろし、シフト表を見ているマスターの姿が思い浮かんだ。

 緩やかなカーブを描く白髪交じりの髪に、笑みを刻んだ唇には品のよい口髭。

 ラクダやキリンといった草食動物のような穏やかな瞳が、ゆっくりと、丁寧にシフト表の時間を追っていく。

 パソコンを使ったほうが楽だと思うのだが、マスターは紙は趣があっていいとずっと手書きで管理していた。

 時間よりも趣といった非合理なものを愛でるところがいいなと思う。

 あまり、周りにいなかったタイプの大人だ。


『いいよ。金、土、日と早番で入ってもらえる?』

「すみません、無理言って」

『その分、僕が楽させてもらうから。それに渡会くんが入ると女の子のお客さんが増えて、お店的には売り上げが上がっちゃうんだよね』

「喜んでいいところですか?」

『うーん、どうかなあ』


 マスターとの会話はいつもぼんやりとしている。

 少しだけ時間の流れがゆったりとしたのを感じながら、礼を言って電話を切った。

 明日からの空白は問題なく埋まった。

 昔から、予定のない日というのが苦手だった。何をしていいか、わからなくて。


 たぶん、やるべきことはたくさんある。

 趣味と言えるものも一応ある。

 それなのに、急にできた空白の時間を持て余してしまう。

 基本的に、やりたいことがないのだ。


 だからこそ、夢を持って美大に入った学生たちは眩しくもあったのに、同期はその夢を忘れ就職活動に血眼になっている。

 一年前のこの時期は、みんなカメラを手に目を輝かせていたし、おかしな作品作りに没頭している者もいた。

 それがたった一年で、個性的だった服装は似たり寄ったりのリクルートスーツに変わり、目からは生気が失われていく。

 憧憬を抱いていた分、彼らの変化は流空には受け入れがたいものだった。

 ああでも、と小柄なシルエットが頭の中に浮かんだ。


 彼女──鷲尾小夜は、まだ何か別のものを見ていた。

 夢とはまた違う気がしたけれど、何かを追いかけている目。

 あれは何を見ているのだろう。


 授業が終わったあと、小夜はまたビデオカメラを回していた。

 教室を出て行く細谷教授の横顔から。

 咎められるぎりぎり一歩手前のタイミングだ。

 そこまでして、一体何をビデオに収めようとしているのかが気になった。

 ビデオを撮っている間に彼女の友人らしき女子が来て、すぐどこかへ行ってしまったからそれ以上のことはわからなかったけれど。


 でも、また来週顔を合わせる。

 いっそこちらから声をかけてみようかと考えて、彼女の凜とした声を思い出した。


 ──よろしくは、いりません。


 距離を縮める間もなく、ばっさりと切り捨てられた。

 同性もそうだが、特に異性の一部には酷く嫌われることがある。

 理由は自分ではわからないが、生理的に嫌いなタイプというやつだろう。

 流空にも、何を話したわけでもないのに苦手意識のある人間というのはいる。

 そういった人間と距離を縮めるのは難しい。

 こちらから近づけば余計に嫌われるし、かといって向こうから近づいてくることはまずない。


「どうしようかな……」


 誰もいない部屋で呟いてから、そこまでする必要がどこにあるのだろうとふと冷静になった。

 何も、近づかれたくないと意思表示している人間に嫌がらせをしなくてもいい。

 前と後ろという席の関係上、授業に差し支えが出てきたタイミングでまた考えよう。

 そう思うのに、中庭で向けられた小夜の強い視線が、目の前で焚かれたフラッシュのようにいつまでも目の裏に焼き付いて消えてくれなかった。


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