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きみを殺すための5つのテスト  作者: 狐塚冬里
第五章 大好きだから、さよなら
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第九話 私を殺して

 病院を出てタクシーを捕まえようとしたが、病院に来るのは迎車ばかりでなかなか捕まらない。

 駅までは約二十分。

 すぐに見切りをつけて、走り出した。

 行きは歩いて下った緩い坂道が、やけにきつく感じられる。

 夜で幾分気温が下がっているとはいえ、汗が額から伝い落ちた。


 早く。

 一秒でも、早く。


 小夜のいる場所には、ひとつだけ心当たりがあった。

 けれど、そこに辿り着くまでの距離が、時間が、もどかしい。


 どうしてすぐに追いかけなかったのかと、自分を責めたところで時間は巻き戻らない。

 ようやく駅に着いた時には、完全に息が上がっていた。


 改札を抜け、ホームまで階段を駆け上る。

 電車は行ってしまったばかりのようで、「ああ、もう!」と声が漏れた。

 次の電車がやってくるまで、五分。


 小夜に何度も電話をしたが、繋がらなかった。

 そもそも、バッグを持ってはいても、スマホも持って出たのかはわからない。

 でも、たとえ繋がったとしても直接会って言いたい言葉しか、思い浮かばなかった。


 機械を通せば言葉は残る。

 だからこそ余計に、ちゃんと目を見て小夜に伝えたかった。


 ホームに入ってきた電車に乗り、ドアの端に寄りかかって窓の外を眺める。

 ゆっくりと動き出した景色の中に、いるはずもないのに気がつけば小夜の姿を探していた。


 こうしている間も、小夜の病状は待ってなどくれないだろう。



 このまま、二度と会えなくなってしまう可能性だって……。



 嫌な考えが頭を過ぎり、身震いをするように頭を振った。


 大丈夫だ。

 きっと、間に合う。


 自分に言い聞かすように大丈夫と唱えて、「ああ、そうか」と笑った。



 「大丈夫」は、小夜の口癖だ。



 強がりでもあったし、人を思いやる言葉でもあったそれは、お守りでもあったのだろう。

 唱えていれば、「大丈夫」。


 小夜さんは、きっと大丈夫だ。




 やっと大学まで辿り着いた時には、走り通しで肺が痛かった。

 暗い大学の構内に足を踏み入れ、小夜の姿を探しながら走る。

 中庭にも、カフェテラスにも小夜の姿はなかった。


 小夜のいる場所に心当たりがあるとはいえ、明かりひとつついていない校舎を見てしまうと不安が頭をもたげる。

 本当にここに、小夜はいるだろうか。


 もし、小夜がすでにあの場所のことを忘れてしまっていたら……。


 覚えていない、ということを想定していなかったことに、足が止まった。


 そうか。

 その可能性があった。


 小夜自身が、どこに行ったらいいのかわからずに迷っていたら、見つけようがない。

 焦ってスマホを取り出し、再び小夜の番号を呼び出した。

 コール音が三回聞こえたあとに、『留守番電話に繋ぎます』と自動音声が流れる。


「どうしよう」


 情けない声がぽろりと出てしまい、慌てて口を押さえた。

 どうしようなんて言っている暇があったら、小夜を探したほうがいい。

 止まりかけていた足を叱咤し、十一号館を目指した。


 十一号館の屋上。


 そこで流空は小夜に大切なことを教えてもらった。

 そこから、僕たちははじまった。




 夏休みの、それも夜だというのに屋上へと続く扉はすべて開いていた。

 それは流空よりも先に誰かが通った道標のようなもので、一歩進むごとに期待が高まっていく。


 ついに、最後の扉まで辿り着いた。


 鉄製の重いドアを勢いよく開けると、星空の下にぽつんと、小夜が立っている。

 小さな背中が、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「……やっぱり、ここは大切な場所なんだね」


 小夜の目が、さびしそうに瞬く。

 そこに、この屋上で交わされた記憶の欠片は見つからない。


 ふたりの、大切な場所。

 流空と小夜だけの──夜空天文台。


 そう名付けたことすらきっと、小夜の中からは消えてしまった。


「思い出は……また作ればいいよ」


 ここでもらった言葉はとても大切なもので、流空はきっと一生忘れない。

 小夜の中からその記憶が失くなってしまっていても、流空がちゃんと、覚えている。


 同じ日を、同じ思いを共有できなくなることはさみしい。

 けれどそれは、大切な思い出自体がなくなってしまうのとは違う。


 この夜空天文台でいま交わしている会話さえも小夜が忘れてしまったとしても、流空は忘れない。

 絶対に、忘れない。


「ここ、星がきれいに見えるよね。今度、望遠鏡を持ってくるから一緒に見よう?」


 新しい思い出を作ろう。

 なんでもいい。

 毎回、新しい思い出になってしまってもいい。

 小夜がいてくれれば、すべてが大切な思い出になる。


 しかし、小夜は頷いてくれなかった。


「……手術さえしなければ、私のままでいられるんじゃないかって、思ってたの」


 言いながら、小夜が夜空を見上げる。

 こんな時だというのに、星は美しく瞬いていた。


「でも、どうしてここが大切な場所なのかも思い出せない。ほんとは……もう死んじゃってるのかな」


 涙こそなかったけれど、小夜は泣き出しそうな顔をしていた。

 ひとりぼっちみたいな顔をさせたくなくて近寄ろうとしたけれど、流空が一歩踏み出すと小夜が首を横に振る。


「私、流空くんが好き。見栄っ張りで、誰にでも優しいけどいじわるなところもあって、でも本当はさみしがり屋。きみを、ひとりにしたくないよ」


 ひとりにしないでよ。


 喉元まで出かかった言葉は、奥歯を嚙みしめて堪えた。


「ううん、噓。違う。いい人みたいなこと言ったらダメだね」


 はにかむように、小夜が笑う。


「私が、流空くんと離れたくないんだ」


 小夜の笑顔はとても透明で、きれいだった。


 こうしている時間も、消えてしまうのだろうか。


 記憶というのは、人間のなんなのだろう。


 心ではないと思うのに、限りなくそれに近い。




 消えてしまったら、人は何になるのだろう。




「小夜さん。……手術を受けて」


 小夜の目が、静かに流空を見つめた。


「……両親に、説得された?」

「違うよ」


 ここへは、流空の意思で来た。

 小夜が何に怯えて手術を拒んでいるのかも、きちんと理解しているつもりだ。

 理解した上で、手術を受けてほしいと言った。

 それが、誰よりも流空を選んでくれた小夜への裏切りに近いとわかっていても、言わないわけにはいかなかった。


 流空には、小夜に忘れられてしまうよりもずっと、怖いことがあるから。


「小夜さんにはずっと、笑っててほしいんだ」


 母のように、永遠に失ってから後悔なんてしたくなかった。


「笑顔を、僕に撮らせてよ」

「でも……」


 わかっている、と言葉にされる前に頷く。

 手術を受けて成功したとしても、小夜が流空に笑いかけてくれるかはわからない。

 流空のことなど忘れてしまって、違う誰かのことを見つめるようになるかもしれない。


 それでも──小夜には生きて、笑っていてほしい。


「そうだ。手術が終わったら、チョコをあげる。購買で一番高いミルクチョコをたくさん使って、チョコレートパフェを作るよ」


 たくさんがんばった人にあげる、ご褒美。


「「がんばったで賞」」


 小夜が、ころころと鈴が転がるような声で笑った。


「流空くんにはかなわないなあ……」


 柵に背を寄りかからせて座った小夜の横に、流空もゆっくり腰を下ろす。

 今度は、断られることもなかった。

 すぐ近くに、体温を感じる。


「ひとつ、約束してくれる?」


 小夜の手が、流空の手を摑んできつく握りしめた。

 何を、とは言われなかったけれど、そんなことどうでもよかった。


「うん。約束する」

「まだ言ってないよ?」

「それでも」


 額に唇を寄せると小夜はくすぐったそうに笑い、


「流空くんのそういうところ、すごく太っ腹だなって思う」


 褒めてるのか貶されているのかよくわからないことを言う。


「これをね、渡しておくから」


 繫いでいた手を引かれ、手のひらに小さな鍵を置かれた。

 オモチャの鍵のようにやけにかわいらしいデザインで、とても軽い。


「なんの鍵?」

「宝箱。小さい頃に親にねだって買ってもらった、これくらいの大きさの」


 これくらい、と言いながら、小夜は子犬程度の大きさを手で示す。

 おそらく、子供の頃に憧れたおとぎ話の類いに出てくるような、オモチャの宝箱なのだろう。

 きらきらとした装飾のついた箱を想像する。


「その箱の中に、私がいるから」


 いたずらをしかけている顔ではなかった。

 本当に、そこに小夜がいるのだと思わせるだけの真剣さが、小夜にはある。


「手術のあと、私が流空くんのことを忘れていたら、私を殺して」





 ──私を、殺して。





 約束をすると、すでに言ってしまった。

 けれど、流空は小夜を生かすために手術を受けてほしいと言いに来た。

 これでは反対だ。


 真意を探るように小夜の瞳を覗き込む。

 小夜は真剣そのものだ。


「その箱に、流空くんに恋をした私のすべてが入ってる。私が記憶を失くしてしまっていたら、抜け殻の私にはそれを見せないで、捨てて」


 小夜は、自分というものを記憶と結びつけている。

 その小夜が、自分自身という物はひとつしか思い当たらなかった。


「……箱の中身は、小夜さんが撮った映像だね?」

「うん、そう。流空くんのことを撮った、映像。思ったよりたくさんあって、びっくりしちゃった」


 箱いっぱいにあるんだよ、と小夜は笑う。


「もし……記憶を失くしちゃったとしても、それを使ったら魔法みたいに元の私に戻れると思ってたんだけど、期待が外れちゃったから。新しい私には見せてあげない。だって、私じゃない私に流空くんを取られるなんて、悔しいから」



 ──だから、捨てて。殺して。



 流空という存在を忘れてしまっていたら、記録としての流空も小夜の中には入れない。

 そこから生まれる新しい感情は自分ではないのだと、小夜は言う。


 一度リセットボタンが押されてしまったら、それでおしまい。

 頭からやり直した時には、違うエンディングへと突き進むと、小夜は言う。


 記憶を失っても、小夜は小夜だ。

 流空の中では何も変わらない。


 けれど小夜が、小夜自身が、記憶を失くした自分はもう自分ではないと言うから。

 自分じゃない自分を愛さないでくれと、言うから。



 流空はそれを受け入れる。


 小夜が幸せでないなら、側にいても意味がない。


「それが、約束?」


 別れが。

 近づいている。


 こんなにも存在は近くにあって、体温すら感じるのに、離れてしまう。


「そう。私の手術を見届けて、箱の処分をすること。それが流空くんへのお願い。約束してくれるなら、手術を受けます」


 凜とした、小夜の声を好きだと思う。

 意思の強そうな黒い瞳を、好きだと思う。

 艶やかな長い黒髪も、柔らかな頬も、小さな唇も。


 そのすべてを手放せと、小夜は言っている。

 心という、ひとつのものを守るために。


 酷い話だと思う。


 無事に手術を終えても、記憶を失った彼女の横に、流空はいられない。

 それでも、流空は小夜に手術を受けてほしいとしか言えない。


 本当に、酷い人だ。

 でも──とても小夜らしいと思う。


「……わかった。約束する」


 もう一度、今度はしっかりとその重みを受け止めて言葉にした。

 小夜が、ほう、と吐息を落とす。


「ありがとう」


 手術が終わったあと、小夜の中に自分がいなかったその時は、お別れだ。

 小夜のくれたたくさんの思い出と気持ちと一緒に、流空の恋も終わる。


 それが、小夜と交わした約束。


 差し出された小指に、流空も小指を絡めた。

 上下に軽くふり、指を離す時にキスをする。


 小夜の唇は、涙の味がした。


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