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きみを殺すための5つのテスト  作者: 狐塚冬里
第五章 大好きだから、さよなら
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第八話 僕はどうしたらいい?

 小夜が出て行ってしまったあとも、流空は動けずにいた。

 小夜が考えるように、記憶を失うということは別人になるということなのだろうか。

 命よりも、記憶が、自分という存在が、大切なものなのだろうか。


 生きていることのほうが、大切なんじゃないのか。


 流空は、小夜に生きていてほしい。

 でも、忘れられたくないとも、思うのだ。


 いくら記憶を失おうと小夜は小夜だ。

 そう思うのに、自分という存在が小夜の中から消えて、何もなくなって、どこにもなくなった時、どうなってしまうのか。


 わかっている。

 それでも、小夜が生きていることが大事だ。


 わかっているはずなのに、身体が痺れたように動かない。


 誰よりも人のことを優先してきた小夜が、自分の意思で選んだことだ。

 家族や友人のために生きることよりも、自分の命よりも、流空と築いてきたいまの記憶を持った自分を、失いたくないと言ってくれた。

 その気持ちを、流空が「正しくない」なんて言えるはずがない。

 むしろ流空だけが、小夜のこの気持ちをわかってやれるのではないか。


 忘れたくない。

 忘れられたく、ない。

 なかったことになんて、されたくなかった。

 だから、このまま。

 


 このまま?



 このまま、どうなるというのだろう。


 手術を受けなければ、小夜は死んでしまうのだ。

 たとえ流空のことを忘れてしまったとしても、生きるために手術は受けるべきに決まっている。

 でも、小夜はそれを望んでいない。


 流空もまた……。

 いや、もうわからなかった。


 何が、小夜のためなのかわからない。


 自分が、どうしたいのかもわからない。


 何を失おうとしているのか、わからない。


 焦燥感ばかりが胸を焼いて、やたらと喉が渇いた。



 いま、僕はどうしたらいい?



 立ち尽くすことしかできない流空の耳に、何かの音が聞こえた。

 音がしたな、と思っていると、もう一度聞こえた。

 それがノックなのだと気づく間に、ドアが開く。


「小夜っち! お見舞いに来たよー!」

「お、渡会も来てたんだ」


 ピンク色でまとめた花束を持って、水城と野本が顔を出した。

 明るい顔をしようとしていたけれど、水城の笑顔は引きつっている。

 野本はすでに笑うのを諦めたように、真面目な顔をしていた。


 ふたりの後ろには、小夜の母親が立っていた。

 横にいる中年の男性は、おそらく父親だろう。

 流空だけではなく、このふたりにも説得を頼んだのだな、とぼんやりと思う。


「なあ、小夜ちゃんは?」


 空っぽのベッドを見て、野本が怪訝そうに眉根を寄せた。


「……出て行った」

「トイレ?」

「わからない」


 野本の眉間のしわが、腑抜けた流空の回答に深くなる。


「わからないって、どういうことだよ。まさか、いなくなったとかじゃねーよな?」


 そうかもしれない。

 そういえば、小夜は病室を出る時にバッグを持って出ていた。


 ここにいれば、手術を受けることになる。

 だから小夜はここを出て行った。


「そうかも」

「は!? お前はここで何してんだよ!」

「ちょっと野本、やめなさいよ!」


 乱暴に胸ぐらを摑まれ、揺すられる。

 視界がぐらぐらと揺れるのに、考えはさっきから同じところをぐるぐると回っていてまとまらない。

 出口が見つからない。


「僕は……小夜さんが出て行くのを、見てた」


 手のひらから零れ落ちていってしまう記憶。

 もう自分の中にはないそれを映像で見る度に、小夜はどんなに傷ついたのだろう。

 流空とデートの約束をしていた時にも、ビデオを熱心に見つめていた。

 あれは、前回のデートで何を話したのかを、自分の中に記録として入れるためだった。


「こ、の──馬鹿野郎!」

「っ──……」

「きゃあ!」


 思いきり殴られた衝撃で、目の奥に火花が散った。

 水城の甲高い悲鳴が響く。


「野本、あんた何してんのよ!」

「お前は黙ってろ!」


 水城が青い顔をして流空のほうへ駆けつけようとしたが、野本に一喝されて足を止めた。

 それに、流空は床に座り込んだまま、大丈夫だと手を振って見せる。


「立てよ。頭がしゃんとするまで、殴ってやる」


 胸ぐらを摑み上げられたが、立つ気力はなかった。


「他にどうすればよかった? 宥め賺して、無理やり手術を受けさせるべきだったって?」

「……相当頭わいてんのな。歯の一本くらい覚悟しろよ」


 野本が、拳にした手を上げた。

 誰かに殴ってもらえるほうが、気が楽だった。

 けれど拳は下ろされず、摑まれた胸ぐらを揺すられる。


「お前、どうしちゃったんだよ あんなに小夜ちゃんのこと好きだったろ!」


 野本の泣きそうに歪んだ顔に、小夜の泣き顔が重なった。


「仕方ないだろ! 小夜さんが、死にたくないって言ったんだ!」


 野本の胸元を掴み返し、乱暴に引き寄せる。

 間近で睨み上げると、また怒鳴り声が降ってきた。


「だから、手術すんだろうが!」

「何も知らないくせに!」



 ──何も知らないのに言わないで。



 自分の言葉はそのまま跳ね返るようにして、胸を抉る。


「手術をしたら、記憶がなくなる! いまの小夜さんが、消えるかもしれない!」

「っ……けど、命は助かんだろ!?」

「たとえ身体が生き延びても、それはもう他人だって! 別人だって! 手術をしても死ぬのと同じだって、小夜さんは泣いてたんだよ!」

「そういう時こそ、お前が支えてやらなくてどーすんだよ!」


 どちらも手を離さないでいると、「やめなさい」と低い声が仲裁に入った。

 ここをどこだと思ってるんだと言われれば、それ以上続けることもできなくて、ふたりほぼ同時に手を離す。

 責めてもらうこともできずに流空が俯くと、ぽつりと小夜の母親が呟いた。


「小夜が、泣いたの……?」


 初め、ひとり言かと思った。

 けれど、小夜の母親はしゃがみ込んで、流空の顔を覗き込む。

 それでようやく、自分に話しかけられているのだとわかった。


「小夜は、泣いていたの……?」


 もう一度聞かれ、流空は力なく頷いた。


「事故に遭った時からもうずっと、泣いていなかったのに……」

「ずっとって……六年も?」

「ええ。同じ事故で星太……弟を亡くして、私たちが酷く落ち込んだのを見ていたせいか、私たちの前では決して泣かなくなってしまった」


 誕生日会を開いてもらえなかったくらいで泣いていた子が、六年も。


「我侭も何も言わなくなってしまって……」


 小夜の母は、打ちひしがれたように言葉を呑む。


「どうして、そこまで……っ」


 嗚咽を漏らし始めた母親の肩を、父親がそっと抱き寄せた。


 どうして、命を捨ててまで手術を受けようとしないのか。


 その答えを知っているのは、わかってやれるのは、たぶん、自分だけだ。


 涙を見せる小夜の母親をぼんやりと見つめた。

 その流空の腕を乱暴に摑み、野本が無理やり立ち上がらせる。

 足に上手く力が入らなくて、流空は壁に寄りかかった。


「渡会、お前これでいいのか」

「俺は……小夜さんの望む通りにしてあげたい……」

「違えだろ! お前は、どうしたいんだよ!」


 胸ぐらを摑んで引き寄せられ、ガツン、と額同士をぶつけられた。

 痛みに顔をしかめる。


 自分がどうしたいのかなんて、この際どうでもいい。

 あの小夜が、望んだのだ。

 いつもいつも、自分よりも人の気持ちばかり優先してきた小夜が。

 それを、流空が叶えてやらなくてどうするのか。



 小夜が、小夜が、小夜が。



 頭の中にはそれしかなくて、うるさいことを言う野本を苛立ちながら睨みつけた。

 野本は流空の強い視線を受けてもたじろがなかった。


「このまま、小夜ちゃんと一生会えなくなっても、それでいいんだな?」

「……え?」

「小夜ちゃんの希望を叶えるってことは、小夜ちゃんがいなくなるってことなんだぞ」







 小夜が、いなくなる。







 桜の花吹雪が舞うように、頭の中に小夜との思い出がわっとあふれかえった。


 よろしくと言ったら睨まれた。

 カメラを向けるなと怒られた。

 同じ映画が好きだった。

 台詞を読むのが下手だと笑われた。

 この名前の意味を、思い出させてくれた。



 ──人を好きになる喜びを、教えてくれた。



 怒った顔、困った顔、戸惑った顔、悲しそうな顔。


 カメラに収めたすべての顔を、覚えている。

 けれどまだ、撮れていない。


 笑顔の写真を、撮っていない。


 古いポラロイド写真。

 大きなツバのついた帽子を両手で押さえ、母は笑っていた。


 また、繰り返すのか。

 永遠に、失ってしまう気なのか。


 絶対に嫌だと、ようやく身体が動いた。


「っ……行かなきゃ!」

「あ、おい!」


 野本を突き飛ばすようにして、ドアへ向かって走り出す。


「俺たちも手分けして探すぞ! 叶恵」

「う、うん!」


 廊下に飛び出した流空の背に、複数の足音が重なるのが聞こえた。

 小夜を悲しませたくないと思ったのも、小夜のしたいようにさせてやりたいと思ったのも本当だ。


 だけど──小夜の笑顔を、この世界から消したくない。


 小夜には、笑っていてほしい。

 たとえその笑顔が、流空に向けられないものだとしても。



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