表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きみを殺すための5つのテスト  作者: 狐塚冬里
第五章 大好きだから、さよなら
44/55

第七話 もう私じゃない

 小夜が入院している病院は、流空でも名前を知っているような有名な大学病院だった。

 本当にこんなところに小夜はいるのだろうか。

 こんな大きな、難しい手術ばかりしていそうな病院に。


 小夜の母親と約束してしまったので一応来たものの、流空はまだ疑っていた。

 ある意味、みんなの大げささを確認しに来たようなものだ。

 小夜がいるとしても、検査入院のようなものに違いない。


 さっさと済ませてしまおうと受付をみると、順番待ちの人であふれかえっていた。

 病室の番号は聞いていたので、自分で病室を探そうと歩き出す。


 病院に来る度に思う。

 どうしてこんなにも白いのだろう、と。


 それが清潔感のためだということはわかってはいても、自分が患者としてではなく、誰かに会いに来る時にはこの白さにたじろいでしまう。

 白という色は決して嫌いではないのに、不思議と怖れを感じてしまう。


 小夜が入院しているという一般病棟の個室は、比較的すぐに見つけることができた。

 本当にこの部屋に、小夜がいるのだろうか。

 ネームプレートがあるわけでもないので、何度も部屋番号を確かめた。

 こんなことなら、多少並んでも受付で入院患者の名前を確認してくるべきだった。

 それに、本当に小夜が入院しているとしたら、どんな顔をして会えばいいのかわからない。


 小夜には母親が来たことも、流空が病院に行くことも伝えていない。

 だから小夜はまだ、入院していることを知られているとも思っていないだろう。


 本人からではなく、第三者から聞いてしまったことが後ろめたかった。

 秘密を勝手に漏らされてしまったような、そんな感覚。


 ノックをできないまま立ち尽くしていると、中から微かに物音が聞こえてきた。

 流空の他に見舞客がいるのだろうか。

 耳を澄ませてみると、聞こえてきたのは流空自身の声で。

 小夜さん、と呼びかける自分の声に、鼻をすするような音が混じる。

 それを聞いてしまったら余計にノックはできなくて、音を立てないようにドアを横へと引いた。

 スライド式のドアは、こういう時には静かでいい。

 どうでもいいことを考えながら、一歩真っ白な病室へと足を踏み入れた。


 小夜は、入口に背を向けるようにしてベッドの上に座っていた。

 本当に、この大きな病院にいた。


 明るいパステルカラーのパジャマを着た小さな背中を丸め、肩を揺らしている。

 時折聞こえてくる自分の声で、小夜が録画したビデオを見ているのだとわかる。

 前期の授業をすべて終え、野本と水城と一緒に、大学の中庭で花火をした。

 その時のビデオだ。

 音だけでも、流空にはすぐわかった。

 それを見つめながら、小夜は項垂れている。


 どうして悲しそうな背中をしてるの?

 楽しい思い出なのに。


 その理由がもう流空にはわかってしまっているから、聞けるはずがなかった。



 小夜は──映像の中で起こったことを、覚えていない。



 小夜の中から零れ落ちてしまった思い出が、パチパチと爆ぜ、笑い声を立てた。


「小夜さん」


 ビデオの中で打ち上げがお開きになるまで待ってから、声をかける。

 小夜は大きく肩を震わせただけで振り返らなかった。

 パジャマの裾で慌ただしく顔を拭い終えると、ようやく流空を振り返る。


「どうして流空くんがここにいるの?」


 怒ったような顔をしようとしたのだと思う。

 けれどそれは成功していなくて、言い終える時には大粒の涙が頰を濡らした。

 すぐに誤魔化すように拭ったけれど、一度あふれだした涙は止まらなくて。


「……小夜さん」


 近づこうとした流空に、小夜が手を広げた。


「待って。ちょっとだけ、待って。大丈夫。大丈夫だから」


 ぐいぐいと乱暴な手つきで顔を拭い、口の両端を無理やり引き上げる。

 見ていられなくて、大股で近づくと抱きしめていた。

 小夜の小さな身体は流空の腕の中にすっぽりと収まってしまい、触れ合った箇所から震えが伝わってくる。


「……大丈夫なんかじゃ、なかったんだね」


 問いかける流空の声も震えてしまいそうで、腕の中の高い体温をきつく抱きしめた。

 抱きしめているはずなのに、流空のほうが縋っている。

 腕の中から、くぐもった声が上がった。


「大丈夫だよ。なんでもないの。全然、大丈夫」


 大丈夫なら、どうして泣いてるの?


 震えたままの身体を抱きしめたまま、真っ白な天井を見上げる。

 そこに答えなんてあるはずもないのに、睨むように見つめた。


 大丈夫だと、小夜に言わせてしまったのは流空なのかもしれない。

 流空が不安そうにするから、小夜は相談することもできずにひとりで抱え込んだ。

 流空が母の死という現実と向き合ったばかりということもあり、余計に言い出せなかったのだろう。

 ひとりにしてごめんと、抱く腕に力を込める。


「今日ね、小夜さんのお母さんがバイト先に来たんだ」

「……そうだったんだ。ごめんね、急に」


 お互いの顔を見ないままに、会話を始めた。

 小夜が座っているせいで、回された腕は流空の腰の辺りに巻き付いている。


「教えてもらった。手術のこと」


 小夜は何も言わない。


「……怖いよね。僕だったら、怖い。けど、時間がないとも聞いた」


 流空が話す間、小夜は流空の心音でも聞くように胸にきつく耳を押し当てていた。

 その小さな頭を、流空も抱きしめる。


「小夜さんがいいって言ってくれるなら、一緒にいる。だから、手術を受けよう?」


 どん、という強い衝撃。


 何が起こったのかすぐにはわからず、ほんの少し前まで腕の中にいたはずの小夜が離れていることに、ようやく突き飛ばされたのだとわかった。

 小夜は酷い裏切りを受けたかのような傷ついた顔で、流空を睨みつけている。

 その瞳は涙に濡れていても強く輝いていた。


「やめて。手術を受けろなんて、何も知らないのに言わないで」

「落ち着いて、小夜さん。ちゃんと聞いてる。成功確率の高い手術なんだよね……? それに、早ければ早いほうがいいって」


 ちゃんと聞けていたわけではない。

 小夜の母親の説明は上手く頭に入ってこなかったし、専門的なことなど特に理解がまったく追いついていなかった。

 わかっていることはただひとつ。

 手術をしないと──小夜の命が危ないということだ。


「やっぱり……」


 低い呟きに、眉根が寄る。


「やっぱり、って……?」

「全然、ちゃんとなんてしてないよ」


 小夜らしくない、吐き捨てるような口調にどきりとした。

 何も話を聞いていなかったくせに、と責められているような気がして。

 けれど、小夜は流空を責めているわけではないようだった。

 組んだ自分の手をじっと見下ろしたまま、ひとり言のように言う。


「お母さんが、話すわけないよね」


 小夜の唇が、何かの感情を抑え込むように震えた。

 一体何を、自分は知らないのだろう。


 聞くのが怖い。

 けれど、知らないのも恐ろしい。


「どういうこと……?」


 流空の問いに、小夜は視線すら上げなかった。


「……手術をして身体が助かっても、いまの私は死んじゃうんだよ」


 その声はとても、とても小さくて。

 数秒遅れてから「え?」と間の抜けた声が出た。


 死んじゃう?

 どうして。

 手術をすれば助かるって、聞いたのに。


 上手く反応することもできない流空に、小夜は口の中で「ごめん」と一度謝った。

 謝罪の意味すら、流空にはわからない。


「教えて、小夜さん。どういうことなの……」


 小夜は一度大きく呼吸を吐き出してから、教えてくれた。

 小夜の中で、何が起きているのかを。


「事故に遭って経過観察って言われた時、聞いたの。絶対に大丈夫だって言えるのはいつになりますかって。そうしたら先生、困っちゃって。世の中に絶対は絶対にないんだって言われたけど、私……引き下がらなかった」


 先生、ちゃんと教えてください。

 絶対じゃなくてもいいんです。

 教えてください。


 中学生の女の子が強い瞳で医師に詰め寄る姿が脳裏に浮かぶ。


「最後には先生のほうが折れて、五年だって言われた。一年経過観察をして、そのあと五年経っても大丈夫なら、心配いらないよって」


 当時のことを思い出しているのか、小夜の目はどこか遠くを見つめている。


「覚えてる? 台風でできなくなったお誕生日会の話」

「うん」


 楽しみにしていたのに、台風のせいで誕生日会を開くことができなかったと、言っていた。

 あまりに楽しみにしていたから大泣きしてしまって、両親だけではなく弟にまで慰められた、と。


「その翌年の誕生日は、家族旅行に行くことになったの。去年できなかった分も、盛大に祝おうって……バスに乗った。乗った時は四人家族だったのに、帰ってきた時は三人になってた。弟が、死んじゃったの」


 ──星太のことがあるから……。

 ──やりたかったなー、お誕生日会……。


 できなかったのだ。

 本当に。


 祝われるべき日が、弟の命日になってしまい、誰も口にできなくなった小夜の誕生日。

 子供の頃の話だと言っていたけど、あれは中学生の頃の話だったのか。


「経過観察の一年間は、本当に毎日びくびくしてた。頭の中に爆弾でも持ってるみたいな気分って言えばいいのかな。でも何事もなく一年が過ぎて、ちょっとだけ気持ちに余裕が出てきて……。一番危険な一年が過ぎたんだから、あと五年我慢すれば大丈夫。たった五年ならなんとかなるって、自分に言い聞かせたの。それでも……一日が過ぎるのがすごく長かった……」


 まるで長い年月を生きてきた老婆のように、小夜が深く、重く溜息をついた。


「でも最近はね、一日なんてすぐ過ぎちゃって明日が待ち遠しいくらいだったんだよ。流空くんと、みんなと過ごすのが楽しかった。……ゴールまであとちょっとだったせいもあったのかな。来週の誕生日を迎えられたら、全部、笑い話にしてやろうって思ってたのに……どうして今なの?」


 小夜の頰を、透明な涙が音もなく濡らしていく。


「私の頭の中では、今も石になった血が脳を圧迫してるんだって。それを取らないと……」


 死んじゃうの、と他人事のように言って、小夜は濡れた頰を手のひらで拭った。

 気丈な瞳が、問題はそこじゃないと訴えている。


「手術をしたら助かるんだからってみんな言うけど、私は覚えてる。先生は、手術をしたら高確率で多くの記憶を失ってしまうことになるでしょうって言ってた」


 小夜の声は震えていた。


「そんなのおかしいよ。記憶がおかしくなっちゃってるから手術をするはずなのに、その手術で記憶を失うなんて。先生にもそう言ったら、手術する場所が問題なんだって言われた」

「難しい場所なの……?」

「……扁桃体と、海馬の近くなんだって」


 医学に明るくない流空も、海馬の名前は聞いたことがある。

 確か、脳の中でも記憶の中核を担う場所だったはずだ。


「どうせ忘れちゃうなら、なんのために手術なんてするの……っ」



 ──それは、きみの命をここに繫ぎ止めるため。



 わかりきっている事実だったけれど、流空にはそれを小夜に言うことができない。


「私だって、死んでもいいなんて考えてるわけじゃないんだよ。弟の分もしっかり生きなきゃって、できるだけいい子になろう、ってがんばってきた」


 小夜の目は、言い訳をする時みたいに自信がなさげだった。


「手術をしてみんな忘れちゃう覚悟だって……ずっと前からしてた。経過観察の一年が過ぎて、いい加減前を向かなきゃって、五年前にビデオカメラを使うことを思いついて」

「もしかしていつもビデオ撮ってたのって……」

「そう。失くなるかもしれない、記憶のコピーを撮ってたの。いつ、忘れちゃうかわからないから、なるべく友だちも作らないようにしてた。友だちに忘れられちゃったら、悲しいだろうから」


 こんな時まで、小夜は人のことばかりだ。

 忘れられるほうも辛いが、忘れる本人だって辛いはずなのに。


「できるだけ目立たないように、人の記憶に残らないようにってがんばってきたつもりだけど……でも、友だちはできちゃった。だからせめて大切な人だけは作らないようにしよう! って決めてたのに……上手くいかないね」


 涙目のまま無理した笑顔を向けられて、奥歯を嚙みしめた。


「……もし記憶を失うことがあっても、記憶のコピーさえあれば大丈夫だと、思ってた。忘れちゃったなら、それを見て思い出せばいいって単純に考えてたんだよね。でも、全然違った」


 小夜の黒目がちな瞳が、流空を見つめる。

 いつだってキラキラと輝いていたその瞳は、深い穴を覗き込んだように真っ暗だった。



 光が、見えない。



「さっきも、そう。思い出すためにビデオを見てたの。消えた分のビデオを見れば、『ああ、これか。これを忘れちゃってたのか』ってすぐ思い出せると思ってたのに、私……何も感じなかった。何もだよ?」

「小夜さん……」

「ビデオの中で花火をしてた私は、もう私じゃない。どうしてあの時笑ってたのか、わからない。どうして流空くんが私に笑いかけてくれたのかも、わからない。空っぽの容器にいくら私らしいものを詰め込んでも、私にはならなかった」

「……小夜さんは、小夜さんだよ」

「違うよ!」


 悲痛な叫びが、病室の窓ガラスをビリ、と震わせた。

 小夜は大粒の涙を拭おうともせずに、見開いたその目で流空を見つめている。

 瞬きをする一瞬でさえも忘れてしまうと怯えるように、昏い瞳が流空を捕らえて放さない。


「私はもう……流空くんが好きだって言ってくれた時のことを思い出せない。恋人なんだってことはわかってるし、きみのことを好きだって気持ちはあるのに、いつ、どこで好きって言ってもらったのか……どうしても、思い出せない」


 忘れてしまってもいい。

 何度でも、何回でも、好きだと繰り返すから。


 その言葉が、どうして出てこないのだろう。

 そんなこと、わかっている。


 いくら言葉を尽くそうとも、想いごと消えてしまうのなら言葉に意味などないからだ。


「……せっかく来てくれたのに、ごめんね。私は、手術は受けません。手術を受けたらきっと、空っぽになっちゃうから」


 空っぽになることは、死ぬということなのだろうか。

 身体が生きていたとしても、きみはそれを死と呼んでしまうのか。


 流空にはわからない。

 でも、小夜がそう考えるだろうことは、わかってしまう。


 そういう小夜を、好きになった。


「私……これ以上、きみを忘れたくないよ」


 小夜が、病室を出て行った。

 どこに行くのとか、もう外は夜だとか、小夜を引き留めるための理由はたくさんあるはずなのに、引き留められなかった。


 スライド式のドアが、音も立てずにゆっくりと閉まる。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ